第63話
* *
サイダル領の南東の端にある港湾都市ファルガ。
「ふむ……」
ファルガを治めるグロティウス家の先代当主・ウィレムは隠し戸棚に封書をしまう。そして白い髭をゆっくり撫でた。
「失礼します。ウィレム殿はこちらとお聞きしました」
「どうぞ。そのままお入りなさい」
ユナトの若い神官が入ってくる。メステスだ。ごくわずかだが、端正な顔に緊張が走っている。
彼の背後にはユナトの第二王女ミオレもいたので、ウィレムは微笑みかける。
「おや、ミオレ殿下までお見えとは。何か御用ですかな?」
するとミオレ王女は決意を秘めた表情で前に進み出る。
「叔父様……じゃなくてオルフィン殿下の兵が合流に失敗したため、ユナト軍は王都への侵攻を断念して退却中だそうです」
「おお、それをわざわざお伝えに来てくださったのですか」
ウィレムは知っている。
その退却途中で国王オルバが負傷したことを。
怪我の程度は不明だが、どうやらサイダル王がまた何か企んだらしい。だとすれば深手を負った可能性もある。
しかしウィレムは何も知らないそぶりで、にっこり笑いかける。
「戦は進むときもあり、退くときもあり。元々そういうものですので、当家が離反するなどと御心配めされますな」
「そうでしょうか」
まだ十歳なのに、ミオレは真剣な眼差しでウィレムを見上げている。
(疑われているな。無理もないが、それにしても鋭い)
ウィレムには、いやグロティウス家には二つの選択肢があった。
――事態を静観し、ユナト軍の撤退を見守るか。
――ユナト軍の撤退を阻止し、サイダル軍の追撃で壊滅させるか。
(ユナト王と第一王女を討ち取ることができれば、今後十年は安泰であろうな。ウルリス王太子は優秀な人物と聞いているが、オルバ殿とはタイプが違う。立て直しは着実に、そしてゆっくりと行うはずだ)
――百年や二百年など、歴史の中では一瞬ですから。
不意に誰かの言葉が脳裏をよぎる。ウィレムはそれがあのユナトの若い紋章官の言葉だと気づく。
ウィレムは素早く思考を巡らせる。
(百年二百年ならまだいいが、十年そこらでは意味がないな。その後は再びリュジオン河を挟んでの睨み合いになる。ウルリス王太子は慎重な性格だ。一方サイダル側は王と諸侯の関係が悪く、何をするにも足並みが揃わぬ。つまり何も変わらん訳だ)
そしてウィレムは内心で溜息をついた。
(リュジオン河が国境である限り、同じことが繰り返される。私が世を去った後も、息子や孫たちが同じ苦労をするというのは面白くないな)
そう考えたとき、脳裏によぎったのはあのジュナンの言葉だった。
――陸の国境など、どちらかに動かしてしまえばいいだけの話です。万舟湾の外にでも。
「ふ……」
思わず笑みがこぼれたので、メステスが不安そうな顔をする。
「まさか……ウィレム殿?」
「ああ、違う違う。君の親友の言葉を思い出していたのだよ。ここにいないのに雄弁に語るとはな。紋章官にしておくのが惜しい」
ウィレムは苦笑し、肩の力を抜いた。
そしてミオレに向き直る。
「万舟湾がユナトによって統一されれば、このファルガは国境の都市ではなくなります。交易に専念できますな。これほどの好機に気づかぬほど耄碌はしておりませんよ。そうでしょう、ミオレ殿下?」
「は、はい! それはもう好機ですわ!」
こくこくとうなずくミオレが愛らしくて、ウィレムは思わず微笑んでしまう。
「聞けば今、ユナト軍は苦境にあるとのこと。苦境のときに助けてこそ、恩も高く売れるというもの。当家の忠誠、高く買い取って頂けますかな?」
「はい! 高く、高く買い取りますわ!」
この場にいる王族が自分だけだという自覚があるのか、ミオレは迷うことなく即答した。かなり緊張した様子で、それでも臆することなくまっすぐにウィレムを見つめてくる。
(強いな。フィオレ殿もそうであったが、この子もやはり覇王の末裔か。私の亡き後、グロティウス家とファルガを託すには十分すぎるな)
肚が決まったウィレムは、その場に膝をついて恭しく頭を垂れる。そうしないとミオレよりも目線を低くできないからだ。
