第17話 快気祝いパーティ
王宮の大広間は壮麗な装飾で彩られていた。高窓から差し込む柔らかな陽光が大理石の床に反射し、壁に並ぶ名画の陰影を際立たせる。金糸で縁取られた真紅のカーテンが微風に揺れ、天井から吊り下がるシャンデリアの光が水晶を通して幾重にも煌めいていた。
「叙爵式を執り行う!」
典礼官の声が広間に響き渡ると、集った貴族たちが一斉に姿勢を正した。リリアは列の最前列で息を殺して佇んでいる。
中央階段の上段に国王レオニスが威厳ある姿で現れた。隣には優雅な微笑みを浮かべる王妃エレオノーラ。その後ろには王太子レオンハルトと、軍服姿のアレクシスが控えている。国王の顔つきは数日前までとは別人のように生き生きとし、眼差しは鋭くも温かかった。
その姿を見て、後方の貴族たちがざわめいた。
「……本当に《老化症》を克服なさったのね」
「信じられないわ」
そして衆目がリリアへと集まるのを感じる。緊張で足が震えそうになるけれど、隣のアレクシスが視線を向けてくれた瞬間、不思議と落ち着きが戻ってきた。
「リリア、心配しなくていい。私がついている」
小声で言われた言葉に励まされ、リリアは静かに微笑んだ。
「神聖なるヴァルディエール王国において──」
国王が荘重な口調で宣言を始めた。
「新たなる忠義と才能を称えるため、ここにリリア・エルフェンハイン・ローデンヴァルトにヴァルディエールの名を与え、リリエール子爵に叙す!」
会場が一瞬にして騒めいた。「ヴァルディエール?」と驚きの声が交錯する。王族姓を名乗ることの意味は明白だ――国王直轄の特別な庇護下にある証であり、神殿でさえ容易に手出しできない盾となる。
(陛下は……私を護るために、こうしてくださったのね)
リリアは震える息を呑んだ。ハイデルシュタイン伯爵家から厄介払いされた娘が、今日、王族の姓を授かる。この場所に立つ自分が、まだ信じられなかった。
国王が階下へ降りると、典礼官が純白の布で覆われた台を恭しく捧げてきた。その上に載るのは白金の徽章だった。太陽と双蛇を象ったヴァルディエール王家の紋章が刻まれ、周囲には七つの小粒ダイヤモンドが星のように散りばめられている。
「汝を『王室治癒子爵』として任命する。我が臣民の幸福を第一に考え、新たな領土を統治せよ」
国王はその勲章をリリアの胸元に留めながら宣言した。リリアは震える膝を踏ん張り、精一杯の所作で深く一礼した。
「謹んで拝命いたします」
授けられた領地、リリエール村は王都南門外にある元神殿領の土地だという。人口は数百から千人ほどと聞いているが、自分が領主になると思うと身が引き締まった。
そこへエレオノーラ王妃が優雅に歩み寄り、リリアの耳元にそっと囁いた。
「素敵なドレスね。よく似合っているわ」
リリアが纏っているのは王妃が直々に用意した新緑色のドレスだ。緞子のような光沢を持つ生地には銀糸の刺繍で朝露に濡れた野原が模されており、裾にはパールとエメラルドが蔦状に編み込まれている。肩口の透かしレースは東洋の蝶を象り、王妃の審美眼が存分に発揮された一着だった。
「ありがたき幸せに存じます」
「胸を張りなさい」
叙爵の儀が終わると同時に広間の照明が切り替わり、楽隊が管弦楽を奏で始めた。香辛料の効いた料理の芳香が漂い、一転して祝宴の空気に包まれる。
「国王陛下の快気を祝して!」
大公が杯を掲げると貴族たちが唱和し、乾杯の声が響き渡った。リリアが薄紅色の葡萄酒を飲み干すや、四方八方から貴賓たちが押し寄せてくる。
「素晴らしいドレスですわね」
「この刺繍は隣国ギランの工房でしか扱わない特注品らしいですぞ。王妃殿下のご親愛ぶりが窺えますな」
口々に称えながらも、「領地はどう管理なさるおつもりですか?」と鋭い質問が飛んでくる。リリアは作り笑顔を崩さずに応じた。
「まずは領民の皆様との話し合いから始めようと思っております」
「でしたら税制ご専門の我が家から執事を」
「いやいや農法に詳しい知人をご紹介しましょうか」
次々と押し寄せる援助提案に圧倒されかけた瞬間、リリアの肩に手が置かれた。振り向けば、軍服のアレクシスが穏やかに微笑んでいる。
「我が妻のことを心配してくれて、ありがとう。領地については心配ご無用だ。私がリリアの力になる」
「王弟殿下がいらっしゃるなら安心ですわ」
女性陣は目配せを交わし、そそくさと退いていった。
