第60話
* *
リュジオン河の穏やかな水面を、夕日が赤く照らしている。
「始まりましたな、陛下」
渡し船に同乗した老騎士が、失った片腕の傷口をさすりながら笑った。包帯からはまだ血が滲んでいる。
他にも数名の騎士が乗っていたが、皆どこか負傷していた。後送される重傷者たちだ。
だが最も深手を負っているのはもちろん、国王オルバだった。
オルバは耳を澄まして、流れてくる音をじっと聞く。
「悪くない感じではあるな。いささか性急さは感じるが、まああの者が何とかするであろう」
「例の紋章官ですか」
「うむ。かの者の実力は未だ未知数ではあるが……少なくともじゃじゃ馬の手綱としては最上級であるゆえ」
ふっと笑い、体を深く傾けるオルバ。死期が迫っていた。
「王様ぁ、もう少しでユナトに還れますんで、しっかりしておくんなさいよ」
操船するフィオレ親衛隊の兵士が、心配そうに声をかける。
「すまぬな。だがこの渡河が冥府の道行きになりそうだ……。銅貨を六枚、船底に置いておくか……」
「陛下、それは何です?」
片目に包帯を巻いた老騎士が問うので、オルバは弱まる声で教えてやる。
「シュテンファーレン家の高祖がな……冥府の河の渡し賃として、家臣の棺に六枚の銅貨を供えた逸話があるのだ……。ゆえに当家では……棺には銅貨六枚を供えると決まっておる」
「ほう。それを姫様たちには教えておかれましたか?」
「さて、どうだったか……オルフィンたちは知っておるはずだが……」
オルバの思考は弱まり、記憶の糸をたどるのが難しくなっていた。
背後から聞こえてくる戦場の喧噪は次第に遠くなり、波の音だけが静かに聞こえてくる。
やがて下流にルマンデ城が見えてきた頃、オルバはほとんど喋らなくなっていた。
「陛下、まだ『こちら』に御座しますかな?」
老騎士の一人が冗談っぽく言うと、オルバは弱々しく応じる。
「まだ、な……まだだ……」
そのときオルバはふと、何かに気づいたように声を上げる。
「明るいな……夜明けか……?」
だが時刻はむしろ日没前だ。サイダル側の、つまり背後の山々に日が沈もうとしている。
「陛下、今は日の入り前にございます」
老騎士たちが告げるが、オルバは眩しそうにユナト側の岸を見つめ、目を細める。
「ではこの温かい光は何だ……? 眩しくて……よく見えぬ……」
オルバは血に濡れた指を伸ばし、前方の夕闇を示す。
「申し訳ございませぬ。我らの目には闇のようにしか」
「そうか……では、いよいよのようだな」
オルバは手を下ろし、それから不意に明瞭な声で吟ずるように声を発する。
「余は家族に恵まれ、家臣に恵まれ、天と地と人の運に恵まれた。まこと、良き人生であったわ」
王はそれきり沈黙する。
違和感を覚えた老騎士たちが、ふと声をかける。
「陛下?」
返事はなかった。
沈みゆく太陽の残光が、その横顔を照らす。
それが王の最期だった。
* *
襲歩でドドドドドドと駈けていくユナト騎士たち。
その先頭を走るのは姫だ。無茶苦茶すぎる。
「姫! 待って! 姫は残って! 総大将でしょう!」
ダメだ、軍馬の襲歩と乗用馬の駈歩じゃ勝負にならない。襲歩なんて習ったことないぞ。差が開く一方だ。
「こら待て! 待ちなさい、姫!」
パカラッパカラッと必死に馬を走らせる俺。鎧も着ないで戦場を走るのはメチャクチャ怖い。やっぱり紋章官でも鎧ぐらいは必要だ。ローン組んで買おう。
前方からはサイダル騎士たちが迫ってくる。この世界で重騎兵は最強の兵科、前世で言えば主力戦車に匹敵する。今の俺は戦車に突進する乗用車と同じだ。
「姫ってば!」
だが誰も聞いちゃいない。
おまけに前方のサイダル騎士たちが左右に分かれ始めた。森を背にしている彼らはユナト騎士たちの突進を左右に避け、俺たちの背後を取って森の中に追い込むつもりらしい。
森に入ると騎馬の脅威度は激減する。スピードは出せないし、自由に進路を選べない。おまけに樹上からの攻撃に晒される。
まずいぞ。
だが俺が何か言うより早く、ユナト騎士たちは左右に分かれたサイダル騎士のうち、右側に対して猛追撃をかけた。
さっき姫が命じていたのは、サイダル側の戦術を読んだ上での指示だったようだ。戦術眼は確かだな。
弧を描きながら回避機動をしているサイダル騎士に対して、ユナト騎士たちは一直線の襲歩だ。あっという間に追いつき、側面から襲いかかる。
軍馬と軍馬が激突する凄まじい戦いになった。みるみるうちに双方の騎士たちが落馬し、蹄と槍でズタズタにされていく。あの人たち、死ぬのが怖くないの?
