天使
孫ゴクウはその傍らで、ツインテールの少女が放った言葉を聞き、昊天に劣らぬ衝撃を受けていた。
琥珀を思わせる黄金の瞳は、思わずハルカの横顔を見つめる。本来ならば目の前の敵は昊天であるはずなのに、胸の奥から込み上げてきたのは、目の前の少女と本気で勝敗を決したいという抑えがたい衝動だった。
その感情に応えるように、知らず知らずのうちに拳へ力が入り、指先がぎゅっと握り締められる。
「……っ!危ねぇ!」
次に、孫ゴクウは咄嗟にハルカの腕を掴み、そのまま強引に自分のところへ引き寄せた。二人は池のほとりを何度も転がり、間一髪でその場を離れる。
「ガァァァァッ!!」
直後、鋭い咆哮とともに白い巨犬が飛び込んできた。
雪のように白く長い毛並みは雲をまとったように柔らかく揺れ、逞しい四肢には鋭く光る鉤爪が備わっている。牙を剥き、低いうなり声を響かせるその姿は、神獣と呼ぶに相応しい威容だった。
その背に跨っていたのは、氷青色の髪を揺らす白装束の少女――楊ゼンだった。
彼女は孫ゴクウが自らの一撃を躱したことを目の当たりにすると、その美しい顔を怒りで歪める。
「うわぁっ!?でっかい犬!天上って何でもありなの!?」
目を丸くして叫ぶハルカをよそに、楊ゼンの視線は孫ゴクウだけを射抜いていた。
「もうトランスグレッサーどもと手を組んだというわけか……見損なったよ、孫ゴクウ!」
「ハッ!勝手に失望してんじゃねぇよ!見損なったのはこっちの方だ!」
【楊ゼン】
昊天の重々しい声が二人の言い争いを断ち切る。
楊ゼンは即座に姿勢を正し、金身へ向き直って深く頭を垂れた。
「誠に申し訳ございません、陛下。この猿の小賢しいまねを見抜けず、到着も遅れてしまいました……!」
【己の過ちを理解しているなら、それでよい。今すぐ汚名を雪げ】
「……御意」
楊ゼンは静かに顔を上げ、その冷たい双眸を再び孫ゴクウへ向ける。
「さあ――あの男を、噛み砕きなさい」
「ウーッ……ガウッ!」
命令を受けた白き神犬は地を蹴り、一瞬で孫ゴクウとの間合いを詰める。そのまま体当たりする勢いで飛びかかり、左肩へ鋭い牙を深々と突き立てた。
「ぐっ……!」
噛みつかれたまま数メートル先まで強引に押し飛ばされる孫ゴクウ。ハルカは思わずそちらへ駆け出そうとする。
「えっ、ちょっ!」
【他人を気遣う余裕が、まだ貴様にはあるというのか。トランスグレッサー】
昊天の低い声が響いた瞬間――
大地が轟音とともに砕け散る。無数の岩塊が宙へ浮かび上がり、豪奢を極めた瑤池は見る間に崩壊していく。池の水は重力を失ったように天へ舞い上がり、岸辺の柳や巨木は根こそぎ引き抜かれて空中へ浮遊した。
さらに空を覆っていた白雲までもが禍々しい妖風に吹き散らされ、代わって黒雲が天を埋め尽くす。雷鳴が雲間で不気味に唸りを上げ、まるで大地を見下ろすように待ち構えていた。
ハルカはゆっくりと振り返り、瑤池の中央にそびえる金身を真正面から見据える。
拳を固く握り締め、息を吐いた。
「……一対一か。望むところだ」
その口元には、恐れではなく、不敵な笑みが浮かぶ。
「――来い!」
「……どうした。何も言い返せなくなったか?」
フクロの声は確かに聞こえていた。だが、その言葉はまるで遠くから響いてくるようだった。ヒヨリの身体は石になったように動かない。
黒髪の少年は目を伏せた。
「……もういい。行け。お前たちが何をしようと、もう俺には関係ない。どうせまたどこかで会うことになるだろう。その時は――敵同士だ」
彼はそれだけ言い残し、踵を返した。遠ざかっていく背中。規則正しい足音は決して大きくない。それなのにヒヨリには、一歩ごとに胸の奥で爆発が起きるように響いていた。
――行かせたら、終わる。
何もかも、終わってしまう。
「……清淼」
静寂を裂く声と同時に白い霜が地面を駆け抜ける。次に、フクロの両脚と両腕は厚い氷に呑み込まれ、その場へ縫い留められた。
フクロは目を見開き、ゆっくりと振り返る。
「……どういうつもりだ」
その声には、これまで押し殺していた苛立ちがはっきりと滲んでいた。
ヒヨリは一歩、また一歩と彼へ近づく。逃げることも、目を逸らすこともしない。
「……行かせない。ここでお前を否定したら……俺は、ここまで歩いてきた自分まで否定することになる。だから……絶対に行かせない」
刹那、黒い雷が天を裂いた。九重の天を覆う雷雲が怒りを映したように渦を巻き、漆黒の稲妻が凄まじい勢いで氷を粉々に砕く。ヒヨリは反射的に後方へ飛び退き、直後、先ほどまで立っていた場所が黒雷に呑み込まれて轟音とともに砕け散った。
やっぱりあれだけじゃ止められない。なんとなくヒヨリも予想していたが、それでも悔しい。
