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プロジェクト【サハ】  作者: 諸星佑月
【第三章】天を閉ざすは誰が為
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衆生無辺誓願度

 鈍い音を響かせながら、青龍の身体が地面へと叩きつけられた。

 長くしなやかだった龍体は、いつの間にか全身が無数の傷に覆われ、青い鱗の隙間から鮮血が滲んでいる。周囲の蟠桃樹も戦いに巻き込まれ、幹はへし折れ、枝葉は無残に散乱していた。

 ほんの少し前まで、敖コウは決して押されてはいなかった。互角――いや、むしろ昊天を力任せに押し込んでいたはずだ。

 それなのに今は、息を荒げることすら苦しそうで、身体を起こすことさえままならない。

「……くっ……!」

 それでも敖コウは諦めなかった。震える前脚を地面へ突き立て、歯を食いしばりながら再び立ち上がろうとする。

 幾筋もの黄金の光条が空を裂き、一斉に青龍へ降り注ぐ。

「――ッ!」

 光束は容赦なく龍体へ突き刺さり、次々と爆発を巻き起こした。閃光が連続して炸裂し、ようやく持ち上げかけていた巨体は再び大地へ叩き伏せられる。

 昊天の金色の神体には、いつの間にか幾門もの砲口が展開されていた。すべての砲身がゆっくりと煙を吐き、敵が完全に動きを止めたことを確認すると、一つ、また一つと静かに閉じられていく。

【……手間をかけさせてくれた。この蟠桃園の果樹は、どれも貴重なものばかりだ。本来なら、こんな大立ち回りで傷つけたくはなかったのだが……仕方あるまい】

 敖コウは苦しげに息を吐きながら、それでも昊天を鋭く睨み続けていた。全身は痛みに震え、意識さえ霞み始めている。それでも、その瞳だけは決して屈してはいなかった。

【我がどれほどのものを捨ててきたと思う。人としての肉体を捨て、モニターとしての責務さえ捨てた。この世界を守るために払ってきた代償も、覚悟も、貴様たちとは比べものにならない】

 金色の神体がゆっくりと宙へ浮かび上がる。その巨影が、青龍の身体を覆い尽くした。

【……勝負あり。ジョウガよ、もう十分だ】

 青銅の鼎の傍らに立っていた翡翠色の髪の少女は、静かに頷いた。そっと瞳を閉じると、蟠桃園一帯を覆っていた夜のような領域が、音もなく溶けるように消えていく。

 暗闇は跡形もなく晴れ渡り、頭上には再び青空が広がった。白い雲が流れ、柔らかな陽光が蟠桃園を照らす。

 これで昊天も敖コウも、再び自由に根印(ねしるし)の力を行使できる――もっとも、今の敖コウには、その力を振るうだけの余力など、もはや一欠片も残されてはいなかった。

「……だとしても……」

 荒い息を吐きながら、敖コウはゆっくりと口を開く。

「自分が覚悟を決めたからといって……何をしても許されるわけじゃない……そんな理由で、あれほど多くのサハを奪い……東華様の想いも……ナタの命さえも踏みにじっていいはずがない……!」

【何度も言わせるな。貴様たちの誰として、我以上の可能性でドミネーターを討ち、この世界を守れる策を示せた者はいない】

 その声には、怒りも迷いもなかった。ただ事実を告げるだけの冷徹さだけがあった。

【それだけで我は、貴様たちすべてを否定できる】

 神体の中央部が静かに開き、巨大な砲口が姿を現す。その奥では黄金色の光が渦を巻きながら収束し、眩い輝きを放ち始めていた。

 ゆっくりと照準が定まり、その砲口は倒れ伏す青龍の頭部へ真っ直ぐ向けられる。

【ここまでだ、敖コウ。貴様の犯した罪は、大逆にも等しい。そこまでナタとの情を重んじるというのなら――慈悲として、貴様もあいつのもとへ送ってやろう】


 孫ゴクウは残刻器(ざんこっき)を力強く振るい、突き込まれてきた三尖両刃刀の軌道を巧みに逸らした。そのまま野生の勘とも言うべき鋭い反射で、続けざまに繰り出された楊ゼンの鋭い蹴りも紙一重でかわす。

