第56話
北進を続けていたユナト軍だったが、南に引き返すことになった。
当然、敵の追撃が予想されるので、かなり憂鬱な撤退だ。
でも、そうじゃないヤツもいる。
「なぜ殿軍を私にお命じにならないのです!?」
そうじゃないヤツ筆頭の姫が声を張り上げたので、国王オルバは首を横に振った。
「我が子を殿にする父親がどこにおるか。たわけたことを申すでない」
それはそうだ。
しかし姫は父親に食らいつく。
「だからといって国王が殿など聞いたことがありません。それに父上は総大将ですよ!?」
それもそうだ。
だが王は頑として意見を変えなかった。
「よいか、撤退時に最も恐れるべきは士気の崩壊だ。それはわかるな?」
「はい」
こっくりうなずく姫に、父王は諭すように続ける。
「もし総大将が殿なら、先を行く兵たちは安心できよう。この安心こそが今は何にも代えがたいのだ」
「それはわかります。だからこそ王族である私が殿軍を……」
なおも言いつのる姫の肩に、父王は分厚い掌を静かに置いた。
「その気概や良し。だがお前ではまだ軽い。兵士たちにとって、実戦経験の浅い姫よりも歴戦の王の方が安心材料となろう」
女性というだけで軽く見られるのがこの世界だが、特に戦場ではそれが非常に激しい。多少の実績はあるが、さすがに父王ほどの安心感はないだろう。
それは姫自身がよく理解しているので、彼女は悔しそうにうなずく。
「父上の仰る通りです。では私は何をすれば良いのですか?」
さすがに姫も、一緒に殿軍を務める訳がないことは理解している。遠征軍にいるたった二人の王族だ。それぞれが違う役割を持つ方がいい。
王は満足げにうなずく。
「さすがに察しが良いな。おぬしは先行し……いや先頭はいかんな、隊列の中程にて主力を指揮せよ」
「中程ですか。なるほど……」
姫はニヤリと笑う。なんだろ、どういうこと?
「つまり敵は我が軍の尻尾に食らいついてくるだけでなく、横腹を突こうとしてくるとお考えなのですな!」
「いかにも。おぬしが先頭にいれば、隊列中央を攻撃された際に分断されてしまう。おぬしと兵の半数は帰還できるが、兵を半数失ってしまえば遠征は失敗だ。兵力回復のため、数年は戦えなくなる」
なるほど。国王は姫にも楽をさせる気はないらしい。信頼の証だな。
国王は重々しい口調で我が子に命じる。
「おぬしの役目は、諸侯から預かった大事な兵をファルガ港まで無事に送り届けることだ。逆ではないぞ」
「承知しております、父上!」
目をキラキラと輝かせ、姫は力強くうなずく。やっぱり親だけあって、姫の扱いが巧いな。俺も参考にしよう。
そう思っていたら、国王が俺を見た。
「エンド卿よ、そなたは与力としてフィオレを支えよ。必要とあらば、この子を叱責しても構わぬ」
「私は平民上がりの若造ですよ。よろしいのですか?」
俺は驚いてそう尋ねたが、国王は豪快に笑った。
「平民だろうが若造だろうが、フィオレ付の王室紋章官であることに変わりはあるまい。これまでの働きから、そなたが誠の忠臣であり、信頼に足る傑物なのは明らかである。多少手荒くしても構わんから、こやつが変なところで死なんようにケツを叩いてやれ」
「ケツゥ!?」
姫が嫌そうな顔をしてお尻を手で隠すが、あくまでも比喩なので本当にお尻ぺんぺんはしません。しなくていいよね?
