幕間・聖女セレスティナの過去
最初に覚えているのは、冬の匂いだった。
凍えた土と濡れた木の皮、煮詰めすぎた薬草の苦味が混ざった、貧しい家の匂い。
セレスティナは生まれつき身体が弱かった。朝目覚めるたびに胸が痛み、息を吸うたびに喉の奥がひりついた。母は「大丈夫よ」と言いながら背を撫でてくれる。その手は、いつも冷たかった。
父はいなかった。物心つく前に流行り病で亡くなったと聞かされていた。
残されたのは病弱な長女と、まだ幼い弟妹たちと、働き口を転々とする母だけだった。
冬が来るたび、医師は首を横に振った。
この子は次の冬を越せないかもしれない、と。
だから――神殿の人間が村に来た時、母は泣きながらも彼女の手を離した。最後に感じた母の手は、やはり冷たかった。
「この子には……祝福の兆しがある」
白い聖衣の神官はそう言った。声は優しく、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。
「神殿に来れば、治療を受けられる。学びも与えられる。何より――この子が選ばれれば、家族は救われる」
その言葉が、すべてだった。
選ばれる。救われる。
幼いセレスティナには、その意味がよく分からなかった。ただ、母が泣きながらも神官に縋るように視線を向けていたことだけは、はっきりと覚えている。
だから彼女は頷いた。自分が行けば、みんなが助かるのだと信じて。
◆
神殿は、白く、静かで、冷たかった。
石造りの回廊は音を吸い込み、夜になると自分の呼吸音だけが響いた。
最初は治療だった。薬と祝福によって身体は少しずつ楽になり、息をすることがこれほど楽なのかと、驚いた。次に教えられたのは、祈りと作法だ。聖女は神の器であり、器に意志は不要だと、何度も何度も繰り返された。
「あなたは特別なのよ」
そう言ってくれたのは、年老いた修道女だった。その言葉が嬉しかった。自分には価値があるのだと、初めて思えたから。
初めて儀式に立った日のことは、今でも覚えている。金色の光。祈りの声。苦しんでいた男が、涙を流しながら「ありがとう」と言った。その瞬間、喉の奥が詰まるような、熱いものがあった。
誰かの役に立てた。自分がここにいる意味が、確かにあった。
だから――多少の痛みは、我慢できた。
祝福の後、決まって身体が重くなった。立っていられなくなることもあった。それでも「代償です」と言われれば、納得した。神の奇跡には、代償が必要なのだと。
◆
違和感が確信へと変わったのは、数年後だった。
夜中、儀式の準備室で目を覚ました時のこと。扉の向こうから低い声が漏れ聞こえた。
「……老化症の患者が、また一人亡くなりました」
「構わん。代わりはいくらでもいる」
老化症。
その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
理由もなく急激に老いる病。
神殿が"保護"しているとされる人々のことは、噂には聞いていた。
翌日、セレスティナは偶然、地下へと続く通路を見つけた。
石の階段を下りた先で見たものを彼女は一生忘れないだろう。
干からびたような手。虚ろな目。生きているのに、時間だけを奪われ続ける人々。一人の老人が壁に向かって何かを呟いていた。耳を澄ませると、それは祈りの言葉だった。神殿の奇跡を信じたまま、ここで消耗されていく人々。
祝福は、奇跡ではなかった。
誰かの人生を削って、別の誰かに与えているだけだった。
その事実を知った瞬間、吐き気がした。自分がしてきたことが急に恐ろしくなった。
けれど――彼女は告発しなかった。
なぜなら、分かってしまったからだ。ここで自分が拒めば別の聖女が立たされる。もっと若く、もっと何も知らない子が。
ならば、自分が引き受けるしかない。
「私がやります」
その言葉を口にした時、彼女はもう泣かなかった。
扉を閉めた後、壁にもたれてしばらく動けなかった。
自分一人が苦しめば、被害は最小限で済む。それが、彼女自身に言い聞かせた理由だった。
◆
そして――リリアに出会った。
公爵邸で手を取られたあの瞬間、何年も体の奥に居座っていた痛みが、ほんの一時だけ消えた。リリアは何も奪わなかった。奪わずに、ただ治すことができる人だった。
穏やかな声で患者の手を取り、ただ治療を施す。その代償を自分に引き受けながら。
「……どうして、そんなことができるの?」
思わず、そう呟いてしまった。
奪わずに救う。耐えずに救う。そんなやり方が、この世界に存在するのだと――初めて知った。
◆
だからセレスティナは、決めた。
神殿には従う。けれどリリアだけは――同じ道を歩かせない。
罰を受けるとしても、構わない。
――今度は、誰かを犠牲にしない選択を。
それが、聖女セレスティナの祈りだった。




