第18話 奪われた場所、祈られる門
最初に異変を感じたのは、音が消えたことだった。
洗面所で確かに聞こえていたはずの、祝宴のざわめき。楽師の奏でる弦の音、杯と杯が触れ合う澄んだ響き、人々の弾んだ笑い声。それらがまるで分厚い布で覆われたかのように、遠く、遠く、遠ざかっていく。
続いて、香辛料の芳香も消えた。床の冷たさも感じられなくなった。
(……?)
突如、視界が白く滲んだ。
床も、壁も、鏡も。王宮の洗面所を形作っていたものが、ひとつひとつ輪郭を失っていく。
思わず一歩後退しようとして――足が、床を踏みしめていないことに気づいた。
(立っている……? それとも、浮いている?)
身体の感覚が曖昧だった。重さがないわけではない。けれどどこにも頼れるものがない。息を吸い込むと胸がきしんだ。
体から勝手に力が抜けていくような――。
それは知っている感覚だった。
時間が戻される直前。【時間逆行】が無意識に発動しかけた時の、あの嫌な前触れ。
(だめ……今は)
ここで力を使えば何が起きるかわからない。リリアは歯を食いしばり、意識を保つことだけに集中した。
直後――。
白がはっきりとした"光"へと変わった。そしてリリアは、見知らぬ場所に立っていた。
天井が高い。
王宮のどの広間よりも高く、しかし装飾は驚くほど少ない。白銀の石で造られた壁は冷たく、音を吸い込むように静まり返っていた。
背後に巨大な門があった。人の背丈の三倍はあろうかという圧倒的な存在感。白銀の枠には金で縁取られた聖句が刻まれ、天使や聖女、聖獣を模した見事な浮き彫りが施されている。しかし――その多くは、顔を削られていた。
(……聖門)
頭の中に言葉が浮かぶ。見たことはない。けれど聖門には聖なる道があると噂話で聞いたことはある。神殿の深部に存在する、選ばれた者だけが通ることを許される門と、祈りと裁定のための神の道。
削られた顔の浮き彫りを見つめながら、リリアはぼんやりと思った。誰かを消そうとしたのか。あるいは、かつて崇めていたものが変わったのか。どちらにしても、何かが意図的に消されている。
「――導きは果たされた」
低い声が、冷えた空気を震わせた。
振り向くと聖衣を纏った神官たちが数名、半円を描くように立っていた。誰もリリアと視線を合わせようとしない。
聖女セレスティナは苦痛に満ちた表情で、リリアの背後に立ち尽くしていた。
リリアを救うことができなかったことを悔いているかのように。
(……彼女のせいではないのに)
セレスティナが無事で良かった。しかし彼女はずっと苦しそうなままだ。
神官たちの中から、マルクス枢機卿が一歩前に出た。
「リリア・ヴァルディエール子爵」
彼に名を呼ばれ、背筋が強張る。
「あなたは神殿の裁定により保護されることとなりました」
「……保護?」
声が思ったよりも冷静に出た。
「私をここへ連れてくる理由は?」
マルクス枢機卿は答えない。代わりに、別の神官が口を開いた。
「質問は不要です。あなたの存在は――世界の均衡を乱しかねない」
その言葉に、腹の底がすっと冷えた。マルクスがその神官へ、わずかに視線を向けた。制するような、あるいは計算するような眼差しだった。
(ああ……そういうことか)
《老化症》を治した。王を救った。誰からも奪わずに、時間を戻した。それが彼らにとっては"異物"なのだ。秩序の外にある、排除すべき何か。
足元に聖句が浮かび上がる。淡い光が弧を描きながら広がり、ゆっくりとリリアを取り囲んでいく。
逃げ場はない。
諦めたくはなかった。しかしどこにも逃げられないことも分かっていた。
視線を上げると、セレスティナがわずかに顔を持ち上げた。一瞬だけ、リリアと目が合う。
そこにあったのは決意のような感情だった。
その眼差しが、余計に心をざわつかせる。セレスティナは何か言いかけて、唇を噛んだ。彼女の指が胸元の聖具を強く握り締め、ぐっと前へ差し出した。何かを送り出そうとするように。
(……?)
再び、門が光り始める。今度は先ほどよりも遥かに深い白だった。
空気が重く沈み込む。身体が引かれる感覚がした。前へではない。下へ。
(……地下)
リリアは思い出す。初めて《老化症》のアレクシスに触れた日のことを。リリアは均衡を乱したかったわけじゃない。ただ目の前の彼を救いたかっただけだ。
リリアは聖門の向こう側へと落とされていく。光の中で音が消えた。重力が曖昧になる。
セレスティナの声が、遠くから届いた気がした。
「……間に合って……」
(何に……?)
答えを知る前に、視界が暗転した。
次に足が地を踏む時、リリアはもう――戻れない場所に立っているのだろう。
地下第二層へと続く、祈りの道の前で。




