第11話 善意という名の保護
昼下がりの執務室。
アレクシスが机に向かって書類を捌く傍ら、リリアはソファーに腰を下ろし、邪魔にならないようそっと本を読んでいた。
ふたりで街へ出かけた日から一週間が経つ。
その間に、リリアはもう一度、時間を逆行させることができた。今や見た目は三十代――数週間前とは見違えるほどだ。
(アレク様も、だいぶ活動的になってきたわ)
ほんの三週間ほど前まで寝台に横たわって過ごすのが日常だったのに、今ではこうして書類仕事に没頭している。かつての感覚を取り戻すかのように、アレクシスは精力的に働いていた。
その横顔を眺めながら、リリアの胸が温かくなる。
(早く完全に治って欲しいわ……)
あと二度ほど力を使えば、二十八歳という年相応の姿に戻るだろう。アレクシスはリリアに無理をさせないようにと、三日に一度しか使わせようとしないが。
「そんなに熱い視線を向けられると、照れてしまうな」
アレクシスが顔を上げ、苦笑した。
「す、すみません。集中力を削いでしまいましたか?」
「いや、逆だ。君に応えるためにも、ますます頑張らなくてはと思ってね」
「それは素敵ですね」
リリアがくすくすと笑うと、アレクシスも顔をほころばせた。
そこへ扉がノックされ、執事が一礼しながら入ってきた。
「公爵様、お客様がいらしておりますが、いかがなさいますか?」
「客? 誰だ?」
「マルクス・アウグスティヌス枢機卿様と、聖女セレスティナ様でございます……」
言いにくそうな執事の声に、アレクシスは眉根を寄せた。
「祝福はもう必要ないと断ったというのに」
リリアの裏ステータス【時間逆行】で若返りが進むと分かってからは、神殿に断りの書状を送っていたのだ。
「それが……マルクス枢機卿様は祝福のためではなく、奥様のことでお話があると仰せで」
「私ですか?」
リリアは驚いてアレクシスを見た。彼の表情は険しかった。
「……おそらく、私の若返りの噂を聞いたのだろう」
「そうですね……もしかすると王都にまで広まっているのかもしれませんね」
アレクシスは腕を組んで考え込んだ。
「リリアの能力は、できるだけ隠しておいた方が良い。神殿が聖女の祝福スキルと同種だと判断すれば、どんな手に出るか分からない」
「……はい」
リリアはきっぱりと頷いた。
「仮病を使って断っても良いが……どうする?」
「いいえ、お会いします。ずっと逃げ続けることはできませんし、相手の出方を見ておきたいので。とりあえず話だけは聞いてみます」
リリアは顔を上げ、はっきりと言った。
「それに――私自身のことです。逃げてばかりはいられません」
アレクシスは一瞬だけリリアを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「そうか。ならば私のそばを離れるな」
「はい」
アレクシスは憂鬱そうな表情のまま立ち上がり、執事に指示を出した。
「彼らを応接室に通せ」
◆
アレクシスに続いて応接室に入ると、マルクス枢機卿と聖女セレスティナが立ち上がり、恭しく頭を下げた。
「お久しぶりでございます、公爵閣下。お元気そうで何よりです」
先に口を開いたのは、マルクス枢機卿だった。聖女セレスティナはリリアへ、気遣わしげな視線を向けている。相変わらず病的に色が白く、顔色が悪かった。
その手は、袖の中でわずかに震えていた。
「ありがとう」
アレクシスが硬い声で答える。
「祝福は不要と書面でお伝えしておりましたが、公爵様のご様子を噂で聞きまして参上いたしました。……本当に噂通りでしたね」
マルクス枢機卿が舐め回すような視線をリリアへと向けた。その眼差しに、リリアの背筋がさっと冷える。
――この男が怖い。リリアを値踏みしているようだった。
アレクシスが一歩前に出て、リリアの前に立った。その一瞬、アレクシスの目がわずかに鋭くなった。【真理看破】を使っているのだろう、とリリアは直感した。
「噂というのは?」
