幕間・神殿の真意
王都にある大神殿の地下第一層には、公開儀式用の大聖堂広間があった。
ドーム型の天井は高く、数百人を収容できるその空間は無数の蝋燭の光に満ちていた。昼間だというのに窓はなく、炎の揺らめきだけが石壁を照らしている。蝋の焦げた匂いと、地下特有の冷えた石の匂いが混じり合い、人の声はドームの内側で重なって不思議な反響を作り出していた。
大司教セラフィム・エウセビオスは、常に微笑みを浮かべた五十代後半の男だ。後ろへ撫でつけた白髪交じりの金髪と、薄く光る紫の瞳。痩せた体躯には年齢を感じさせない奇妙な若々しさがある。
その隣で身を縮めているのは、聖女セレスティナだった。
セラフィムの視線は、広間の中央に据えられた祭壇へと向けられている。
そこには眩い光を放つ巨大な球体が浮かんでいた。大人が五人手を繋いでもなお足りないほどの大きさを誇るその球体は、下半分が地下第二層へと沈んでいる。
神殿では「神の聖遺物」と呼ばれているが――実際は古代魔導文明の遺産にすぎない。
地下は神の領域。
地上は俗世。
そう教義では説かれているが、セラフィムにとっては単なる都合の良い建前だった。
地下にこそ、神殿の本当の力がある。
《聖門》を通って戻ってきたマルクス枢機卿が、大司教セラフィムの前に跪いた。
「公爵が若返っていたという情報は間違いございませんでした。以前の老人の姿とはまるで別人で、四十代ほどの姿に戻っております……」
セラフィムの片眉がわずかに上がった。
「《老化症》の効果がなかったということか。なぜ、いきなりそんなことが起きた? アレクシスはもうすぐ死ぬ運命だったはずなのに」
苛立ちを隠さない声音で、セラフィムはマルクスを睨みつけた。
その眼光にマルクスは一瞬息を呑んだが、すぐに平静を取り戻した。
「原因は分かりかねます。ただ、公爵邸にリリア・エルフェンハイン・ローデンヴァルトという公爵夫人が入ってから、不審な変化が生じているようです」
その名を聞いた瞬間、聖女セレスティナの肩がぴくりと揺れた。
「ふむ……」
セラフィムは顎に手を当てて考え込んだ。
「誰かを若返らせるスキルなど、聞いたことがないな」
神殿が聖女を通じて起こしている奇跡は、本当の意味での治癒ではない。
対象者の生命力の一部を皮膚へと回し、外見だけを一時的に若返らせているに過ぎない。
寿命を削る代償付きの、まやかしだ。
(あと少しで、王太子より人望のある王弟を葬り去れたというのに……)
不治の病で隠居した王弟など、もはや神殿の脅威ではない。
祝福という名で生命力を吸い取り、静かに死ぬのを待つだけだった。
「もっと魔導炉に生命力を集めなければ……光輪神ルクシエル様の復活のために」
セラフィムは祭壇の中央に据えられた球体――魔導炉の上部を見上げた。
聖女セレスティナを媒介として、人々の生命力を集める装置。
それがこの魔導炉の正体だった。
国王と王弟を《老化症》に陥れたのも、王権を弱めるためだ。
(王太子さえ玉座につけば、この国は神殿のものになる)
王太子レオンハルトは幼い頃から神殿の教育を受け、神殿なしには政を進められない。玉座に座れば、必ず神殿に依存する。
その時こそ――この国は神殿国家へと変わる。
セラフィムの口の端が、ゆっくりと歪んだ。
「我々の計画を邪魔させるわけにはいかない。その公爵夫人の秘密を探ってこい。場合によっては、手荒な行為も構わない」
「そ、そんな……リリアさんを……傷つけるなんて……」
聖女セレスティナが弱々しく言葉を絞り出した。
「お前もルクシエル様に忠誠を誓った身であろうが! 誰が奴隷商人からお前を買ってやったと思っている!」
セラフィムが一喝し、手を振り上げた。鋭い音が広間の石天井に響き、打たれたセレスティナがよろめいて壁に手をついた。頬が赤く腫れていく。
「大司教様、暴力はお控えを。傷があると民衆が不審に思います」
マルクス枢機卿が抑えた声で割って入った。
セラフィムはフンと鼻を鳴らす。
「そんなもの、聖女の"奇跡の力"で治せばいい」
舌打ちしてから「おい、セレスティナ」と顎をしゃくる。
セレスティナは「はい……」と答え、腫れた頬に掌を当てた。
するとその皮膚がじわじわと回復し、白磁の肌が元に戻る。
「しかし、聖女の体力を無駄に消耗させるのは得策ではないかと。治癒では表面的なものしか癒せませんゆえ」
マルクス枢機卿の冷静な言葉に、セラフィムは顔をしかめた。
「聖女には信仰心が足りないようだ。神の依り代となるべく選ばれたというのに、その栄誉を誇りに思えないのか。聖女らしく振る舞え。私のすることに口答えするな!」
怒鳴りつけられても、セレスティナは泣きそうな顔をするだけで何も言わなかった。
「孤児院から拾ってやった恩を忘れたのか。神に仕える使命を思い出せ。もう良い――セレスティナを聖女拘束室へ連れて行け」
「畏まりました」
マルクス枢機卿がセレスティナの腕をつかむ。
彼女は俯いたまま、抵抗することなく立ち上がった。
そのまま地下へと続く廊下を歩き始める。
◆
廊下を歩く間も、セレスティナはずっと下を向いていた。
(私……こんなところで終わってしまうの……?)
爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。
大司教セラフィムの暴虐と狂気を知りながら、何もできない自分が悔しかった。
幼い孤児院の日々から聖女として連れてこられ、その日を境に、逃げるという意思さえ奪われてきた。
(私の祝福は、奇跡ではない)
魔導炉へ生命力を流すための――ただの管。
いずれ魔導炉に十分な生命力が溜まった時、光輪神ルクシエルを受け入れる器となるために、彼女は存在している。
階段を降りる途中で、ぐらりと視界が歪んだ。
「おい、大丈夫か?」
マルクス枢機卿がセレスティナの腕をつかんで支えた。
「だ、大丈夫です。すみません……」
神殿の儀式に使われ続けたため、セレスティナには慢性的な倦怠感と眩暈が染みついていた。他者の生命力を魔導炉へ流す行為は、彼女自身の命も削る。
(でも、あの時は楽になった……)
公爵邸でリリアに触れられた瞬間のことを思い出す。
長年身体の奥に居座っていた鈍い痛みが消え、何年ぶりかに深く息を吸えた気がした。ほんの一瞬だったが、初めて苦しくないと感じた時間だった。
(リリアさん……ごめんなさい)
自分を助けてくれた人に、危険をもたらしてしまう。
その罪悪感が胸を締め付ける。
(私には……何もできない)
大司教の持つスキル【神威支配】は、立場の低い者の精神を支配できる。
その力の前では、セレスティナには逃げることも抗うことも許されなかった。
涙がにじむ。
セレスティナは唇を引き結び、地下へと続く階段を降りていった。
地下第二層にある《聖門》は魔導炉と直結しており、生命力を燃料として動いている。
転送陣を現地で描かなければ使えないという制約があるが、公爵邸の前や王宮の門とはすでに繋がっていた。
(……きっと、他にも繋げている)
したたかなマルクス枢機卿のことだ。
王宮の内部にさえ、手を伸ばしているかもしれない。
だが、それを誰かに伝える術は――セレスティナにはなかった。今は、まだ。