氷の欠片が舞う中、フクロはゆっくりと身体を起こした。赤い瞳には怒りだけではない。悲しみとも苦しみとも違う、ヒヨリにはまだ読み取れない感情が激しく揺れている。
「……お前だけは……」
震える声だった。
「俺はここまで譲ったぞ。なのに、お前だけは……ここで必ず倒さなきゃいけないんだ、ヒヨリ……!」
ヒヨリは拳を握り締め、胸いっぱいに息を吸い込む。真正面から、フクロを見据えた。
……そういうことだったんだな。
全力で戦え――あれは、お互いを傷つけろという意味じゃない。互いの本音も、覚悟も、何もかも隠さずぶつけ合え。そういうことだった。
ありがとうな、ハルカ。
「だったら来い、フクロ。俺は絶対に負けない。絶対に、お前を行かせない。そして――絶対に、お前を敵になんかしない!」
返事の代わりに雷光が走る。ヒヨリは身を沈め、紙一重で大太刀を躱した。しかし避けた次の瞬間には、赤黒い雷を纏った天譴が軌道を変え、容赦なく追撃してくる。ヒヨリは刀身の側面を蹴り飛ばして無理やり間合いを作り、一気に後方へ跳んだ。
それでも意味はなかった。
雷より速く、フクロはすぐ目の前へ現れる。重い衝撃とともにヒヨリの身体は吹き飛ばされ、廃墟を転がった。
【くっ……!やっぱりフクロは今まで本気やあらへんかった……!あれほど莫大なハタを消費しとるはずやのに、疲労の気配がまるであらへん……どういうことや……!】
「……師匠!」
地面を転がりながらヒヨリは息を切らして叫ぶ。
「フクロも……俺みたいな存在ってことはないのか?」
【あり得へん。ニュークリアスほど特異な存在が、同時にいくつも生まれるはずあらへん。あやつはおぬしとは違う。ハタが多いんやのうて、根印そのものの性能が異常なんや……それと、あやつのハタの性質も、少しおかしい。おそらく、何かしらの改造を施されたんやろう。せやったら勝機は一つや。長期戦へ持ち込み。再生力で上回るおぬしやったら、まだ可能性はある!】
「――一閃」
その声が聞こえた瞬間だった。
どすり、と鈍い感触が胸を貫く。気づけば天譴はヒヨリの心臓を正確に射抜いていた。
【なっ……ヒヨリ!!】
鮮血が刀身を伝い、赤い雷火がその血を照らす。
フクロは冷たく見下ろした。
「……俺を相手に、まだ余所見をする余裕があったのか」
血を吐きながらもヒヨリは彼を見つめ返し、そのまま一歩前へ踏み出す。そして胸を貫いた刀身を両手で掴んだ。凍気が爆ぜ、一瞬で天譴全体を氷が覆う。
フクロは即座に反応し、蹴りでヒヨリを吹き飛ばすと刀を強引に引き抜いた。しかし心臓を貫かれた傷は、すでに再生を始めている。
あり得ない。心臓を刺しても、なお立ち上がる。
そして、突風が巻き起こる。翡翠色のハタが肉眼でも見えるほど濃密に渦を巻き、暴風となってフクロの四肢を拘束した。無数の風刃が白い肌を裂き、赤い線を次々と刻んでいく。
「……お前、いつの間に……!」
三つ目の異能力。多分これは、キュウキの異能力を模倣した結果だ。
こんなのあるわけない。常識ではどうしても説明できない。だが、ヒヨリという存在そのものが最初から常識の外側にいた。
荒れ狂う風の中、ヒヨリは苦しそうに息を整えながら口を開く。
「……ずっと言えなかったことがある。俺、本当は少し嬉しかったんだ。俺と同じ人が、ここにもいるって思ったから」
フクロの瞳が揺れた。
「ごめん、フクロ。お前は本気で悩んでたのに……俺は、そのことに勝手に安堵してしまっていた」
フクロはゆっくりと俯き、前髪が赤い瞳を覆い隠す。
「……そんなことは、どうでもいい。もう俺とお前は違う。お前が、お前である限りな」
「そうかもしれないな。例え宇宙がどれほど広くても、まったく同じ人なんていないだろう。でもさ……もし本当に俺たちが分かり合えない存在なら、どうしてここまで一緒に来られたんだ」
彼の声が熱を帯びる。
「人は変われる。過去のことがお前一人じゃ抱えきれないなら……一緒に背負うのが、分かり合える人なんじゃないのか!」
「……お前に、どの口が……」
フクロの身体が震え始める。風刃に皮膚を裂かれながらも、なお力づくで拘束を破ろうとしていた。
「苦しみも……悲しみも……罪も……そんな軽い言葉で終われるものじゃない!!」
空が一気に暗転する。雲は巨大な渦となり、黒雷が狂ったように咆哮した。
「――ディオニュシオス、展開」
天から極太の雷が落ちる。風の檻は一撃で消し飛び、世界は白い閃光に包まれた。
やがて光が晴れ、ヒヨリは息を呑む。
フクロの背後には、闇そのものが翼となって広がっていた。黒い紋様は宙へ伸び、巨大な双翼のように天空を覆い尽くす。その頭上では漆黒の輪が静かに回転し、絶えず火花を散らしている。
見たこともない姿。聞いたこともない力。
その神々しくも禍々しい姿は――まるで、天使そのものだった。