 着地と同時に黒銀の如意棒を大きく薙ぎ払い、少女の脇腹を狙う。しかし、その一撃も楊ゼンは冷静そのものの表情で三尖両刃刀を横に構え、重い金属音とともに受け止めた。

「――崇目(カイテン)

 静かな声とともに、刃先から凍てつくハタが溢れ出す。

 一振り。それだけで大地は一瞬にして凍りつき、無数の巨大な氷柱が音を立てながら地面を突き破った。

 孫ゴクウは後方へ飛び退き、次々と迫る氷柱をかわしていく。最後の一本だけがわずかに踵をかすめ、その瞬間、白い霜が爆発するように広がった。

「ちっ……!」

 氷は生き物のように脚へ絡みつき、瞬く間に腰まで凍結させる。逃れる暇すら与えず、孫ゴクウの半身は完全に氷牢へ閉じ込められてしまった。

 勝敗は、誰の目にも明らかだった。極寒に包まれた凌霄宝殿では、楊ゼンの吐く息さえ白く染まる。少女は何一つ表情を変えないまま、彼に歩み寄っていく。

「どうしてそこまで頑固なんだ……それとも、私に痛めつけられたいか?」

「ハッ……!」

 孫ゴクウは氷に囚われたまま笑い、力任せで拘束を壊す。

「ずいぶん自惚れてくれるじゃねぇか。最後の最後まで、俺は絶対に負けを認めねぇよ!」

 その言葉を聞いた楊ゼンは、不思議なことに怒るどころか、張り詰めていた表情をほんの少しだけ和らげた。

「……孫ゴクウ。ナタの件は……本当に、すまなかった」

 その声には、初めて感情らしい揺らぎが滲んでいた。

「まさか彼が、陛下が最も嫌っているトランスグレッサーに肩入れするなんて思ってもいなかった……そして陛下が、あそこまで非情な決断を下すとも。完全に私のせいだった。そのことは否定しない。この件で、あなたがどれだけ私を恨もうと……受け入れるよ」

 孫ゴクウは思わず目を見開いた。まさか楊ゼンが、この場でそんな言葉を口にするとは思ってもいなかったのだ。氷を砕きながらゆっくりと立ち上がり、険しい眼差しを向ける。

「……だが、あなたが陛下に力を貸し、そのやり方を支えてくれるなら――もう二度と、あんな悲劇は起こらない。私は保証できる」

 凌霄宝殿は静寂に包まれた。しばらくの沈黙の末、孫ゴクウが低く問いかける。

「……お前、本気であのジジイのやり方が正しいと思ってんのかよ。まあな。ブリットンスの連中を完全に信用できねぇってのも分かる。だったら、自分たちでドミネーターを倒す力を用意しようって考えも、理屈としては間違っちゃいねぇが」

 その言葉に、楊ゼンはわずかに希望を見出したように一歩踏み出す。

「……あなたはシャカの円環の番人だ。だからこそ、陛下が大量のサハを利用していることを見過ごせないのも理解している。でも、陛下がドミネーターを倒しさえすれば、全てのサハは必ずこの世界の人々へ返される!陛下は誰よりも、この世界を、この世界の命を守ろうとしている。そのことだけは……あなたも私以上によく知っているはず!」

 蒼い髪を揺らしながら、楊ゼンはさらに距離を縮める。

「それに、この非常事態では、あなたも本来の力を発揮できていない。その結果が今のあなただ」

 あと一歩。二人の距離は、もう手を伸ばせば届くほど近かった。

 楊ゼンは、自分より高い男の顔をゆっくりと見上げ。その瞳には、戦場で誰にも見せたことのない弱さが宿っていた。まるで可憐な少女が願いを託すような、切なく儚い表情で、そっと囁く。

「……ゴクウ、お願い。ドミネーターの討伐は、陛下に任せて。私は……あなたに、そうしてほしいの」

 琥珀色の獣の瞳が、目の前の少女をじっと見つめる。孫ゴクウは静かに如意棒を握り直し、それまで傍らに立てていた棒をゆっくりと横へ倒した。

 楊ゼンは思わず安堵の息を漏らす――ようやく、分かってくれたと、思ってしまった。

「――ッ!」

 孫ゴクウは全身の筋肉を一気に躍動させる。如意棒を背中の後ろまで大きく引き絞り――次の瞬間、全力で天高く投げ放った。

 ドンッ!!

