世界を越える者
【ハルカ……ねえ、ハルカ!】
「ん?何?」
ハルカは人気のない宮殿の回廊を駆け抜けながら、少しずつ二人から距離を取っていく。崩れ落ちた廃墟も、やがて彼女の背後へと消えていこうとしていた。
【……本当に、それでいいの?】
アルテミスはどこか不安げな声で問いかける。
【あの二人に、本気で戦うなんて……もし、彼らが……】
「死んじゃったら、って?」
アルテミスは何も答えなかった。ただ、その沈黙が肯定だった。
ハルカは走る速度を少しも緩めないまま、前だけを見つめて口を開く。
「……心配してないなんて嘘だよ。できることなら、これからも三人で、前みたいに一緒にいたいって思ってる。でもね」
彼女は小さく笑った。
「何でも思い通りに進むなんて、そんな都合のいいことあるわけないじゃん。特に、私がやりたいことを貫こうとするなら、うまくいかないことのほうがずっと多い。だったら、それもひっくるめて進むしかないんだよ」
【……どうしてなの。どうして私たちみんなは、苦しみを背負って前へ進まなきゃいけないの】
「私は逆に思うけどね。上等じゃん、って。どれだけ壁があってもさ、結局は乗り越える方法のほうが多いんだと思うよ。毎回、必死になって越えたあと振り返ると、なーんだ、あの程度だったのかって思えるし」
【……強いね、あなたは】
その言葉に、ハルカは胸を張るように笑った。
「当たり前!私は最強だから!」
――ガキン。
瓦礫へ深く突き刺さっていた刀が、重々しい金属音とともに引き抜かれる。
ヒヨリは、まっすぐ立つフクロを見つめ返した。二人はただ黙って視線を交わし続ける。風だけが、崩れ果てた宮殿跡を吹き抜けていく。まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。このまま永遠に、何も言葉を交わさず向き合っていられるような、そんな錯覚さえ覚える。
「……フクロ」
沈黙を破ったのは、ヒヨリだった。
その時黒い影が、音もなく目の前へ現れる。何の予兆もなく、何一つ捉えられないまま、赤いの装束と血のように瞳が、手を伸ばせば届く距離まで迫っていた。
こんなにも近くでフクロと向かい合うのは、もしかすると初めてかもしれない。
「ハルカが言っていたな。俺に言いたいことがあるんだろう」
風に乗って届くその声は、驚くほど静かだった。別れてから、まだそれほど時間は経っていない。それなのにヒヨリには、ひどく懐かしい声に聞こえた。
「うん。お前も、俺が何を言いたいのか分かってるはずだ」
「――無駄だ。俺がお前たちと行動していたのは、記憶を失っていた間の偶然に過ぎない。もう、その理由はなくなった」
「お前は……!」
ヒヨリは勢いよく彼の肩を掴み、そのまま自分のほうへ引き寄せた。
「いつまで勝手に全部決めつけるつもりなんだよ!何があっても何も話さない!一人で全部抱え込む! 俺たちのこと、そんなに見下してるのかよ!」
「……強いて言うなら、そういうことになる」
フクロの声はどこまでも冷静だった。
「俺は、お前たちとは違うから」
彼はヒヨリの手首を強く握り締め、その手を肩から無理やり引き剥がす。
「ここだけじゃない。この先には、ドミネーターを倒すために、お前の想像をはるかに超える犠牲を払ってきた世界がいくつもある。勝つため、生き残るためなら、昊天以上に手段を選ばず力を求める連中もいる。そんな現実を、お前やハルカが背負えるはずがないんだ、ヒヨリ」
言い終えると同時に、彼はヒヨリを突き放した。数歩よろめきながらも、ヒヨリは叫び返す。
「俺とハルカだけじゃないだろ!ドミネーターは宇宙全体の敵なんだ!だったら、みんなで立ち向かえばいいじゃないか!俺は、お前たちに出会わなかったらここまで来られなかった!みんなが力を貸してくれなかったら、ここまで進むことだってできなかった!」
拳を強く握り締める。
「俺にとって、お前とハルカは……初めて俺を受け入れてくれた人なんだ。やっと……やっと手に入れた、大切な居場所なんだよ。その意味がお前に分からないなんてはずないだろ!だって――お前と俺は、同じだったじゃないか。何も持っていなかった。何もない者同士だったじゃないか!」
