第66話
ウルリス王太子の率いる千五百の兵は、王都のすぐ近くにあるシュクガハル平原へと到着した。
「フィオレ殿下の軍勢はまだ到着していないようですな」
「変だな?」
「兵が集まらなくて来るに来られないのでは……」
「ウルリス様でも兵を集めるのに苦心されたからな。フィオレ様では無理だろう」
直属の家臣たちが馬上でそんなことを言っているのを、ウルリスは軽くたしなめる。
「相手が妹とはいえ、ここが戦場であることに変わりはない。油断しないように」
「ははっ!」
若い騎士たちが敬礼し、少しだけ緊張感が戻ってくる。
だが安堵していたのはウルリスも同じだった。
(このまま約束の刻限までフィオレが現れなければ、争いはなかったことにできる。さすがにフィオレも謝罪してくるだろう。お目付役のジュナンは折り目正しいからな)
そのときの二人のやり取りを想像し、フッと微笑むウルリス。
しかしその笑みはすぐに消えることになる。
「騎兵斥候より報告! 丘陵の裏側に多数の兵を確認しました! 旗印はフィオレ殿下です!」
「多数!? 多数とはどれぐらいだ!?」
家臣の問いに、騎兵が即答する。
「天幕が邪魔でよく見えませんでしたが、千は下らぬかと!」
「なんだと!?」
一同がざわめく。
これにはウルリスも驚いた。
(まずい。兵力にそれほど差がないのであれば、普通に開戦してしまう。だがその場合、どちらが勝っても損害が大きくなる)
王太子として、ユナト人同士が血を流すことには賛同できない。何より、妹が傷つくことになるのは絶対に避けたかった。
「軍勢を左右に展開せよ! こちらの数を多く見せるのだ! 騎兵は左翼に集め、突撃隊形で準備させよ!」
「承知いたしました!」
ウルリス軍が陣形を組んでいる間に、丘の裏側から続々とフィオレ軍が進出してきた。
「千……いや二千はいるぞ!?」
「待て、まだ増える! どう見ても三千は……」
「これは四千……五千ぐらいか!? もっといる!?」
「待て、あっちの丘からも同じぐらい出てきた!」
「一万以上います!」
平原を埋め尽くすほどの兵が前進してきた。
だがこのとき、新たな報告が飛び込んでくる。
「西側より一万以上の兵が接近中です!」
「援軍か!?」
すると騎兵斥候は首を横に振った。
「紋章はミオレ殿下のものです! 味方かと思って接近したら、変な神官に警告されました!」
「ミオレ様が兵を!?」
「あの方はまだ十歳だぞ!?」
大混乱に陥る家臣たち。
しかし一番衝撃を受けていたのは、他ならぬウルリスだった。
(ミオレが!? 一万もの兵をどこからどうやって!? いや、フィオレの方にも一万の兵がいて、合計二万!? このユナトにそんな兵力が残っているはずがない!)
ウルリスは即座に看破する。
「その兵は水増しされたものだ! おおかたその辺の農民を徴発したのであろう! 所詮は烏合の衆! 交戦すれば蜘蛛の子を散らすように逃げ失せるはずだ!」
しかしウルリス軍の将兵たちは、そうは思わなかったようだ。
「殿下! ユーエンハイム家のバッヘン殿がただちに和睦すべきとの具申を!」
「他の諸将からも同じような意見が出ています!」
「こちらの隊列が乱れ始めました!」
そしてさらに決定的な報告が、ウルリスの紋章官から告げられる。
「敵方の旗印を確認しましたが、諸侯のものに加えて各都市の職工組合の紋章が確認できました。フーディ市酒造組合やパン組合の自警団、ドネス市火薬組合の義勇銃兵団、南ユナト馬借組合の治安騎馬隊など多数です」
「なんだと!?」
治安の悪いこの世界では、市民も組織的に武装する。
特に職工組合の場合、領主に各種の特権を認めさせる代わりに兵役の義務も負っている。決して烏合の衆などではない。彼らが武力を持つからこそ、領主たちも要求を聞くのだ。
だが妙だった。
「都市住民の自警団が、なぜこんなところまで出張ってくる!? 兵役とはいえ、遠征の義務までは負っていないはずだぞ!?」
「そう仰られましても、紋章は紋章ですので……」
紋章官が困ったような顔をしている。
さらに驚くべき報告が飛び込んできた。
「サイダル軍! サイダル軍がいます!」
「馬鹿なことを言うな! 敵だぞ!」
いやフィオレも今は敵だったなと、ふと冷静になるウルリス。
すると伝令兵がこう続ける。
「先代ファルガ公ウィレム・グロティウスの紋章を確認しました!」
「なんだって!?」
確かにファルガ港はユナトの傘下に入っている。ファルガを降伏させたのはフィオレだから、何の不思議もない。
紋章官が口を開く。
「ファルガには派兵するほどの陸戦力はありません。おそらく軍旗と資金だけ提供してユナト人の傭兵を雇ったのでしょう」
「とにかく敵なのは間違いないな。それで十分だ」
なぜこんな状況になったのか全くわからなかったが、それでもウルリスは決断しなければならない。それが総大将の義務だ。
(千五百対二万、それも平原での会戦では策を弄したところで勝敗は覆るまい。相手はあのフィオレだ)
ウルリスはどうすべきか悩んだが、ふと気づいた。
(私は悩んでいるのではないな。結論を出すのが怖いだけだ)
結論ならとっくに出ていた。だがそれを認める勇気がなかったのだと気づく。
(認めたくはないが、それでも認めるしかないか)
ウルリスは溜息をつき、それから静かにつぶやく。
「この戦、もはや戦うまでもあるまい。私の負けだ」
そのとき、新たに報告が舞い込む。
「フィオレ殿下の軍から誰か近づいてきました。紋章官のようです」
