一緒にいてくれる人
「……っ!」
喉元へ突如として薄緑の刃が突きつけられた。次には視界が激しく反転し、ヒヨリは背中から地面へ叩きつけられていた。何が起きたのか理解する間もない。いつ天譴を薄緑へ識転したのか、どうやって組み伏せられたのか、その一切を捉えることすらできなかった。
気づけばフクロはヒヨリの上へ跨り、刃先を喉へ深々と押し当てている。
「お前が何種類の能力を持っていようと関係ない。こうして押さえ込めば、能力を使う隙なんてない」
血のように紅い瞳が、これまで以上に深く、禍々しい色を帯びる。
「……お前なんかに分かるはずがない。見ず知らずの相手まで馬鹿みたいに助けようとして……その手を一度も血で汚したことのないお前なんかに……俺の気持ちなんて分かるはずがない!」
薄緑の刃が皮膚を裂き、首筋を温かな血が伝う。だが胸を締めつける痛みは、それ以上だった。
「焼け焦げた死体……千切れた肉の奥に覗く臓器……耳を塞いでも終わらない悲鳴……!」
フクロの声は震え、徐々に激情へ飲み込まれていく。
「目を閉じるたびに、あの声も、あの臭いも、全部俺を無理やり現実へ引き戻す!何をしたって消えない……俺は一生、この過去から逃げられない!そんなもの……お前なんかに分かるはずがないだろ!!」
「……っ!」
ヒヨリは歯を食いしばり、必死に身体を起こそうとする。しかしフクロの腕力は先ほどまでとは別人のようで、わずかに身じろぎすることすら許さない。
それでも、戦わなければならない。
「……雷電、招来!」
一瞬だけフクロの表情が揺らぐ。その隙を逃さず、黄金の雷がヒヨリを中心に轟音とともに炸裂した。
フクロは即座に後方へ跳び退き、数メートル先へ着地する。今の彼なら、この程度では捉えられない。それでも十分だった。拘束から解放されたヒヨリは咳き込みながら身を起こし、乱れた呼吸を整える。
「今のは……タマモの力か!」
フクロは忌々しそうにヒヨリを睨みつけた。
「本当に厄介な奴だ……お前も、ハルカも。一体どこまで強くなるつもりだ……!」
ヒヨリはタマモへ問いかける。
「……師匠。俺と師匠の全部を使ってもいい?」
【構わへん。おぬしやったら扱えるはずや。せやけど、まだ完全に制御できとるわけやあらへん。気ぃ付けや】
「ありがとう。でも……フクロに勝つには、出し切るしかない」
ヒヨリは目を閉じる。そしてゆっくりと空を見上げ、息を吐いた。
「――万獣神装」
眩い黄金の光が全身を包み込む。
衣服は修験者を思わせる法衣へと姿を変え、胸元には黒い浮想紋が狐の紋様を描く。鎖骨には勾玉の数珠が浮かび、両腕には籠手、脛には精緻な紋様を刻んだ具足が現れる。穏やかだった蒼い瞳は獣のように鋭く変わり、さらに後頭部には円形の大いなる鏡が静かに浮かび上がり、少年へ神秘的な威容を与えていた。
フクロは思わず息を呑む。
――まるで、自分へ応えるように。
この男は、戦うたびに強くなっていく。
「……分からない」
ヒヨリは拳を握り締めた。
「お前の言ってることは、正直、俺には分からない。でも――だから何なんだ!」
その叫びに、フクロはわずかに目を見開く。
「そんなことが、お前がお前自身を傷つけ続けていい理由にはならないだろ!いつかきっと、お前を受け入れてくれる人がいて、お前を理解してくれる人だって現れると信じろ!そうじゃなきゃ、お前はこの先もずっと苦しみ続けるだけじゃないか!」
「どうして……どうしてお前は……!どうして、お前たちは二人とも……!」
フクロの声は震えていた。
「お前はこれから先、もっとたくさん、お前の隣に立ってくれる奴と出会える!なのに、どうして……!」
「だから言っただろ!」
ヒヨリは一歩踏み出し、真正面から叫び返す。
「ハルカとお前は俺が生まれて初めて出会えた、一緒にいてくれるって思えた人なんだから!」
その言葉を聞いたフクロは、しばらく黙ってヒヨリを見つめていた。乱れていた瞳から狂気が少しずつ消え、静かな色が戻っていく。
やがてフクロは右手の天譴を識転解除すると、鮮血が弧を描き、ヒヨリは咄嗟に後方へ跳ぶ。再び二人の間合いが開いた。
「……なら、この一撃を受けてみろ、ヒヨリ」
黒雷が集束し、フクロの背後で巨大な黒蛇の姿を形作る。その双眸は獲物を狙うようにヒヨリを見据えていた。
少年は、刀を構える。
「これすら受け止められないなら、お前はこの宇宙の果てまで辿り着けない」
ヒヨリもまた両腕を胸の前で交差させ、掌を前へ向けた。
「……来い。お前の苦しみも、悲しみも、罪も……全部、受け止めてやる。それが――俺の覚悟だ」
黄金の光がヒヨリの背後へ集まり、やがて巨大な狐の姿となって現れる。その鋭い眼差しは、黒雷の大蛇だけを見据えていた。
「――審判!」
「――殺生明鏡!」
互いに一切の迷いなく放たれた全力が真正面から激突する。
光と雷。
互いのすべてを賭けた、初めての本気の一撃。
二つの圧倒的な力は激しく衝突し、絡み合い、やがて純白の破壊の奔流となって天を呑み込んだ。天を覆う雲は一瞬で吹き飛び、壮麗だった天宮の宮殿も石柱も、爆ぜる白光の中で跡形もなく消し飛んでいった。
