孫ゴクウ
鳥の鋭い鳴き声が竹林に響き渡る。次に、七色の輝きを帯びた翼と長く流れる黄金の尾羽を持つ巨大な紅い霊鳥が、大地を蹴るように空へと舞い上がった。その背にはハルカと、遠ざかっていく竹林を不安げに見つめ続けるヒヨリの姿があった。
「……師匠……まずい、師匠のハタが、まったく感じられない……!」
ヒヨリの声は震えていた。ハルカも鳥の羽毛をしっかり掴み、吹き荒れる風に髪をなびかせながら、険しい表情で唇を噛む。
「そんな……大丈夫、師匠なら大丈夫だ、絶対……!」
まるで自分自身に言い聞かせるように呟き、ヒヨリは両手を組んで額へ押し当てた。
【うわぁ、全然大丈夫やあらへんやん!苦しい苦しい……あの昊天、ほんまにとんでもない男やえ!本気で走馬灯が見えたんやから!】
突然、聞き慣れた声が頭の中へ響く。ハルカとヒヨリは同時に目を丸くした。
「師匠!?師匠、どこにいるの!?」
【ヒヨリ、右手の甲、見てみ】
言われるまま視線を落としたヒヨリは、思わず息を呑んだ。
右手の甲に刻まれた、安倍セイメイから授かった五芒星の神祇契約。その一角にはキュウキ、もう一角にはエンの紋章が刻まれている。そして今、その中央に、まるで太陽のような新たな紋様が静かに輝いていた。
「えっ……!?神祇契約が増えてる!?これって師匠!?でも師匠は真名がないって……それに、契約の詠唱もしてないよ!?」
【詠唱いうんは、お互いに真名があるからこそ成り立つもんや。妾には真名があらへんのやから、そないなもん、最初から必要あらへん……まあ、その代わり、おぬしが気ぃ付かへんうちに、この契約へ妾の血ぃ染み込ませといたけどな】
「え、えっと……ますます分からないんだけど、師匠……?今はいったい、どうなってるの?」
【……ちっ。本当は認めとうなかったけど、この世界で昊天とハタ比べなんて、自殺行為もええとこやった。第三の目しか使われへんかったせいで、ほかの力を使う暇もなく、肉体ごと吹き飛ばされた】
その一言だけで、ヒヨリの顔から血の気が引いた。
【せやけど、こうして妾はまだおぬしと話せてるやろ?肉体はなくなっても、サハ――まあ、魂みたいなもんは残ったんや。せやから逆に、神祇契約を利用させてもろた。ヒヨリ、この契約の仕組み、覚えとるかえ?】
「う、うん……主人と式神を繋いで、空間や距離さえ越えて繋がる契約……だよね?」
【ええ。繋ぐには、両方が存在してへんとあかん。逆に言えば、一度繋がってしもうたら、その繋がりがある限り、どっちも存在し続けなあかんのや】
ヒヨリは目を見開き、すぐに表情を明るくした。
「……そういうことか!師匠は俺と契約したから、こうしてまだここにいられるんだ!でも……名前は?」
【……せやから、あの時おぬしの気持ちを確かめたんや。妾が認めた呼び名やったら、何でもええ。師匠いう呼び方でも契約は成立する。もちろん、誰相手でもできる芸当やあらへん。おぬしの体質も普通やあらへんし、妾の事情もちょっと特殊やからな……まあ、とりあえず今は、幽霊みたいなもんや思うとき】
「なんだか難しい話だね……でもつまり、タマモもアルテミスと似たような状態になったってことだよね!」
ハルカがからりと笑う。
【ちょっと!あなたの中私、今までずっと幽霊扱いだったの!?】
今度はアルテミスが真っ先に食ってかかった。
そのやり取りに、ヒヨリもようやく安堵したように微笑み、右手の契約印をそっと撫でる。
