上がる狼煙
「総員、最前線に警戒!」
「敵が来るぞ!」
雲海の下から、空を覆い尽くさんばかりの巨大な翼を持つ一羽の大鳥が勢いよく飛び出した。
その体は数え切れないほどの天兵たちをものともせず、圧倒的な速度で突き抜ける。羽ばたき一つで天兵たちは吹き飛ばされ、大鳥は減速することなくさらに天高く舞い上がっていった。
「うわぁっ、多すぎるって!」
眼下に広がる天兵の大群を見下ろし、ハルカは思わず声を上げた。
「昊天のカラクリ兵士どもに構っている暇はない」
本来の姿へ戻った大鳥――エンが、力強く羽ばたきながら二人へ言い聞かせる。
「よく聞け、オマエたち。東華の話によると、敖コウというやつもこの機を狙って動いているはずだ。となれば、天宮の中にも我々の味方となり得る者がいる。オマエたちが話していた、もう一人のトランスグレッサーも、そこにいる可能性が高い」
ハルカもヒヨリも、その言葉には何も返さなかった。それぞれが胸の内で何かを思い巡らせているようだった。
「まず狙うべきは蟠桃園にある天兵制御中枢だ。昊天ほどの男なら、我々が真っ先に中枢を狙うことくらい当然読んでいるだろう」
エンの声がわずかに低くなる。
「問題は、あそこを守っているのが昊天本人なのか、それともあの厄介な顕聖真君なのか……だ」
「分からないことを考えても仕方ないよ!」
ハルカは拳を握り締め、ぱっと笑った。
「とりあえず、二手に分かれよう!ヒヨリ、私は絶対に昊天をぶっ飛ばしたいんだ。中枢は任せてもいい?」
「うん、もちろん――」
勢いよく頷いたその瞬間、ヒヨリの表情が変わる。
「わっ、エン!危ない!」
前方から突如として現れたのは、通常の天兵とは比べものにならない巨体だった。二メートル――いや、三メートル近い銀鎧の天兵が何体も飛び出し、一斉にエンの巨大な翼を掴む。
強引に飛行を止められたエンは鋭い鳴き声を響かせた。次に、その全身が灼熱の炎へと変わり、燃え盛る火柱の中から人の姿へ戻る。
三人は雲海の上へと降り立った。
人の姿へ戻ったエンは素早く周囲を見渡す。目の前には巨大天兵。さらに後方からは、先ほど振り切ったはずの通常サイズの天兵たちが次々と追いつき、完全な包囲網を築いていた。
「すごい……」
ハルカは思わず辺りを見回しながら目を輝かせる。
「どうしてみんな同じ顔なの!?それに足元、雲なのに普通に立ててるんだけど!?」
「感心してる場合か、小娘!」
エンが呆れたように叫んだ、その直後、巨大天兵の拳が轟音とともに振り下ろされる。エンは軽やかに跳躍し、その身体を炎へと変えながら空中へ舞い上がる。燃え盛る脚で勢いよく蹴りを放つと、巨大天兵の首が大きく捻じ曲がった。
「オマエたちはここで足止めを食うな!前へ進め!ここはオレが引き受ける!」
ヒヨリは迫る数体の天兵をかわしながら、一気に炎を放って周囲を薙ぎ払う。そのまま素早く印を結んだ。
「キュウキ!」
白煙が弾ける。ヒヨリの背後に現れたキュウキは、大きな翼を広げながら満面の笑みを浮かべた。
「来た来た~!ははっ、これが昊天の作ったおもちゃどもか!」
「頼む、キュウキ!エンと一緒に天兵を引き受けて!」
「はぁ!?」
隣で聞いていたエンが即座に顔をしかめる。
「待てヒヨリ!オレがこんな雑魚ども相手に苦戦するとでも思っているのか!」
「ナタのようことがあったから……もう誰にも傷ついてほしくないんだ!エンもお願いだ。ちゃんと無事な姿で、また会いたい!」
その真っ直ぐで曇りのない眼差しに、エンは一瞬言葉を失う。何か言い返そうとして口を開くが、結局は小さく息を吐くだけだった。
「……ったく。好きにしろ」
「えへへ。それじゃあ今度は私たちの番だね、アルテミス!」
【うん、いくよ!擬録!】
白き機甲が黄金の六枚翼とともにハルカの全身を包み込む。装甲が瞬く間に展開されると、少女はそのまま低空へ浮かび上がった。勢いよくヒヨリを抱き寄せ、そのまま前方へ一直線に加速する。
巨大天兵が腕を伸ばして二人を掴もうとした、その時鋭利な刃のような旋風が横一文字に走った。腕首はあっさりと切断され、鈍い音を立てながら雲海の底へ沈んでいく。
「おっと」
キュウキは空中で両腕を広げ、眼下の天兵たちを見下ろしながら口角を吊り上げた。
「主人に頼まれたんだ。余計な真似はさせないよ。さあ見せてもらおうか。伝説のモニター――ポラリス製のおもちゃが、どれほどの出来なのかをね」
「まさかオマエなんかの凶獣と肩を並べて戦う日が来るとはな……」
エンは苦々しく呟いた。
「これからは同じ主人に仕える式神同士なんだからさ、鳥の王様。改めて――よろしく頼むよ?」
蟠桃園――それは、紫微天宮でもっとも名高い果樹園である。
化煉使いである東華仙姫は、あらゆる薬草や仙果に熟知している。その師である昊天が、これほどまでに希少な果樹ばかりを集めた庭園を築いたとしても、不思議ではなかった。
一面に広がる青々とした桃の木には、何時でも実っているかのように、ほんのり紅を帯びた桃が鈴なりになっている。その一つ一つに、この第四空間でも屈指の純粋なハタが宿っていた。根印無き者が食せば長寿と無病息災を得られ、根印持つ者ならば、その力を飛躍的に高めることさえできるだろう。