「我らは交易商の一門。良い品には良い値段をつけてくださる方こそ、信頼に足ると考えております。当家のありったけの忠誠をお受け取りください」
「はっ、はい! ありがとうございます! シュテンファーレン家の名誉にかけて、決して疎かにはいたしませんわ!」
ミオレは慌ててしゃがみ込むと、ウィレムの皺だらけの手をぎゅっと握った。孫娘たちと同じ、幼く柔らかい手だ。
ウィレムは思わず微笑む。
「おお……このような栄誉、サイダル王室からは一度も賜ったことがございません。高く買い取って頂くにしても、少し貰いすぎてしまいましたな」
冗談っぽく言ってウィレムは笑う。
なぜだかわからないが、彼は今とても気分が良かった。
「今ここで旗幟鮮明にせねば、フィオレ殿下に顔向けできません。グロティウス家は正式にシュテンファーレン家に忠誠を誓い、ユナトの一員となります」
「まあ! まあまあ!」
ウィレムの手を握ったまま、びっくりしているミオレ。
メステスが不思議そうに問いかけてくる。
「それは願ってもないことですが……。僕がこう言うのも変な話ですが、本当にそれでよろしいのですか?」
(無論、私にも全く迷いがない訳ではないさ)
内心では自分の決断に少し驚いてもいたが、何度考えてもやはり結論は変わらなかった。
だからこう答える。
「高く売れるときに売り惜しみする者に商売はできぬよ。今が最も高く売れる瞬間だ。ならばひとつ残らず売りつけるのが道理ではないかね?」
「確かに……」
メステスはうなずき、それからフッと笑う。
「では僕たちをファルガから追い出したりはしませんよね?」
「無論だよ。攻城用の大砲が不足しているのなら、ファルガの砲台から好きなだけ持っていきなさい。ここはもう国境ではなくなるのだから、多少減っても問題はないはずだ」
そう言いながら、ウィレムはなぜか胸が躍るような興奮を覚えていた。
(新しく何かが始まる予感というのは、幾つになっても昂るものだな)
* *
俺は不思議な景色を見つめていた。
「ここは河ですかね?」
黄金の太陽が輝き、河の水面を黄金に輝かせている。空の色は黄昏のようでもあり、夜明けのようでもあった。やたらと明るい。
「うむ。シュテンファーレン家の伝承が正しければ、ここはサンズとかいう河であろう」
そう答えたのはユナト王オルバだ。三途の河ってこっちの世界にもあるの?
オルバは舟にどかりと腰を下ろしたまま、黄金の空を眩しげに眺めている。
「それにしても、おぬしまでこちらに来るとはな」
「いえ、さっきまで馬に乗っていたんですが……」
おかしいな。
おかしいと言えば、この舟は船頭もいないのに勝手にスルスル進んでいく。なんだこれ。
「ところで陛下、お怪我の方は?」
オルバの甲冑に銃弾の痕がないので、俺は首を傾げる。これは夢か?
するとオルバは笑った。
「面白いことを申すのう。死者は怪我などせぬわ」
「ああ、死者で……」
てことはやっぱり王は亡くなってて、ここは三途の河で。
いや待てよ。じゃあ俺も三途の河を渡ってる最中か?
「俺も死んでしまったようですね」
「はっはははは!」
豪快に笑うオルバ。
ふと気がつくと、川岸がすぐ目の前まで迫っていた。陽光を浴びた草原が黄金に輝き、地平線の彼方まで続いている。
槍を手にしたオルバはひらりと川岸に飛び降り、俺を振り返った。
「見送り御苦労。冥府の彼岸まで供をするとは、なかなかに気骨のある男よ」
「あ、いえ。俺も下りますので」
なぜかはわからないが、あの川岸に行きたい気がしていた。あの地の向こうに行けば、全部終わって楽になれる。そんな確信がある。
しかしなぜか両手がずしりと重く感じられ、膝の上から動かない。これじゃ立ち上がれない。
「なんだこれ?」
「ふふ、さもあらん」
王は納得したように笑い、槍の石突きで舟の舳先をトンと突いた。
舟はスルスルと岸から離れ始める。
「ちょっと陛下!? 下りられないでしょう!?」
「下ろす訳にはいかぬ。おぬしの体を見てみよ。満身創痍であろうが」
言われてみれば包帯ぐるぐる巻きだ。そこらじゅうがズキズキ痛い。あとなぜか両手はほんのり温かい。
あれ? 死者は怪我しないんじゃなかったの?