 黒銀の鉄棒は砲弾にも劣らぬ速度で空を裂き、凄まじい衝撃波を残して飛び去っていく。突風が吹き荒れ、楊ゼンの蒼い髪が大きく舞った。

 少女は驚愕に目を見開き、その軌跡を振り返る。

 飛んでいった先は――蟠桃園。

「理屈だけなら、お前たちのやり方は確かに正しい。そこは認めてやる」

 その笑みは獣そのものだった。

「だがなぁ――上から目線なんだよ。力を持ったから、権利を持ったから、何を決めても許されると思ってやがる。たとえ誰かのためを思ってやってることだとしても……俺ぁ、そういう連中が気に食わねぇ!」

 口元を大きく吊り上げ、豪快に笑う。

「今日、誰が誰の言うことを聞くのか――まだ決まっちゃいねぇぞ!」

 ――ボンッ。

 白煙が弾ける。その煙が晴れた時、そこに孫ゴクウの姿はもうなかった。

 静まり返った凌霄宝殿に残されたのは、ただ一人立ち尽くす楊ゼンだけ。

 最初から――この凌霄宝殿で楊ゼンと戦っていた孫ゴクウは、本体ではなく、ただの分身に過ぎなかったのだから。


 昊天が敖コウへ向けて光束を放とうとした、その時。

 天より飛来した如意棒が、狙い澄ましたように黄金の巨躯へ激突する。凄まじい衝撃に金身は大きく体勢を崩し、そのまま横倒しになった。放たれた光束も軌道を逸れ、敖コウをかすめることなく彼方へと突き抜け、その途中に立ち並ぶ蟠桃の木々を次々となぎ倒していく。

【何……!?】

 空中で高速回転する如意棒は、そのまま一人の男の手へと収まった。

 燃えるような赤髪に黒い戦装束をまとったその影は、勢いそのままに昊天の金身を踏みつけると、両手で握った如意棒を力任せに突き立てる。

 瞬間、真紅の巨大な術式陣が展開し、まるで生き物のように金身全体へ這い広がっていった。

「驚いたか、クソジジイ!天宮中がお前自身のハタで満ちてるせいで、俺がすぐ近くに潜んでることにすら気づかなかったみてぇだな!」

【貴様……孫ゴクウ……!】

 孫ゴクウは口元を吊り上げたまま、低く、それでいて力強く告げる。

「元モニター、北極星(ポラリス)――昊天金闕無上至尊自然妙有弥羅至真玉皇上帝。その身に取り込んだ無数のサハは、どんな大義名分を掲げようと、紛れもなく略奪という暴虐だ!――数え切れないほど多くの生きとし生けるものを、残らず苦しみから救い出し、悟りの世へ導くと誓う円環の理の番人として、ここに貴様へ異議を唱える!」

 ゴォォン!

 どこまでも重く、遥か彼方から響いてくるような鐘の音が天地を震わせた。同時に真紅の光が爆発するように広がり、滑らかだった黄金の神体は一瞬にして醜く歪み始める。

「――衆生無辺誓願度!!」

【ぐっ……!き、貴様ァァァァァァァァァァッ!!】

 金身は激しく脈打つように膨張と収縮を繰り返し、内側から何かが暴れ回るかのように歪み続ける。やがて耐えきれなくなった神体は無数の亀裂を走らせ、眩い閃光を撒き散らしながら大きく弾き飛ばされた。その反動で孫ゴクウ自身も吹き飛ばされる。

