幕間・王太子レオンハルトのせめぎ合う心
夕暮れの王城に、黄金色の光が降り注いでいた。その光がステンドグラスを通して部屋の床に散り、色とりどりの影を描く中、レオンハルトはじっと窓の外へと視線を落としていた。
眼下には、アレクシスとリリアが並んで立つ姿がある。
アレクシスがリリアに何かを言った。リリアが笑う。手を繋ぎ、視線を交わすだけで意思が通じ合っているように見えるふたり。その姿は、まるでふたりで一つの存在であるかのようだった。
(……誰も救えなかった父王を、ただ一人救った女)
レオンハルトは病弱な父を救えない自分を、ずっと責め続けてきた。王太子という身分があっても、何もできないことが歯がゆかった。けれど《老化症》は神殿の聖女にも、宮廷医師にも、大司教にも、誰にもどうすることもできなかった。
リリアを見たとき、最初は目立たない娘だなと思った。素朴な美しさはあるが、花々が咲き誇る王宮では埋もれてしまうような存在だと。
しかし彼女がその力によって父王を救う時の、あの懸命な姿に胸を打たれた。レオンハルト自身でさえ、《老化症》への感染を恐れて父王に近づくことをためらっていたというのに、リリアは物怖じする様子もなく傍らに寄り添った。その姿に、己の死をも恐れない高潔さを感じた。
(彼女こそ聖女だ。あの治療は、神殿の奇跡よりもずっと尊い)
思慕に似た尊敬の念は、日を重ねるごとに深まっていく。
これまでレオンハルトは多くの女性と接してきた。そのほとんどが王太子という地位に媚びる態度で、笑顔の下に打算を隠していた。しかしリリアからはそのような俗物さが微塵も感じられない。彼女の声も、仕草も、目の輝きも――すべてが自然で、好ましかった。
(彼女のような人が妻であれば……)
最初に発した言葉は軽い社交辞令だったが、今では本心でそう思う。
しかし彼女の隣に立つのは、王弟アレクシスだ。王位継承権第二位でありながら、第一位の自分よりも国民から慕われている男。
「リリア様の能力は素晴らしいですね」
いつの間にか背後に近づいていたセラフィム・エウセビオス大司教が、そう言った。
「そうだな。本物だ。聖女セレスティナ以上の……」
「しかし神殿に属さないリリア様では、いずれ神聖な秩序が乱されます。──殿下の王位も、揺らぎかねません」
レオンハルトの肩がぴくりと動いた。
自分が次期王位継承者として認められているのは、神殿の権威があってこそだ。それはよく分かっている。リリアを妻に持つアレクシスの影響力は、これからますます増していくだろう。
「ならば、どうすべきだと……」
「神殿でリリア様を説得すべきです。神の御心に触れれば、リリア様も聖女になることに同意されるでしょう。神殿が保護できれば、権威が揺らぐことはありません」
「……だが叔父上が同意するかどうか」
あの過保護ぶりを見れば、アレクシスが頷くとは思えない。
「それが難しいのですよ。すでに何度も説得を試みましたが、首を縦に振っていただけなくて」
「まあ、そうだろうな」
「ですが、リリア様ご本人は神殿にご興味をお持ちのようなのです。リリア様が強く望まれれば、アレクシス様も無下にはできないでしょう」
「強引な手段は使えないぞ」
「だから殿下のお力が必要なのです」
大司教がにこりと笑った。
「殿下も、すでに神の業に関わっていらっしゃいます。……今さら引き返せませんよ」
まるで蛇のように絡みついてくるその声に、レオンハルトは背筋が寒くなった。深みにはまっていくような、じわりとした恐怖があった。
「分かっている……」
そう答えるほかなかった。
どうして、こうなってしまったのだろう。
レオンハルトは思う。──すべては、半年以上前から始まっていた。
◆
王城の白百合の回廊に、昼下がりの光がステンドグラスを通して降り注ぎ、色とりどりの影を床に描いていた。
レオンハルトは近衛騎士を下がらせ、一人で回廊を歩いていた。
最近、宰相や重臣たちはアレクシスに意見を求めることが増えていた。レオンハルトの発言は一顧だにされないことも少なくない。
(……俺は、王太子なのに)
焦燥が、腹の底でくすぶっている。
レオンハルトにとってアレクシスは、叔父というよりも尊敬する兄のような存在だ。いつだって温かく接してくれて、成長を見守ってくれている。幼い頃から手本のように仰いでいたのに、いつまで経っても追いつけない自分に腹が立つこともある。