「さっきは素晴らしかったよ。夫として鼻が高い」
アレクシスはリリアの胸に輝く白金の勲章を見て目を細めた。
「ありがとうございます」
アレクシスはリリアの手を取り、ホール中央へとエスコートする。ダンスフロアでは既に幾組もの男女が優雅に舞っていたが、リリアの登場に気づくと踊り手たちが円形に場を開けた。拍手喝采に包まれ、ふたりは定位置についた。
「最初のステップは右足からだよ」
アレクシスが囁くと、リリアは小さく頷いて足を踏み出した。最初は戸惑ったものの、彼のリードは巧みで安心感を与えてくれる。緩やかなワルツの旋律に合わせて体が自然と流れ出し、緊張が徐々にほぐれていった。
「こんな風に人前で踊るのは初めて……」
「ではこれから何度でも経験すればいい。私の妻は社交界で最も注目される存在なのだから」
アレクシスの声は柔らかいが、その瞳には隠しようのない熱が宿っていた。
観衆が「王弟殿下のご寵愛深きリリエール子爵」「羨ましいご夫婦だわ」と囁き合う中、アレクシスはリリアの腰をそっと抱き寄せ、流れるようにターンする。
「痛くはないか?」
「大丈夫です」
一曲目が終わると、会場中から大きな拍手と歓声が巻き起こった。
「お二人とも見事でしたぞ!」
「王弟殿下は普段儀礼的なダンスしかなさらないとお聞きしておりましたが……」
「大切な女性と一緒だからだよ」
アレクシスはウィンクしながらリリアの耳元に唇を寄せた。その瞬間、貴婦人たちの悲鳴にも似た嘆息が漏れる。
次々と紳士たちが「次は私とも」と声をかけてくる中、アレクシスがリリアを庇うように前に出た。
「妻はまだ慣れない環境で疲れているんだ。申し訳ないが……」
彼はリリアの腰をしっかりと支え、階段を上りながら国王に向かって一礼した。
「陛下、失礼いたします。妻を休ませる必要がありますので」
「構わんよ。お前の妻は注目の的だからな。ゆっくり休ませてやれ」
かつての虚弱さが微塵も感じられないその声に、リリアは心底安堵した。
「リリア嬢、今宵は素晴らしい夜だったぞ」
「ありがとうございます、陛下」
◆
祝宴の音が遠く滲む夜の廊下で、リリアはようやく深く息を吐いた。冷たい空気が頬に触れ、肺の奥がほっとほどけるようだった。
アレクシスが侍従から受け取った白銀狐のコートを、リリアの肩にかけてくれた。
「すみません、少しお手洗いに……」
アレクシスが頷き、護衛騎士たちが「扉の前でお待ちします」と告げる。
リリアは大理石の洗面所へと足を進めた。貴賓専用のためか人気がなく、静寂の中に豪奢な金縁鏡が輝いているだけだった。
その壁際に、一人の女性が身を縮めるようにして立っていた。今にも倒れそうだ。最初はどこかの貴族令嬢かと思ったが、近づくにつれて妙に見覚えのある線の細さと銀髪が目に入り、リリアは足を止めた。
「大丈夫ですか?」
リリアは迷わず歩み寄った。女性がゆっくりと顔を上げた瞬間、リリアは息を呑んだ。
「セレスティナ様……? どうしてここに……」
公爵邸で顔を合わせた聖女セレスティナだった。聖女のローブではなく、変装のようにドレスを身に纏っている。その右手首には、細い鎖の跡があった。体は小刻みに震えている。ここまで来るのに、どれほどの覚悟が要っただろうかとリリアは思った。
「……リリア様。私はあなたを逃がしに来ました」
決意に満ちた声だった。
「え……?」
「私は大司教から命じられました。あなたを神殿地下へ連れてくるように、と。けれど……私にはとてもできません」
背筋が冷たくなる。
「神殿地下へ……どうして……」
「おそらく、あなたの力を――縛るためです」
セレスティナは唇を噛み、続ける。
「私は無力で、ただ従うことしかできませんでした。でもあなたを巻き込みたくないんです。リリア様は本物の聖女様だから……私のような偽者とは違う」
「セレスティナ様……」
「早くここから立ち去ってください! 王宮には至るところに聖門があります。ここにも大司教が陛下のご許可なく作った門が……」
震える指がリリアの袖を掴んだ。紫の瞳に涙が浮かんでいる。
「お願い、逃げて!」
その瞬間──。
かすかな靴音がした。空気の質が変わる。
「ほう。逃げる、とはどういうことかな?」
冷たい嘲笑が石壁に反響した。