「生者でありながら死地に来るとは、おぬしは現世の理から少し外れておるようだな。だがおぬしは未だ死してはおらぬ。『帰郷』はまたの機会にするがよい」
次第に遠ざかる彼岸から、オルバは大きく手を振った。
「ジュナンよ。理外の者よ。おぬしにフィオレたちを託せたことは慮外の幸運であったな。願わくば、おぬしの人生にも幸多からんことを」
故人にそんなことを言われてしまうと、もう何も言い返せない。
「わかりました。どこまでやれるかわかりませんが、生涯変わることなくフィオレ殿下をお支えします」
「だったらさっさと起きぬか!」
「うわぁ!?」
いきなり姫の声が聞こえてきて、黄金の光景はフッと消え去った。
王様、めっちゃ笑ってたよ。
* *
俺は慌てて起きようとして、肩に走る激痛でまた倒れ込んだ。なんだこれ痛すぎる。俺の腕、ちゃんとくっついてる?
「姫様、ジュナン殿が目を覚ましましたよ!」
「そんなものは見ればわかるわ! 幸せそうな顔で死にかけおって、この痴れ者めが!」
耳元でキンキン声がやかましい。だが間違いなく、これは姫の声だ。
「おはようございます、姫」
「今は真夜中だぞ、痴れ者」
ふんと鼻を鳴らして、姫が俺の額にべしゃりと濡れ布巾を叩きつける。もうちょっと絞ってくれ。顔がびしゃびしゃだ。
「ここは……?」
「ユナトに戻る船の中だ。おぬしは丸一日半、意識を失ったままであったのだぞ。この痴れ者め」
そんなに寝てたのか。やはりあの戦いでかなり消耗したようだ。それにしても痴れ者痴れ者としつこい。
ふと床を見ると、メステスが突っ伏して寝ていた。背中に毛布が掛けてある。
「こいつ、どうしたんです?」
「おぬしの看護で力尽きてな。それはもう見ていて気の毒になるほど取り乱しておった」
溜息をつき、そっぽを向いた姫が壁に寄りかかる。
「むやみに命を投げ捨てるような真似は許さぬぞ」
「申し訳ありません。ですが、姫には言われたくないです」
元はと言えば、姫が騎士たちの先頭に立って突撃したからだぞ。
しかし姫は聞いていない様子で、ぶつぶつ呟いている。
「おぬしを死なせたら、一生癒えぬ傷を負うところであったわ。まったく、こやつはなんとも実に度しがたい。……たら、ちゃんと責任をだな……それこそ一生をかけて……」
言いたいことがあるなら、こっち向いてはっきり言ってくれません?
しかし姫はにゃむにゃむ言いながら壁に体を預け、そのままズルズルと床に沈んでいった。
「姫!?」
「大丈夫ですよ、徹夜で看護してお疲れなのでしょう。ジュナン殿が死んだら自分の責任だと、泣きそうな顔で手を握っておいででしたよ」
すかさず姫をキャッチしたカナティエが、困ったような微笑みを浮かべる。
「やっと姫様がお休みになられましたので、このまま寝所までお連れします。誰か人を呼びますので」
「ははは……。すみません、カナティエ殿」
みんなに迷惑かけちゃったな。後で姫やメステスにもお礼を言わないと。
カナティエが静かに告げる。
「ユナト軍は無事にファルガまで退却できましたが、国王陛下はリュジオン河を渡る途中で崩御されたそうです。そのため、主立った者だけでいったん帰国することになりました」
「そうですか……」
夢に出てきたあの王様は、もしかすると本当に?
だが答えが得られるはずもなく、俺は思考を振り払って船の天井を見つめる。
「帰国したら忙しくなりそうですね。今のうちに傷を癒やしておきます」
「ええ、それが良いと思います。どうか姫様をお守りください」
すがるような目で俺を見つめ、カナティエは片手で姫を抱いて船室を出ていった。反対側の手でメステスも担いでいたような気がする。やっぱり疲れてるのかな、俺。
俺は横になったまま、あの黄金に輝く景色を思い浮かべていた。
俺は一度死んだが、二度目の人生をこうして生きている。生きてさえいれば何かができるはずだ。
そうですよね?