複雑な紋様が刻まれた如意棒と三尖両刃刀が激しくぶつかり合い、耳をつんざくような金属音が響き渡る。孫ゴクウの攻撃が止まった一瞬の隙を逃さず、楊ゼンは三尖両刃刀を地面へ真っ直ぐ突き立てた。
「――山河社稷図、開け」
刀を中心に無数の草花が一斉に芽吹き、舞い上がる木の葉が孫ゴクウの視界を覆い尽くす。天宮の廃墟は跡形もなく消え去り、青空の下に広がる壮麗な山河へと景色が塗り替えられていた。清流がさらさらと流れ、色とりどりの花が咲き誇り、眩しい陽光が大地を照らしている。
「……切り札の結界術式まで使ってきたか」
孫ゴクウは辺りを見回しながら鼻で笑う。
「いいじゃねぇか。それでこそだ。そこまでしなきゃ、お前に勝ち目なんてねぇ」
山河社稷図は、楊ゼンだけが扱える結界術式。その領域へ、二人だけが閉じ込められていた。
「これで陛下の邪魔はさせない」
楊ゼンは三尖両刃刀を引き抜いた。
「さっきは他にやることがあっただけだ。本気で決着をつける前に逃げるような真似はしねぇ。俺を誰だと思ってる」
そう言うと孫ゴクウは如意棒を肩へ担いた。
「その前に、一つだけ言っておく。ナタは、本気でお前を親友だと思ってた。背中も、未来も、預けられる相手だってな……俺も同じだったよ」
一瞬だけ、楊ゼンの表情が揺れる。だがその迷いはすぐに消え去り、いつもの冷たい顕聖真君の顔へ戻った。
「陛下を甘く見るな。この世界にいる限り、誰も陛下には勝てない。それに、陛下がこの世界のためにしていることが間違っているとも思わない」
「……そういや、お前には昔の話をしたことがなかったな」
突然話題を変えられ、楊ゼンはわずかに眉を動かす。
「俺は昔、人類が大嫌いだった。骨の髄まで憎んでた。死ぬ寸前も人類を呪うことを忘れられねぇくらいにな。でも、師匠が俺を外へ連れ出してくれた。師匠と過ごすうちに、自分のサハと向き合えるようになって、ようやくもう一度、人類をちゃんと見ようと思えた」
金色の獣の瞳が、真っ直ぐ楊ゼンへ。
「だから正直に答えろ、楊ゼン」
怒りを必死に押し殺しながら、孫ゴクウは低く問い詰めた。
「ナタが死んでも何とも思わなかったって言うなら……今ここでお前を殺す。そして俺は、師匠以外の人類を二度と信じねぇ」
斉天大聖から溢れ出す膨大なハタが草原を揺らし、咲き誇る花々を押し伏せる。それは戦う以前に放たれる圧倒的な威圧だった。
楊ゼンは静かに俯き、しばらく沈黙したあと、口を開く。
「……ナタがあんな最期を迎えるとは思っていなかった。私が知った時には、もう、何もかも終わっていた」
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には、隠しきれない悲しみが宿っていた。
「だからこそ、もう二度と、大切な人を陛下へ逆らわせたくない」
その言葉に、孫ゴクウの殺気がわずかに和らぐ。
「あなたはまだ知らない、ゴクウ。陛下の第二異能力は、今まで獣には使われてこなかった。だが本当に追い詰められれば、その時は軒轅国の獣たちでさえサハを奪われるかもしれない」
「……だから俺を閉じ込めたのか。俺が抵抗しなけりゃ、サハは奪われずに済むってわけか」
「それしか方法がなかった。私は……もう東華様のようなことも、ナタのような結末も見たくない!」
感情を抑えきれず、楊ゼンの声はわずかに震える。
「もうやめて、ゴクウ。陛下はただ、この世界を守りたいだけなんだ」
風が川面を渡り、蓮の葉が静かに触れ合う。
「つまり、自分から惨めに生き延びろってことか」
「それが命を守る一番の方法だ!生き残りさえすれば、ドミネーターさえ倒せれば、すべて元に戻る!必要なのは、ほんの少し耐えることだけなんだ……!」
「そのほんの少しの間に、ナタはもう二度と帰って来ねぇぞ」
孫ゴクウは如意棒を大きく振り回し、重々しい音を立てて地面へ突き立てた。
「それに、あいつがサハへ手を出した時点で、俺はもう黙って見てるわけにはいかねぇ。円環の番人なんて肩書きは好きじゃねぇが、師匠の教えだけは曲げる気はない。今さら引けなんて言われても、もう遅すぎる」
「……そう」
楊ゼンは静かに目を閉じる。
「何があっても、あなたは、抗うよね」
「おとなしく生き長らえるくらいなら、暴れたいだけ暴れて死んだ方がずっとマシだ!この世界だろうが、この宇宙だろうが――俺を縛れるものなんて何一つねぇ!これが俺、孫ゴクウだからなぁ!」
その言葉を聞いた瞬間、楊ゼンの氷のような瞳から光が消えた。晴れ渡っていた結界の空も、主の心を映すようにゆっくりと曇り始める。
彼女は静かに三尖両刃刀を構え直した。凍てつく冷気が刀身を這い、白い霜が音もなく広がっていく。
「……私は、何があっても、あなたが、あなたでいてほしい」
そう呟いた声は、どこか底見えない程の執着があった。
「だから――私はもう、あなたを殺すしかないんだね。まだあなたが、あなたのままで死ねるように」