「……ああ」
フクロは目を伏せ、顔を背けた。
「確かに、そうだった。だが、もう違う」
その瞳には、どこか諦めにも似た色が宿っていた。
「記憶を取り戻しつつある今の俺は……残念だが、お前には決して受け入れられない。理解することもできない存在なんだ」
「はぁ!?お前がそんな奴なわけ――!」
「黙れっ!!」
激しい怒号が、崩れた宮殿跡を震わせた。普段はどれほど感情を抑えていても決して取り乱さなかったフクロが、喉が裂けるほどの声で叫ぶ。
「俺の過去を何一つ知らないくせに……!俺自身だって、俺を知らないというのに、何てお前もハルカもそう言い切れる?!」
赤い瞳が怒りに燃え上がる。
「知ったような口を利くな、ヒヨリ!お前は俺のことなんて何一つ知らない!俺が何者だったのか、この手で何をしてきたのか……お前は何も知らないんだろう!」
薄緑の刀身が識転し粒子となって消え去る。代わってその手へ現れたのは、長大な大太刀――天譴。
その刀を握り締め、フクロは吐き捨てるように言った。
「お前は嬉しかったんだろうな。孤独だった自分の隣に、一緒に歩いてくれる人ができて」
その声は怒りだけではなかった。苦しみと、自嘲と、どうしようもない絶望が滲んでいた。
「……だが、俺は違う。お前みたいな奴が俺の隣にいること自体が、俺には耐え難い苦痛なんだ。俺はもう……お前たちと一緒にいることに、うんざりしてるんだよ」
――その一言がまるで巨大な岩でも落ちてきたかのように、ヒヨリの胸の奥へ重く沈んだ。
違う、と言い返したい。
そんなはずはない、と否定したい。
なのに喉は震えるばかりで、声は出ない。
首を振ろうとしても、身体はまるで石になったように動かなかった。
フクロはそんな彼を見下ろし、侮蔑を滲ませた眼差しで言い放つ。
「……それでも、お前はまだ俺と同じだと言うつもりか?」
ハルカは絶え間なく石畳を蹴り、ひたすら駆け続けていた。道中には天兵の姿は一体もない。妨げられることもなく、宮殿の回廊を一直線に進んでいく。
「天兵が全然いない……ってことは、ヒヨリ、本当にあのなんとか中枢を壊したんだ!さすが私が見込んだ男だね!やるじゃ――……あれ?」
ふと、彼女は足を止めた。
目の前に広がる光景に、思わず息を呑んだからだ。
雲海の奥深く――そこには、白玉を岸辺とし、瑶石を敷き詰めた幻想的な池が静かに広がっていた。水面は鏡のように澄み切り、流れの源すら見えない。さざ波一つ立たず、九天を流れる雲影をそのまま映し込んでいる。薄くたなびく霞が池を包み、岸辺には柳が林立して風に枝を揺らしていた。
池の中央には白い玉橋が優雅な弧を描き、欄干には瑞雲が精巧に彫り込まれている。その隙間には透き通る玉鈴がいくつも吊るされ、風が吹くたび澄み渡る音色が天上へ響いていた。さらにその向こうには壮麗な宮殿群。黄金の瓦は陽光を浴びて輝き、幾重にも重なる雲の階とともに瑶池を囲み、まるでこの世で最も神聖な仙境を形作っていた。
「……わぁ……すっごく綺麗……天の上にも池なんてあるんだ!?」
ハルカはきょろきょろと辺りを見回しながら感嘆の声を漏らす。だが、すぐにその視線が一点で止まった。
「……ん?」
池のほとりに、一人の男が上半身を岸へ投げ出したまま倒れている。
「ちょっ、大丈夫!?」
ハルカは慌てて駆け寄り、その身体を両腕で引っ張って岸へと引き上げた。
燃えるような赤い髪。額には黄金の輪。黒い戦装束をまとった男だった。岸へ引きずり上げられると同時に、彼は激しく咳き込み、水を何度も吐き出す。
「ごほっ、ごほっ……っ!ったく、よりにもよって池に落ちるとは、締まらねぇな。助かったぜ。お前は――」
顔を上げようとした、その瞬間ハルカが両手を地面につき、勢いよく顔をぐいっと近づけてくる。
「おい……何だ?」
「やばい、やばいやばいやばい……!」
ハルカの瞳がきらきらと輝く。
「ものすっっっごく好みの男来たぁぁぁぁ!!狂気っぽいのに自由人で、でも意外と一途そう!うわぁぁ最高!本当に最高!ねぇ名前は!?私はハルカ!お願いだから昊天の手下だけはやめてね!?」
男はきょとんと目を丸くしたあと、思わず吹き出した。
「ははははっ!安心しろ。この俺、孫ゴクウがあんなクソジジイとつるむわけねぇ」