 土煙が蟠桃園一帯を覆い尽くし、ジョウガは思わず袖を顔の前へ掲げて身を守った。

 ようやく煙が晴れると、彼女は周囲を見渡す。目に映るのは荒れ果てた蟠桃園だけ。昊天も、孫ゴクウも、その姿はどこにもなかった。

「……どういうことですか」

 ジョウガは傷だらけの青龍へ視線を向ける。

「もし孫ゴクウが最初から蟠桃園にいたなら、顕聖真君がとっくに駆けつけているはずですが」

 敖コウは苦笑を漏らしながら息を吐いた。

「はは……やはり大聖は戦いの駆け引きにかけては天才だ。真君の相手をしていたのは……終始、あの方の分身だった」

 その言葉で、ジョウガはすべてを悟った。小さく舌打ちすると、彼女はゆっくりと青龍へ歩み寄る。

「抵抗できない相手に手を上げるのは本意ではありません」

 淡い翠色のハタが掌へ静かに集まっていく。

「ですが申し訳ありません。あなたたちが他に何を企んでいるのか、話していただきます」

 敖コウはその光を静かに見つめると、やがて目を閉じた。

 何をされようと、口を開くつもりはない。その覚悟だけが伝わってくる。

「――やめろ!!」

 怒号とともに、黄金色の炎をまとった拳が一直線にジョウガへ襲いかかった。

 ジョウガが目を見開いたその瞬間、大きな白兎が跳び出し、彼女の衣を咥えて横へと引き寄せる。炎が纏う拳は先ほどまで彼女が立っていた場所へ叩き込まれ、土を大きく抉った。

 金髪の少年が静かに身構え、傷ついた青龍の前へ立ちはだかる。その視線はジョウガを鋭く射抜いていた。

 こんなことになるとは、敖コウは全く予想できなかった。

「君は……トランスグレッサー……」

 ヒヨリは彼を一瞥すると、すぐにジョウガへ視線を戻した。

「お前が敖コウだろう?こんなになるまでやられるなんて……おい、いくら何でもやりすぎだろ!」

 ――誤解された。

 ジョウガは一瞬だけ面食らったように瞬きをする。だが、それを訂正する気にもならなかった。彼女は軽やかに大きな白兎の背へ飛び乗り、高みからヒヨリを見下ろす。

「数え切れないほどの天兵を突破してここまで来るとは。なるほど、ただ者ではないようですね。しかし昊天から中枢を任された以上、私は私の責務を果たさなければなりません」

 そのときヒヨリの視線は、彼女の背後へ向いていた。巨大な古木と一体化した青銅の大鼎、その内部では今なお淡い光を放ちながら、球状の機構がゆっくりと回転を続けている。

「あれが……統括中枢だよね、師匠」

【うむ。あれを壊したら、天兵はみな動かへんようになる】

 その直後、ジョウガが静かに指を鳴らした。

 ――パチン。

 刹那、蟠桃園全体が再び深い夜の帳に包まれる。先ほど敖コウから根印(ねしるし)を完全に封じた、あの不可思議で厄介極まりない領域が再び展開されたのだ。

 ヒヨリにとっては初めて目にする能力だった。昼だった景色は一瞬で夜へ塗り替えられ、思わず彼は辺りを見回す。そして最後に、大きな白兎へ腰掛ける翡翠色の髪の少女を、驚きの眼差しで見つめた。

 ジョウガは相変わらず感情の読めない碧い瞳でヒヨリを見下ろし、淡々と言い放つ。

「今のうちに降伏してください、トランスグレッサー。それがあなたにとっても、私にとっても、一番手間がかかりませんわ」


 一方その頃、凌霄宝殿。

 そこには楊ゼンただ一人が静かに立っていた。蟠桃園から響いてきた音を耳にし、向こうで何が起きたのか、おおよその見当はついていた。

 彼女は俯いたまま、一歩も動かない。やがて、ぽつりと呟く。

「……最初から分身で、私を足止めしていたということか。そう……」

 今の彼女がどんな表情をしているのか、それを見た者はいない。

 だが、その場を満たす空気だけで十分だった。

 普段の彼女が冷たいのだとすれば、今の彼女は――ただただ恐ろしい。凍てつくような殺気が、静かな大殿いっぱいに広がっていく。

 楊ゼンは俯いた姿勢のまま、ぎこちなく首だけを横へ向ける。

 その視線は、蟠桃園のある方角へ。

「……私風情が、あなたに向き合ってもらう資格すらない」

 低く、押し殺した声が漏れる。

「――そういうことなのか、孫ゴクウ……!!」

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