「公爵様が若返ったと。《老化症》が治ったという噂ですよ。王都でもその話題で持ちきりです」
「ほう。そんな噂が」
アレクシスは特に驚いた様子も見せずに問い返す。
「はい。しかも――公爵夫人のお力によるものだと、ね。王都ではすでに『奇跡の少女』などと呼ばれております」
リリアの胸が小さくざわめいた。
「ぜひ詳細をお聞かせいただければと」
断られることを察しながらも、マルクス枢機卿は強引に話を進めようとしていた。
「詳細も何も……妻のリリアのおかげで若返った。それに尽きる。兄上や友人から『男は妻を娶れば若返るぞ』などと言われ、強引に縁組みをさせられたが、その通りだった。可愛い妻を得て心が若返ると、それが体にも表れるものだと分かった」
「……アレクシス様がそのような冗談をおっしゃるとは。とはいえ軽口も度が過ぎると神への冒涜となりましょうに」
マルクス枢機卿が皮肉めいた口調で言う。
「妻を娶ったことのない枢機卿に何が分かる? 我が妻が毎晩献身的に励ましてくれていることは、この若々しい姿を見れば明白でしょう」
(ちょ、ちょっと! 誤解を招く言い方はやめてください……!)
リリアの頬に朱が上った。
マルクス枢機卿はアレクシスを射るように見つめた。
「正直に教えてくださる気はないようですね」
「枢機卿も信仰を捨てて愛らしい妻を娶れば、若返りますよ」
「笑わせてくれる。そんな与太話を信じろと?」
(少し面白いけど、笑っている場合ではないわ……)
リリアは表情筋に力を込めた。
「……我々は、リリア様が"聖女の器"ではないかと考えております。聖女セレスティナ様と同様に、人々に奇跡の祝福を授けられる存在なのではないかと」
マルクス枢機卿の言葉に、アレクシスが目を細めた。
「……それで、何が言いたいのです?」
「神殿はリリア様を保護したいと考えております」
(……やはり、そういう展開になるのね)
予想通りの展開に、リリアは内心でそっと溜め息をついた。
「保護とは、どういう意味でしょう」
アレクシスが聞き返すと、マルクス枢機卿はゆっくりと微笑んだ。
「リリア様は稀有なスキルをお持ちなのでしょう? それを悪用しようとする者が出てくるかもしれません。ですから神殿の元で大切にお守りし、史上初の二人目の聖女として迎えたいのです」
「衣食住はすべて保証されます。もちろん公爵家にも相応の謝礼は用意いたします」
その言葉に、アレクシスの眉がぴくりと動いた。
「そして――民衆の前で奇跡を示していただく。王都ではすでに期待が高まっておりますので」
枢機卿は柔らかな口調のまま続ける。
「もし神殿がその奇跡を管理できないとなれば……人々は何を信じればよいのか分からなくなるでしょう」
空気が張り詰めた。蝋燭の炎が、ゆらりと揺れた。
「王弟であるアレクシス様にも民を思う心はございますでしょう? 公爵家にとっても名誉なことですし、ぜひ良いお返事を賜りたいのですが」
にこやかに語るマルクス枢機卿の目は、しかし笑っていなかった。
「なるほど」
アレクシスはゆっくりと頷いた。
「一つ質問があります。もし私が断ったら?」
率直な問いに、マルクス枢機卿は小さく息を吐いた。
「神殿も穏便に済ませたいと思っておりますので、可能な限りお二方の意志を尊重いたします。ただ……神殿にも立場というものがございます」
彼は言葉を区切った。
「聖女セレスティナ様よりも力のあるリリア様を神殿が保護できないとなると――神殿の権威が薄れてしまいますゆえ」
セレスティナの肩が、小さく震えた。
アレクシスの顔から表情が消えた。
しばらく沈黙していたアレクシスが、口を開いた。
「確かに、リリアを聖女として認知すれば、彼女を害することへの罪は重くなる。神殿が保護下に置いて監視するのが最善だと考える――そこに至るのは自然な発想でしょう」
「ご理解いただけて何よりです」
マルクス枢機卿が笑みを浮かべた。
「ですが――」
アレクシスの声が、低く落ちた。