そう言って立ち上がると、濡れた上着をぎゅっと絞り、水を地面へ滴らせる。裾の下からは細長い尾が堂々と伸びていた。それを見たハルカの目はさらに輝きを増したが、そこには突っ込まなかった。
「それで?」
孫ゴクウは腕を組みながらハルカを見る。
「お前、トランスグレッサーだろ。あの黒髪の小僧の仲間か?」
「うん!」
ハルカは勢いよく頷く。
「そっか、フクロのこと知ってるんだ!私は今から昊天をぶっ飛ばしに行くところ!あ、もしあんたも昊天の敵ならさ、どれだけ私のタイプでも、あいつをぶっ飛ばすのだけは譲れないからね!」
「ほぉ?」
孫ゴクウは楽しそうに口角を吊り上げる。
「言うじゃねぇか、小娘。だが俺もあのクソジジイを殴ることだけは譲る気ねぇな……しかし、どこへ吹っ飛びやがったんだ、あいつ」
ゴゴゴゴゴ……
足元が大きく揺れ始める。二人は同時に表情を引き締め、即座に戦闘態勢へ入った。
静まり返っていた瑶池の中央から、水柱が立ち上る。何か巨大なものが、水底からゆっくりと姿を現していく。
――昊天の金身だった。
しかし、その姿は先ほどまでとはまるで違っていた。かつて滑らかだった黄金の外殻は無数の亀裂で覆われ、その多くが砕け落ちている。内部には幾重にも重なる砲身や銃口がむき出しとなり、装甲の隙間から覗いていた。
しかも内部には大量の水が入り込んでいたらしく、巨体が浮かび上がるたび、ざあっと滝のように瑶池へ流れ落ちていく。
あれほど圧倒的だった威容は失われ、残された外殻も今にも崩れ落ちそうなほど脆くひび割れていた。
【……よくもここまでやってくれたな、猿】
昊天の声には、隠しきれない怒気が滲んでいた。
「はっ!」
孫ゴクウは鼻で笑う。
「散々牢獄にぶち込んでくれた礼だよ、クソジジイ!」
【円環との繋がりを断たれた貴様が、まだこれほど我へ干渉できるとは思わなかった……ふん、まあいい。こんなことになる可能性も承知の上で、この道を選んだのだからな。これは甘んじて受けよう】
ハルカは驚いたように孫ゴクウを見る。
「……あれ、あんたがあそこまでボロボロにしたの?」
「俺の身分は少し特殊でな」
孫ゴクウは金身を睨みながら答える。
「昊天の中に取り込まれたサハだけは、俺の権能が通じるんだ。今のあいつは、この世界の霊脈との繋がりを失ってるはずだが、体内に溜め込んだハタも、この天宮中に満ちてるハタも、まだ全部あいつのものだ。弱ったとはいえ、侮る相手じゃねぇ」
【……我は、貴様たちトランスグレッサーという存在を、根本から見誤っていたようだ】
その言葉に、ハルカは鋭く振り返る。金身を真っ直ぐ見据え、その紫の瞳が燃え上がる。
【この世界を守るため、我はすべてを賭けた。これほどのリスクを冒してまで築いたものを、貴様たちは平然と壊そうとする……何という傲慢。何という愚か。何という残忍!】
「その台詞、そっくりそのまま返してやるよ、このクソ野郎!」
ハルカは怒鳴り返した。
「自分のやってることが、本当に全部正しいとでも思ってるのか!」
【当然だ】
昊天は一切迷わず断言する。
【我の行いは、すべてこの世界の万物のため。この世界に残された、唯一の救済なのだから】
「……救済、だって?私の家族を怒らせて……私の友を殺して……!そんなことをしておいて……どの口で救済なんて言えるんだ!!」
【……なるほど。最初から貴様を気に入らなかった理由が分かった。あの忌々しい魔剣使いの……】
ハルカは剣を構え、真正面から睨み返した。
「あんただけは、私が倒す」
その声には一片の迷いもない。
「ルキウスが止められなかったなら、今度は私が止める。それがあんたが、私たちから絶対に奪っちゃいけないものを奪った代償だ!」
【矮小なる人類よ、己の身勝手な願いのために、この世界そのものを滅ぼす気か!】
「――違う」
紫色の瞳が炎のように揺らめく。
「勝手に被害妄想を膨らませんな、でっかいだけのガラクタ。私は、あんたの世界をどうするなんてこれっぽっちも興味ない!私の目標はドミネーター!そして、その先に広がるもっと大きな宇宙だ!あんたなんて――その途中に転がってる、ただの小さな石ころでしかないさ!」