しかし敖コウには、その美しい景色を眺める余裕など微塵もなかった。
彼は静かに桃林の奥へと歩みを進め、やがて庭園の中心へ辿り着く。そこで目にしたものに、思わず息を呑んだ。
巨大な古木か、古びた青銅の鼎か。いや、そのどちらでもない。
大樹と青銅鼎が一つに融合したかのような異形の存在が、蟠桃園の中央にそびえ立っていた。鼎の内部では淡い光と熱気がゆっくりと渦を巻き、誰一人手を加えていないにもかかわらず、自ら絶え間なく稼働し続けている。
敖コウがさらに一歩踏み出した、その瞬間だった。
「帰蔵」
鈴を転がすような少女の声が響く。
そして、蟠桃園全体が夜の帳に包まれた。つい先ほどまで明るく輝いていた景色は、一瞬にして静かな闇へ沈み込む。木々はまるで硝子細工のような透明感を帯び、枝先の桃には薄く霜が降りていた。暖かな気配は完全に失われ、世界そのものが凍りついたようだった。
大鼎の陰から、翡翠色の長髪を揺らす一人の少女がゆっくりと姿を現す。その後ろには、大きな白兎が静かに付き従っていた。
「……ジョウガ様」
敖コウは低く問いかける。
「こんな状況でも、君はなお昊天の側につくのですか」
ジョウガは目を伏せた。
「正直に言えば、あなたたち表側の争いに私はあまり干渉したくありません。昊天のやり方がどれほど勝算のあるものか、私には分かりませんが――あなたたちの勝率が、それよりもさらに低いことだけは分かっています」
【その通りだ】
低く響く声とともに、闇に覆われた空がまるで幕を裂くように開き、その向こうから黄金の巨躯が姿を覗かせた。
眩い光に、敖コウは思わず目を細め、一歩後退する。
「昊天……!凌霄宝殿ではなく、こちへ来ていたのか……!」
咄嗟に根印を発動しようとしたその時、彼の表情が強張った。
周囲から、ハタが完全に消えていた。
【失策したな、敖コウ。ジョウガというルナーの領域へ踏み込んだ以上、表側の根印持つ者は能力を扱えない。貴様のようなナーガ龍種ゆえ、霊脈から直接ハタを得られるが……残念だったな。その霊脈は、すでに我が掌握している】
敖コウは悔しそうに拳を握り締める。
【貴様だけでは、勝ち目は皆無だ。確かに多少は我を困らせてくれたが、貴様が動いた理由も理解している。ナタへの情ゆえだろう。我はあの処分を下した時から、今日のような日が来ることは覚悟していた。だから貴様を責める気はない。ただ一つ、理解できないのだ――なぜナタは、あのような判断を下した。あいつさえ余計な考えを起こさなければ、何一つ変わらずに済んだはずなのに】
敖コウはふっと苦笑を漏らした。
「……はは。長い付き合いだが、今の君は、かえって何も見えなくなってしまったようだ」
彼は真っ直ぐ昊天を見据える。
「ナタさえ反対しなければ、今日にはならなかった?そんなはずがないだろう。ドミネーターへの対策を巡って、君に異を唱えた者は他にもいたじゃないか。斉天大聖も、あの魔剣使いも、東華様も……反対する者はいくらでもいた。それなのに、君はナタが声を上げるまで、自分に反対する者がいることにすら気づかなかったというのか!」
【……つまり、いずれ我は必ず、この日を迎える運命だったと。我の決断が間違っていたからか、そんなはず……】
「いいえ」
敖コウの身体がゆっくりと青龍の姿へ変貌していく。長大な龍体が空を覆い、鱗は青く輝き始めた。その迫力に、ジョウガも思わず白兎の後ろへ半歩退く。
「――違う!」
その巨体が一気に宙へ躍り上がり、黄金の神体へと絡みつく。鋭い爪が金身を締め上げ、全身の力で地上へと引きずり下ろす。
「君が正しいからだよ……!正しすぎるからだ……!」
その頃、凌霄宝殿には、一人の少女だけが静かに立っていた。
三尖両刃刀を携え、両目を閉じたまま微動だにしない楊ゼン。その額にはまだ乾ききらない血が残り、第三の目の傷も深い。それでも苦痛を表情に浮かべることはなく、氷像のような静けさを保っていた。
やがて、踏み鳴らす足音が近づいてくる。
楊ゼンはゆっくりと瞼を開いた。
――ドンッ。
赤髪の男が、残刻器である両端に金輪を備えた黒銀の鉄棒を足元へ勢いよく突き立てる。
「……おい、楊ゼン」
孫ゴクウは鋭い眼光で少女を睨み据えた。
「昊天のクソジジイはどこへ行った」
「あなたに教える義務はないわ」
楊ゼンは淡々と答える。
「結局、自力で牢を抜け出してきたのだね。孫ゴクウ」
その無表情な顔を見た途端、孫ゴクウの眉間に深い皺が刻まれた。
「俺が今、お前に相当腹を立ててることくらい分かってるだろ」
「ええ、分かっているわ。陛下のやり方に関しても、ナタのことに関しても、あなたは相当怒っているでしょう。あなたは、そういう男だと、私もよく知っている」
楊ゼンは三尖両刃刀を構え、その切っ先をまっすぐ孫ゴクウへ向ける。
「だが――戦いは、怒りの強さで勝敗が決まるものではない」
凛とした声が玉座の間に響いた。
「私は、あなたに陛下の邪魔をさせるわけにはいかない。覚悟を」




