幕間・大司教セラフィムの過去『神が沈黙した日』
神殿の石段は、冬になるとひどく冷えた。
白い大理石は美しく磨き上げられているが、裸足で立てばその冷たさは骨の芯まで染み透る。少年セラフィムは、その感覚をよく知っていた。何度も、何度も、繰り返し刻まれた記憶として。
祈りの時間が終わるまで神殿の外に立たされることは、彼にとって日常だった。
「弱き身を嘆く前に、まず信仰を示しなさい」
それが神官たちの変わらぬ口癖だった。
セラフィムの母は病弱だった。
名もなき平民の女で、この世に誇れるものはただひとつ――深く、揺るぎない信仰心だけ。朝も夜も祈りを欠かさず、神殿へ納める奉納金のために、ぼろ切れも同然の衣を丁寧に繕い続けた。
それでも病は良くならなかった。
肌は次第に張りを失い、髪には白いものが混じり始め、少し動くだけで激しく息を切らすようになった。
今思えば、それは後に《老化症》と呼ばれる症状に酷似していた。だが当時、その変化を病と認識する者はいなかった。
――ただの"神の試練"。
その一言で、すべては片づけられていた。
「神は、耐え忍ぶ者を愛されるのよ」
母はそう言って、微笑んだ。
セラフィムは、その笑顔が好きだった。だから、信じた。信じて祈った。信じて頭を垂れた。信じて、神殿の冷たい石段に膝をついた。
だが――神は、何も答えなかった。
母が倒れたのは、冬の始まりのことだった。
神殿の門前で、祈りを終えた直後――石段を下りようとした瞬間、母の膝が力を失い、そのまま崩れ落ちた。
「母さん!」
少年の叫び声は、白い神殿の壁にただ吸い込まれていくだけだった。
セラフィムは母の体を抱えようとした。しかし痩せ細った体を支えきれず、ふたりで石畳に倒れ込んだ。それでも母の名を呼び続けた。声が嗄れるまで、何度も何度も。
神官はすぐそこにいた。しかし彼は歩みを止めなかった。
「神殿は、治療の場ではございません」
それが理由のすべてだった。
泣きながら助けを求めたが、返ってきた言葉は、冷静で、事務的で、そして残酷なものだった。
「信仰が足りなかったのでしょう」
母はそのまま、神殿の石段で息を引き取った。最後の瞬間まで、神の名を口にしながら。
――ああ、と。
そのとき少年は、初めて理解した。
神は、救わないのだと。
だが、怒りはなかった。憎しみも湧かなかった。虚無だけが、ただそこにあった。
しばらくの間、セラフィムは母の亡骸の傍を離れなかった。石畳は冷たく、風も冷たかったが、立ち上がる理由がどこにも見つからなかった。やがて夕暮れの鐘が鳴り、ようやく彼はひとり立ち上がった。
「神が救わないなら」
少年は、ひとりごとのように思った。
「人が、救うしかない」
それが、すべての始まりだった。
セラフィムには、才能があった。
魔力の感知、理論の理解、儀式の構築。いずれをとっても同年代の神官見習いたちを遥かに凌ぐ力を持っていた。神官たちは彼を重宝し、こう囁き合った。
「あの子は、神に選ばれた器だ」「神の導きを受けている」
やがて彼は特別な書庫への立ち入りを許され、禁書とされる古文書の閲覧を認められた。
そこには、こう記されていた。
――生命力は、循環する。
――奪われた力は、別の形で現れる。
神の奇跡ではない。神殿が長年隠してきた、"人の理"だった。信者から生命力を奪い、《老化症》と偽ることで、他の者を救うこともできる。奉納金を多く収めた者だけが聖女の祝福を受けられるのも、そういうことだ。
セラフィムは夢中になった。神ではなく、人の手で救える道がある。母が救われなかったのは、神が沈黙したからではない。神殿への奉納金が足りなかったからだ。母は神殿から搾取された被害者だった――そうセラフィムは確信した。
だが、確信は歪んだ。
古文書の末尾に、もう一行あった。
――生命力が十分に蓄積されれば、光輪神ルクシエルは再臨する。
それを読んだ瞬間から、すべての目的が変わった。光輪神が甦れば、死んだ者も救えるかもしれない。母を生き返らせることができるかもしれない。根拠はなかった。だが彼は、その可能性にすがった。すがらなければ、正気でいられなかったからだ。
――母を《老化症》にした当時の枢機卿たちが、神殿から姿を消したのはそれからほどなくしてのことだった。セラフィムが彼らの排除に加わったと、後に囁かれることになる。
神殿に残ったのは……聖女セレスティナと膨大な生命力を溜め込む魔導炉。
人々から広く生命力を集めるために、セラフィムは《老化症》を増やすことを決めた。病を与えることで神殿への依存を強め、その恐怖を奉納金に換える。奪った生命力は魔導炉へ。それが彼なりの"救済の仕組み"だった。
神殿の祝福と称して邪魔者も消してきた。
死への恐怖は、人を神殿へと縛りつける。
――そこに秩序が生まれる。
「これは人類の救済だ」
セラフィムは、そう結論づけた。
すべての者を救う必要はない。救われるに値する者だけを選別する。そうすれば世界は安定に保たれる。己の望みを叶えると同時に、人々に平穏をもたらすのだ。
かくして彼は、大司教となった。この世界に神はいないと知りながら、神の名を広め続けた。
だが――リリアが現れた。
公爵の若返りを知らせる報告書を読んだ時、初めて手が震えた。
祈りも、儀式も、代償もなく。誰からも何も奪わず、ただ《老化症》を"なかったこと"にするという少女が。
その存在は、セラフィムのこれまでの人生そのものを否定していた。
「そのような奇跡が、許されていいはずがない」
彼は初めて恐怖した。神殿が壊れるからではない。世界が乱れるからでもない。
――自分が間違っていたと証明されてしまうから。
だから彼は決めた。あの少女は、排除されるべきだ。それは世界のためであり、そして自分自身を守るためでもあった。
神が沈黙したあの日から、彼は一度も祈っていない。
それでも、神の名を掲げ続けている。いつかの本物の神が現れ、彼を導いてくれることを信じて。
――それが、神を失った人間が辿り着いた、唯一の"救済"だったから。