「あの男か」
ウルリスは苦笑すると、こう告げた。
「ここに通してくれ」
そしてウルリスはジュナンと相まみえる。
「やはりそなたであったか、エンド卿よ」
「はい」
完全武装の兵士たちに囲まれているというのに、フィオレ付紋章官のその男は普段と同じ笑顔だった。まるで緊張している様子がない。
(どういう人生を歩んだら、これほど豪胆になれるのか……)
底知れぬものを感じつつ、ウルリスはジュナンに問いかける。
「よもやフィオレがあれほどまでに軍勢を招集していたとはな。どのような魔法を使ったのか」
「魔法ではありませんよ、殿下」
ジュナンは苦笑する。
「姫は日頃から神官のメステスを各地に派遣し、情報収集と人脈作りを続けておられました。特にルマンデ奪還以降は人脈を作りやすくなりましたので、水面下で支持が広がっていたようですね。私も予想外でした」
「つまりそなたの献策か」
「まあそうです」
あっさりと肯定し、ジュナンは慎重に言葉を選んでいる様子でさらに続ける。
「あの方は先見性があり、余人には見えないものが見えておいでです。しかし当然、それは余人には見えません。周囲を置き去りにして突っ走ってしまう傾向があり、それが不安でした」
「それゆえ、周囲を巻き込むように献策したという訳だな」
「はい。御推察の通りです」
ジュナンが軽く一礼するのを見て、ウルリスは考える。
(やはりフィオレのことをよく見てくれている。そして、あの子のやりたいことや得意なことを伸ばしつつ、その手助けをさりげなくしていたという訳か。だが、それだけでこうはなるまい)
ウルリスはジュナンに問う。
「まだ何か、魔法の種を隠しているはずだ」
「御慧眼です。しかし、それはまた後ほどに」
ジュナンは微笑み、こう言った。
「姫が王太子殿下を本陣にお招きしたいとの仰せです」
ウルリスは迷わなかった。
「敗軍の将としては、こちらから出向いて降伏するのが筋だ」
するとジュナンは意外そうな顔をする。
「いえ。降伏には及ばぬとの仰せです」
その瞬間、周囲にいた全ての将兵が殺気立った。
平静を装っていたが、ウルリスも例外ではない。
「降伏を受け入れず、私を殺すというのか……」
「そんなはずがないでしょう。仮にも戦場でそのような冗談はおやめください」
ジュナンは笑うと、こう続けた。
「姫は『腹が減ったのでそろそろ昼飯にしませんか、兄上』との仰せです」
「……な」
目を丸くするウルリス。
「何を申しておるのだ、そなたらは」
「何をと仰られても……」
ジュナンは困ったような顔をしている。
「姫はこうも申しておいででしたよ。『兄上は私と殺し合うつもりなど毛頭あるまい。無論、私も同様だ』と」
「ちょっと待て、あいつは何がしたくて挙兵なんかしたんだ!?」
ウルリスは思わず大声を出してしまい、慌ててコホンと咳払いをする。
「見苦しいところを見せたな。だが妹の真意を図りかねている」
「そのようですね」
ジュナンは苦笑し、それからこう答えた。
「これは会戦の形を借りてはいますが、実態としては選挙なのですよ」
「選挙だと?」
ユナトでは職工組合でも宮廷でも選挙は度々行われる。それぞれの選挙で投票するのはごく限られた者たちであり、多くとも数十人程度に留まる。
だからウルリスは最初、この平民上がりの変な紋章官が何を言っているのか理解できなかった。
「エンド卿。もう少し説明を。そなたも妹も説明が足りなさすぎる」
「失礼いたしました。王太子殿下とフィオレ殿下が会戦にて雌雄を決するとなった場合、いずれに与するか。それはつまり、ウルリス殿下の即位を認めるかどうかの選挙といえましょう」
ジュナンはニヤリと笑った。
「領主や職工組合などの各勢力は、それぞれの立場で判断を示しました。例え王太子殿下にお手向かいしてでも、今はまだ即位なさるべきではないと」
「ああ……」
ウルリスは額に手をやり、それから肩を落とす。
「認めたくはないが、認めざるを得ないな。私の即位は求められていないようだ」
「『今はまだ』ですよ。殿下を廃嫡したいと思っている者などおりません」
「気休めはよせ。もういいのだ」
不思議なことにウルリスは今、とても気楽だった。
(皆がそれを求めているのなら、別に私がこだわり続ける必要もない。私だって向いていないと思っていたんだからな)
ふと顔を上げると、遙か彼方まで突き抜けるほどの青天だ。空が高い。
(構いませんよね、父上)
心の声に応える者はいなかったが、なぜか心は満たされている。幼い頃、父の膝で微睡んだ記憶が蘇ってきた。
「殿下?」
ジュナンが不思議そうな顔をしているので、ウルリスはこの食えない男に一矢報いてやろうと笑いかける。
「これ以上ないぐらいに私の負けだ。皆の総意とあれば異論はない。王位継承権はフィオレに譲るよ」
「殿下、お待ちください!? 誰も廃嫡しろとは言ってません!?」
「いいや、待たぬ。形だけとはいえ王太子に謀反した以上、国を背負う覚悟ぐらいはあるはずだ。そなたもユナトの礎となる覚悟でフィオレを補佐するように」
「本気ですか殿下!?」
「ははははは!」
あのジュナンが慌てているのがあまりにも痛快で、ウルリスは声をあげて笑う。
なんだかとても気分が良かった。
「よし、フィオレの陣地で昼飯にしよう! 皆もついて来い!」
「は、はいっ!」
側近や兵士たちは顔を見合わせると、ほっとしたような顔で王太子に深々と頭を下げたのだった。