落馬した騎士は剣を抜き、敵の騎士に組み付いて引きずり落とそうとする。組み討ちになり、双方の軍馬が駆け回る中でごろごろと取っ組み合いを始める連中もいた。
もうどっちがどっちだかわかりゃしない。
「こりゃまずいぞ……」
思わず独り言をつぶやきながら、俺は姫の姿を探す。
あ、いた。一人だけ華やかな色合いの装いをしているから、すぐに見分けがついた。
「姫!」
「むっ!?」
ほとんど反射的に姫の魔剣ウィルベルニルが風切り音を立てるが、リーチの問題で俺には当たらなかった。危ないな、もう。
「なんだ、ジュナンではないか」
「なんだじゃありませんよ。乱戦になりましたから危険です! ここはお退きを!」
しかし姫は応じない。
「馬鹿を申すでないわ。私が退けば皆が退却かと勘違いするであろうが」
だったら最初から突撃しなきゃいいだろ。
文句を言ってやりたかったが、今はそれよりも姫を守るのが先決だ。
「フィオレ殿下!」
「おう、何だ!?」
近くにいた騎士が姫に駆け寄ってきたが、その騎士のサーコート……識別用の上着に染め抜かれた紋章を見て、俺はハッと気づく。
「そいつは敵です! パヴェル家の……!」
その瞬間、サイダル騎士が槍を構えて突進してくる。戦場じゃこんなのは当たり前だ。だから紋章官がいる。
「おのれ、卑怯者!」
だから戦おうとするんじゃないって。小柄で非力な姫じゃ、軍馬の力を借りてもまともに戦うのは無理だ。
「姫をお守りせよ!」
俺は精一杯偉そうな口調で叫び、剣を抜いて騎馬で駆け寄る。でも片手だけで手綱を握るのは難しすぎる。ダメだ、こんなのできない。
幸い、すぐに周囲の騎士たちが気づいてくれた。
「この狼藉者めが!」
「騎士の風上にも置けぬやつ!」
あっという間に袋叩きにされ、パヴェル家の騎士は馬上から叩き落とされた。槍でメチャクチャに突かれて絶命する。もう何もかもが怖い。
すると何か勘違いしたらしい姫が、妙に優しい声で語りかけてくる。
「どうしたジュナンよ、怖ければ私の側から離れるでないぞ」
「いえ、そうではなくてですね」
俺は今、違うことを考えていた。
さっきの騎士は、姫を「フィオレ殿下」と呼んだ。もちろん顔見知りではないだろうから、おそらく軍旗の紋章から姫がここにいることを知ったのだろう。
おそらく他のサイダル騎士たちも姫を狙っている。たぶん。
「姫、ここに留まると敵に狙われ続けます。姫をお守りしながらでは、味方の騎士たちも戦いづらいかと」
俺がそう言うと、姫は渋い顔をしながらもうなずいた。
「それはそうかもしれぬが、退くのは嫌だぞ」
ダメです、帰りますよ。戦場は子供の教育に良くない。
だがそのとき、後方から蹄の音が近づいてきた。
「いかん、敵の左翼が戻ってきおった!」
左右に分かれたサイダル騎士たちのうち、左翼側の騎士たちがUターンして戻ってきたらしい。
しかも俺たちは戦っているうちに、森のすぐ近くまで接近していた。逃げ場がないぞ。
「新手が来おったか!」
「構わん、まだ殺し足りんからな!」
皆さん意気軒昂で大変結構ですが、俺は紋章官だから逃げたいです。
「おう、存分に戦働きをするがよいぞ! 私が見ていてやる!」
あっちで魔剣を振り回して吠えている姫もいます。あんたはダメだろ。
だが普通に言っても聞きやしないので、俺は適当に言いくるめようとする。
「姫、せめて後ろに下がりましょう。前に出すぎると視野が狭くなり、指揮が執りづらくなります」
「む?……そうか? そうかも」
変なところで素直な姫は、俺の言葉に納得したようだ。
そうこう言っているうちに、サイダル騎士たちの一群がこちらに迫ってくる。
「姫をお守りするぞ!」
「おう!」
「サイダルの山犬どもに騎士道を叩き込んでくれるわ!」
やたらと士気が高いのは、やはり姫の人望なんだろうか。みんなギラついてて怖い。
「ささ、姫は後ろに」
俺は手綱を捌いてそそくさと下がり、姫も渋々ではあるが俺と共に後列に退く。
サイダル騎士の右翼はほぼ殲滅したが、左翼だけでもまだ二百騎ほどいるな。
ここは王の騎士たちに何とかしてもらおう。