「ケツ……」
姫が俺をじっと見てくるが、俺は気づかないふりをして国王に一礼する。
「承知いたしました。我が命に代えましても、フィオレ殿下をお守りいたします」
「うむ。フィオレよ、エンド卿の言葉は余の言葉だと思え。言うことはだいたい同じであろうからな」
国王は豪快に笑うと、甲冑をまとって天幕を出る。周囲には古参の騎士や近衛兵たちが付き従っていた。中年ばかりだが、おそらく自ら捨て駒になる覚悟を決めた面々だろう。
王の愛馬を牽いてきた騎士がバイザーを上げ、古傷と皺だらけの顔で笑った。
「陛下、またうまいこと言って一番美味しいところを独り占めなさるおつもりですな?」
「たわけ者め、おぬしらもそれを期待しておったくせに」
笑う国王に手綱を差し出す老騎士。
「しかし国王御自らが殿とは……」
すると国王は巨体に見合わぬ身軽さで愛馬にふわりとまたがり、こう言った。
「ウルリスとフィオレがこれだけ立派に育ったのだ。もうそろそろ好きなことだけして暮らしてもよかろう。父親の務めは果たした。余には余の人生がある」
「それで殿ですか。まったく戦好きですな」
呆れた様子の老騎士。
別の老騎士が騎兵槍を差し出しながら苦笑する。
「だから取り巻きがこんな連中ばかりなのですぞ、陛下?」
「自分で言うヤツがあるか。しゃべっとらんで自分の馬に乗るがよい。それとも一人では馬にも乗れんか?」
国王が意地悪そうに尋ねると、騎士たちがどっと笑う。
「まだそんなに歳は取っておりませんぞ!」
「いやあ、貴公は少し怪しい!」
「わはははは!」
撤退戦だってのに楽しそうだな。俺なんか追撃が怖くてビクビクしてるのに。
姫はそんな父親を眩しそうに見ていたので、俺はそっと促す。
「さ、姫。我々も自分の務めを果たしましょう」
「そうだな。行くぞジュナン、カナ」
姫も天幕を出て歩き出したが、最後にもう一度だけ父親を振り返る。
「どうか御無事で……」
何かにすがるような祈りの声は、俺とカナティエだけが聞いていた。
* *
林の中に騎馬の集団が佇んでいた。掲げられた軍旗はユナトのものではない。
「ほ、本当にやるのか……こんなことを?」
「亡き父上の無念を晴らす機会ですぞ。陛下がわざわざ、貴公にお命じになられた理由がおわかりにならぬか」
青ざめた顔でしきりに懐を気にしている若い騎士。
その横には紋章官らしい非武装の老人がいた。彼は続ける。
「御覧なさい。ユナト軍はどうやら、国王自らが殿軍を引き受ける様子。あの程度の寡兵ならば、退路を囲まれる心配もありますまい」
「だが、だがユナト王オルバは一騎討ちで負けたことがないと……。それに私が命じられたのは、フィオレ王女の追討だぞ?」
「大鹿を狩る好機を前に、そのような子鹿のことなど忘れておしまいなさい。フィオレを討っても汚名をそそぐのがせいぜいですが、オルバを討てば貴家の誉れは天井知らずですぞ」
老人は声を潜める。
「それともやはり、ガソー家の男は女に負ける程度の器ですかな?」
「そんなことはない! 王室紋章官ごときが我が父を侮辱するなど許さんぞ!」
潜んでいるのに大声を出し、若い騎士はバイザーを荒々しく下ろす。
「本当に私が一騎討ちを申し込めば、先方は受けてくれるのだろうな?」
「殿軍は士気が崩壊すれば終わりですからな。兵の士気を保つためにも、殿軍の将は雄々しく振る舞わねばなりません」
老人は声に笑みを含ませた。
「とはいえ、王族に挑むならば相応の家格は必要。その点ガソー家の現当主ならば、国王とて受けぬ訳には参らぬでしょう」
「そ、そうだな。よし、わかった。やるぞ」
若い騎士は手綱を持ち直し、配下の騎士たちに命じる。
「これより私がユナト王オルバを討つ! お前たちは私の退路を死守せよ!」
騎士たちは少し遅れて、無言でうなずいた。
「行くぞ!」
ガソー公配下の騎士と郎党たちは馬を駆り、撤退中の敵軍へと突進していった。
わずかな護衛と共に残った老人は、馬上でぼそりとつぶやく。
「親が親なら子も子よのう」