「……よかった。本当に、師匠を信じてよかった。ありがとう」
【……ふん。ここまで大きな代償払わせたんや。絶対に昊天を倒し。でなきゃ妾、幽霊になってもおぬしたちを許さへんえ】
「うん!」
ヒヨリは力強く頷くと、眼下で羽ばたく大鳥へ向かって叫んだ。
「エン!師匠はちゃんとここにいる!このまま全速力で――天宮へ!」
七色の翼を広げた紅き霊鳥は、鋭く高らかな鳴き声を空へ響かせる。黄金の尾羽をたなびかせながら、その巨体はさらに速度を上げ、遥か九天の彼方――紫微天宮を目指して一直線に飛翔した。
真紅の逆立った髪と琥珀色の瞳を持つ男だった。獣のように鋭い眼光を宿しているにもかかわらず、その口元には余裕たっぷりの笑みが浮かび、何を考えているのか掴ませない雰囲気を漂わせている。黒を基調とした動きやすい装束は胸元が大胆にはだけ、腰には赤い布帯と獣皮の腰当てを巻いている。両腕には金と黒の籠手、足元には毛皮付きの長靴と包帯。野性味と異国情緒が入り混じった、不思議な風格を放つ男だった。
フクロも自分の牢から外へと歩み出る。ずっと隣の牢に閉じ込められていた男の素顔は、想像していた姿とそれほど違いはなかった。
青龍――敖コウは二人のもとへ歩み寄ると、手首にはめられたポロニウムの手枷へ手をかざした。青白い冷気が金属を覆い、瞬く間に白い霜が張りつく。
「温度を極限まで下げました。今なら――」
言葉と同時に二人が力を込める。
バキィンッ、と乾いた音を立てて手枷は砕け散った。
「ふぅーっ!やっと楽になったぜ!」
一方でフクロは砕けた手枷を見下ろしたまま、口を開く。
「……お前たちは、一体何者なんだ」
その問いに、敖コウは軽く一礼してから穏やかな口調で答えた。
「申し遅れました。私は敖コウ。かつてはナタのパートナーでした。ナタは……トランスグレッサーである君たちを守るため、命を落としました。あのような決断を下した昊天の配下であり続けることは、私にはもうできません。地上に残った君の仲間たちも、今ごろ天宮へ向かっているはずです。ならば、この好機を逃すわけにはいきません」
フクロは険しい目を向ける。
「……昊天がこの世界でどれほど強いかは、ナタから何度も聞かされた。お前もよく分かっているはずだ。それでも、こんな無謀な真似をするのか」
「無謀?」
横から赤髪の男が鼻で笑う。
「見た目だけは威勢がいいくせに、案外肝っ玉は小さいんだな、トランスグレッサー。俺からすりゃ、あのクソジジイに好き勝手させ続けるほうが、よっぽど馬鹿げた話だぜ」
「何事だ!」
廊下の向こうから駆けつけてきた天兵たちの叫び声が響き、三人の会話は遮られた。次々と兵士たちが武器を構え、一斉に切っ先をこちらへ向ける。
「……敖コウ様!脱獄を手引きしたのはあなたでしたか!」
「これは陛下への反逆行為と見なします!これよりあなた方を敵として排除します!」
「もう来ましたか……」
敖コウは小さく舌打ちした。
「昊天のカラクリ兵士は一体一体の脅威こそ大きくありませんが、厄介なのは数です」
「チッ」
赤髪の男は両手の指を組み、首を左右へ傾ける。ゴキゴキと全身の骨が鳴る音を響かせながら、悠然と兵士たちの前へ歩み出た。
「動くな!」
先頭の兵士が叫ぶ。
「大人しく牢へ戻れ!さもなくば――」
その言葉は最後まで続かなかった。
赤い残像が視界を駆け抜けたかと思うと、次の瞬間には男の顔が鷲掴みにされ、そのまま床へと叩きつけられる。
ドゴォンッ!!