(叔父上には、敵わない……)
知力も、人脈も、民からの信頼も。すべてにおいて、自分はアレクシスに及ばない。
レオンハルトは二十一歳の誕生日を迎えたばかりだ。十八歳で成人の儀を経て正式な王太子となったが、国民の評価はアレクシスの方が圧倒的に高い。民衆の間では「次代の王はアレクシス公爵こそがふさわしい」という声さえ聞こえてくる。
窓の外に目を向けると、庭園でアレクシスが有力貴族たちと談笑しているのが見えた。
気づけば拳を握りしめていた。
「王太子殿下……」
背後からかかった柔らかな声に振り返ると、純白のローブを纏った長身の男が立っていた。ルクス・アウレア聖教会の大司教、セラフィム・エウセビオスだ。
一見穏やかそうに見えるが、その目には、奥行きのある暗さが宿っていた。
「大司教……」
「今日は良き天気ですね」
セラフィムはそう言ってから、ふっと意味深な笑みを浮かべた。
「王太子殿下には、未来への不安をお抱えのように見受けられます」
「何が言いたい?」
「神のお導きに従えば、すべては善き方向に向かいます。ただ時に、人々は本来あるべき位置を見誤ることがあります。そのような時、神は試練をお与えになるのです」
「試練……か」
「はい。殿下の前にある障害は、王太子としての資質を試すものかもしれません」
セラフィムの目がレオンハルトの内面を探るように光った。
「俺に何が足りないと言うのだ」
「神に選ばれし者であるという自覚です。そして――あなたの道を妨げるものを排除する勇気です」
「排除だと?」
「光あるところに影は生まれます。輝く玉座の下には、血や涙だって眠っているでしょう。それを受け入れる度量が、王には必要なのです。それが、王になる覚悟というもの」
「……何が言いたい?」
「明確なものなどありません。すべては神の思し召し。ただし──王太子殿下が望まれるなら、神はその道を開くでしょう」
レオンハルトはセラフィムの言葉に戸惑いながらも、その先に何か答えがあるような気がしてならなかった。
それから間もなく、父王とアレクシスが相次いで《老化症》にかかったという知らせが届いた。
知らせを聞いた瞬間、胸に最初に来たのは安堵だった。次の瞬間、その感情の正体に気づいてぞっとした。レオンハルトは窓の外へ目を向けたまま、長い時間、動けなかった。
「殿下の信仰が神に通じたのでしょう。神に次代の王として選ばれたのです」
大司教セラフィムが、満足げに微笑んでいた。
レオンハルトがアレクシスを敬愛する一方で、その能力を恐れていたことを、見抜いていたのだろう。
(この男は……)
そう思いながらも、口にはしなかった。アレクシスを害するつもりなど毛頭なかった。けれど、彼が王座争いから遠ざかったことへの安堵が、心のどこかにあることは否定できなかった。そんな汚い自分が、ひどく嫌だった。
「けれど、父まで《老化症》にかかってしまうとは……」
「それが神のご意志でしょう」
そう言われてしまえば、もう何も言えなかった。
それ以来、大司教は王城に顔を出すようになった。説教師のように神の教えを説きにくる。最初のうちは遠ざけていたが、王太子という立場では無碍にもできない。やがてレオンハルトは、気づけばセラフィムの言葉に魅了されていた。
「王太子殿下の統治によって、この国はさらなる繁栄を迎えましょう。あなたは特別な存在です。民を導き、民から崇拝されるべき方。──そのためには、あなたに相応しい人材が必要です」
その言葉には、麻薬のような甘さがあった。
自分が特別であること、自分こそが王にふさわしいこと。そう確認するたびに、心が軽くなる気がした。──それがセラフィムの巧みな策略だとも気づかずに。
◆
──そして今、大司教は再びその甘い言葉を耳元に注いでいる。
(リリア様を……無理やり連れ去る協力をしろというのか)
清廉なアレクシスが知ったら、どう思うだろう。その顔を想像するだけで、心が暗くなった。
それでも大司教は、耳元でささやく。
「レオンハルト殿下、神はあなたをお選びになりました。アレクシス様ではなく、他の誰でもない、あなたを。──これは試練です。玉座をご自身でつかみ取るために必要なことは、もうお分かりになりますよね?」
心のどこかで警鐘が鳴り響いている。
それでもレオンハルトは、毒の蜜のようなその言葉に、抗うことができなかった。