セレスティナの体が硬直する。背後の闇からゆっくりと白いローブが現れた。白髪交じりの金髪が月光を受け、紫の瞳が闇のように冷ややかに光っている。大司教セラフィムだった。
「聖女セレスティナ。君の任務はリリア嬢を連れてくることではなかったかね?」
蜜のように甘く、しかし刃のように鋭い声だった。
「申し訳……ございません」
セレスティナの唇が青ざめる。それでも彼女は震える脚を踏ん張り、リリアの前に立ち塞がった。
「でも、私は……こんな方法は間違っています……!」
「間違っている、だと? ならば君が正しい方法を教えてくれたまえ」
大司教の右手が持ち上がった。
──【神威支配】
目に見えぬ圧力がセレスティナを直撃した。全身が電撃に打たれたように痙攣し、彼女は床に崩れ落ちる。
「あああぁぁっ!!」
「セレスティナ様!!」
リリアは叫び、支えようと手を伸ばす。しかしセレスティナは爪で床を掻きながら悶絶し、白銀の髪を逆立たせていた。
「これまで従順だったのに、命令に逆らうとはな。偽りの聖女よ、貴様は完全なる失敗作だ」
セラフィムが愉快そうに嗤う。
「やめて! お願い、彼女を放してください!」
「面白い。ならばおとなしく私に付いてくるか? そうすれば聖女を解放しよう」
セラフィムが懐から聖杯のようなものを取り出した瞬間、洗面所の鏡が不気味に渦を巻き始めた。波紋の中から黒い穴が広がり、古代文字が浮かび上がる。
(これが聖門……)
「さあ、リリア嬢。選べ。この失敗作を壊すか、それとも君自身が同行して彼女を救うか」
残酷な二択だった。
リリアは扉に目をやった。叫べばアレクシスが来てくれるはずだ――そう思った瞬間、セラフィムに鼻で笑われた。
「結界を張ってある。大声を出しても無駄だぞ。外の音は聞こえても、こちらの声は聞こえない。悩んでいる間に、セレスティナは死ぬ」
(誰か来てくれれば……でもこの状況では)
苦悶の表情で呻くセレスティナを見て、リリアは覚悟を決めた。
「……分かりました」
唇を噛み、拳を握りしめ、一歩前に出る。
「私が行けばいいのでしょう。セレスティナ様は解放してください」
「賢明だ」
セラフィムが手の力を緩めると、セレスティナは力なく床に倒れた。息も絶え絶えだ。
「では行こうか。神殿地下へ」
合図とともに聖門の闇が広がった。リリアは震える膝を叱咤し、その闇へと足を踏み入れる。
閉じていく漆黒の輪の中に、最後までセレスティナの涙に濡れた瞳が焼きついていた。
「……リリア様! 待って……!」
細い叫び声の後、小さな金属片が落ちるような音がして、静寂が訪れた。
◆
「叔父上、少し話したいのだけど、いいかな?」
廊下のソファーでリリアを待っていたアレクシスは、王太子レオンハルトに声をかけられ、雑談をしていた。
五分。十分。十五分。
焦燥が腹の底に滲み始める。
(リリアが遅すぎる……いや、でも女性はこのくらい普通なのかもしれないが)
レオンハルトの話は特に要を得ない雑談で、まるで足止めでもされているような気分がじわじわと増してきた。
その時、護衛騎士が血相を変えて飛び込んできた。
「閣下! 奥様のお姿が消えました! 洗面所の中に……いらっしゃいません!」
全身から熱が引いていく感覚がした。
アレクシスは弾かれたように走り出した。
洗面所はがらんとしていた。冷たい水滴の匂い。石畳。人の気配が何もない。
しかし唯一、残されていたものがあった。
白銀狐のコートが、床にひっそりと横たわっている。
アレクシスはそれを拾い上げた。ほのかにリリアの香りが残っている。そのぬくもりと裏腹に、胸を刺す寒気が走った。
「……どこへ」
護衛騎士たちを呼び、床を調べる。埃ひとつない石畳の隅に、小さな金属片が光っているのに気づき、息を呑んだ。
摘み上げると、小さな金板に翼を広げた天使の文様が刻まれていた。その下に短い文字。聖女の紋章。
「……神殿か」
アレクシスは唸った。薄青の瞳が鋭く、冷たく光る。
「許さん。リリアに手を出すとは」
彼は即座に立ち上がり、腰の剣に手をかけた。
「全騎士を集めろ。神殿に突入するぞ!」
「了解しました!」
護衛騎士たちが敬礼する。アレクシスの声は鋼鉄のように硬く、廊下に響き渡った。
「……リリア。必ず取り戻す。待っていろ」
冷たい夜気の中、王宮の鐘楼が深い静寂を破って鳴り響いた。
誰一人として、レオンハルトの表情が陰鬱に翳っていることに気づかないまま。