「が……ぁっ!」
誰として反応できない。拳が一閃すれば兵士はその場で意識を失い、蹴りが放たれれば何人もの兵士がまとめて吹き飛ぶ。赤い影は一切の無駄なく駆け回り、突き出された剣を素手で受け止めると、そのまま握り潰して砕き、返す拳で相手の顔面へ叩き込む。
――相当強い。
その体術は、場数だけでは到底説明できない完成度だった。戦い慣れているどころではない。この男はまだ、本気すら出していない。
飛んできた槍と戟を蹴り飛ばし、そのまま空中で奪い取る。くるりと大きく一回転しながら横薙ぎに振るうだけで、兵士たちはまとめて吹き飛び、気づけば床には倒れた機兵が山のように積み重なっていた。
その時、フクロは長い外套の裾から細長い尾が揺れるのを目にする。
――人類じゃない。
「……この男は、一体何者なんだ」
敖コウは苦笑しながら肩をすくめた。
「彼の来歴を話し始めると長くなります。私も昔はずいぶん彼には苦しめられましたよ。今は、名前だけ覚えていただければ十分でしょう」
彼は赤髪の男へ視線を向ける。
「この方は――斉天大聖・孫ゴクウ」
「準備運動にもなりゃしねぇな」
孫ゴクウは兵士の山の頂上へ腰を下ろし、頬杖をつきながら退屈そうに言った。
「数だけは多いが、それ以外は取り柄なし、か」
そう呟くと、彼はニヤリと笑って敖コウへ視線を向ける。
「さっさとあのクソジジイんとこまで乗り込んで、もう一発ぶん殴ってやりたいところなんだが……前はそれで失敗して、こんな長いこと牢屋暮らしになっちまったからな」
肩を竦めながら立ち上がる。
「おい、敖コウ。お前は頭を使うのが得意だろ。何か考えがあるんじゃねぇのか?」
「もちろんです、大聖」
敖コウは頷き、冷静な口調で説明を続けた。
「昊天は世界の霊脈を強引に取り込むと決めた頃から、より多くのハタを神体へ収めるため、天兵を統括する中枢を早い段階で自ら切り離しました。現在、その中枢が置かれているのは蟠桃園です。まずはそこへ向かい、中枢を破壊しなければなりません。さもなければ天兵はいくらでも補充され、延々と足止めされることになります」
「なるほどな」
孫ゴクウは腕を組みながら鼻を鳴らす。
「だからあいつら、一々自分で情報を更新してるみてぇだったのか……分かった。他には?」
「……もう一つ。大聖もよくご存じでしょう。かつて天宮で君のパートナーだった――顕聖真君・楊ゼンです」
その名を聞いた瞬間、孫ゴクウの表情が露骨に曇った。
「真君はまだ若いながらも昊天から絶大な信頼を受け、大聖のパートナーまで任された人物です。その実力は……大聖が誰よりもよくご存じでしょう」
「……ああ、知ってるさ。あいつ……ナタのことを知って、それでもまだ昊天の側につくってのか?」
「……おそらくは」
「チッ……!何考えてやがるんだ、あの馬鹿野郎ッ!!」
怒りを抑えきれず、孫ゴクウは勢いよく立ち上がると、足元に転がる機兵の残骸を思い切り踏みつけた。
敖コウは気持ちを切り替えるように続けた。
「もちろん、他にも想定外の事態は起こり得ます。しかし昊天へ辿り着く前に、この二つだけは必ず片づけなければなりません」
その言葉を聞き終えると、孫ゴクウは軽く跳び降り、フクロの目の前まで歩いてきた。
「で、トランスグレッサー。お前はどうする?」
フクロは少しだけ視線を落としながら答える。
「……助けてもらったが、俺は元々この世界の人じゃない。悪いけど、これ以上ここの事情に首を突っ込む気はない」
「そうか」
孫ゴクウはあっさり肩をすくめた。
「なら好きにしろ」
そう言うと、彼は両手で素早く印を結び始める。
その所作には見覚えがあった。
――安倍セイメイも使っていた技だ。タマモもヒヨリへ教えていた。根印持つ者の間では広く知られた術なのだろう。
次に、孫ゴクウの隣に白い煙がふわりと立ち上る。煙が晴れると、そこにはもう一人の孫ゴクウが立っていた。姿形はもちろん、印を結び終えて腕を下ろし、目を開く動作まで寸分違わぬ。まるで鏡の中の自分が、そのまま現実へ飛び出してきたかのようだった。
「……分身か」
「ええ」
敖コウがフクロに頷く。
「これは大聖の得意技です。異能力ではなく、高度な術式によるものですが……習得できる者は、全宇宙でも多くありません」
その時に、遠くから再び規則正しい足音が響いてくる。
ガシャン、ガシャン、と金属音を鳴らしながら、銀色の甲冑に身を包んだ機兵たちが四方八方から押し寄せ、瞬く間に三人を包囲した。無数の槍や剣の切っ先が、一斉に向けられる。
「反逆者ども!ここで大人しく投降せよ!」
「これ以上、一歩たりとも進ませはしない!」
「まったく……」
フクロは腰を落とし、構えを取る。
「結局、自分の身を守るためにも戦うしかなさそうだな」
「ははっ!」
孫ゴクウは豪快に笑う。
「こいつら、人の話なんざ命令以外まるで聞きやしねぇからな。まあ、せいぜい生き延びろよ、トランスグレッサー!」
「大聖、どう動きます?」
敖コウが問いかける。
本体と分身、二人の孫ゴクウはもはや見分けがつかないまま、同時に獰猛な笑みを浮かべた。
「決まってるだろ」
二人は全く同じ声で言い放つ。
「前は昊天のの宮殿をぶっ壊しても、あいつの考えは何一つ変わらなかった。だったら今回は――あいつを叩き潰すまで、終わらせねぇ。それだけだ!」