「リリアは渡しません」
はっきりと言い切った。
「彼女は私の妻です。神殿の備品ではない」
誰も声を発しなかった。蝋燭の炎が揺れ、石壁に伸びた影が大きくたわんだ。誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
「リリアの力は彼女を大きく疲弊させる……神殿に預ければ、その力をどれほど使い潰されるか分からない」
意味ありげな視線を向けられ、聖女セレスティナの指先が強く握られた。
白い指が、かすかに震えている。
「公爵様、使い潰すなどとはとんでもない。大切な聖女様に無理はさせません。少しのご協力をお願いするだけです」
「私が言いたいのは――」
アレクシスははっきりと言った。
「リリアはあなた方の道具ではない、ということです」
マルクス枢機卿の表情が、一瞬だけ凍りついた。
「……どうやらお互い、譲れない事情があるようですね」
苦笑いを浮かべてから、マルクス枢機卿はリリアへと視線を移した。
「リリア様、お伺いします。あなた様のお力は、聖女のスキルによく似ているのではないでしょうか。その美貌と若さ、そして聖女によく似た力……あなた様こそ、次世代の聖女になるお方に違いないと確信しております」
リリアは顔を上げた。
「……申し訳ありません」
落ち着いた声で答える。
「私は神殿の聖女になるつもりはありません」
その言葉に、枢機卿の目がわずかに細められた。
(私の力は【時間逆行】によるもの……祝福スキルとは別物のはずだけれど)
「この話は終わりにしましょう」
アレクシスがマルクス枢機卿の言葉を遮った。
「リリア様、その力は多くの人々のために使われるべきものです。では今日はこれにて。またお邪魔するかもしれません」
(また来るつもりなのね……)
マルクス枢機卿が退室の支度を始めた時、控えめな声がリリアを呼んだ。
「リリア……さん……」
聖女セレスティナだった。顔色が悪く、今にも倒れそうだ。
「はい、何でしょうか?」
セレスティナは一瞬だけアレクシスを見た。
そして小さく息を吸う。
「……ありがとうございます……」
「私は何も……?」
リリアが首を傾けると、セレスティナは微かに苦く笑った。
「……守ってくださる方が、いらっしゃるのですね」
その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
マルクス枢機卿がセレスティナを促し、ふたりは部屋を出て行った。
神殿の使者が去った後、リリアとアレクシスはしばらく無言のままソファーに座っていた。
「……とりあえず、今日はここまでにしよう。今後についての話し合いは、明日以降だ」
アレクシスの言葉にリリアは頷いた。
「はい、アレク様」
◆
自室に戻り、ベッドに横になりながら、リリアは先ほどの会話を思い返してそっと溜め息をついた。
神殿がリリアの能力を利用しようとしている。
そしてアレクシスの言葉が、繰り返し頭の中で響いた。
――"リリアはあなた方の道具ではない"。
家族から厄介払いされ、結婚を押し付けられたリリアに、その言葉がどれほど温かく響いたか。きっとアレクシスは気づいていないだろうけれど。
(やっぱり……私は、彼のことが好きだ)
その自覚は静かに、しかし確かに落ちてきた。心臓の奥のどこかが、じわりと重くなるような感覚がした。嬉しいとも、怖いとも、どちらとも言えない感情だった。
(でも……私はただ守られているだけでいいのかしら)
マルクス枢機卿の言葉が頭から離れない。
けれどリリアはゆっくりと首を振った。
(いいえ……アレク様の望まないことはしたくない)
それに、聖女セレスティナを見ていれば分かる。彼女はひどく疲弊していた。聖女になれば、リリアも同じように消耗させられるだろう。
(セレスティナ様は……本当に望んで聖女になったのかしら)
自分と同じ年頃の少女を、助けてあげたい。
そう思う気持ちが、自然と溢れてきた。




