永遠を探して
「……っ!」
氷のような蒼髪を持つ少女――楊ゼンの表情に、ついに疲労の色が浮かび始めた。額に開かれた第三の眼は今にも閉じそうに細まり、その身からも力が抜け、彼女は片膝をついてしまう。
【……まったく、してやられたものだ。いつもは危険を避け、自分のことしか考えぬあの狐が、まさか正面から我に刃向かってくるとは】
しかし楊ゼンが放つハタは、少しも衰えを見せない。対するタマモも一歩たりとも引かず、第三の目同士がぶつかり合う瞳力は長い拮抗を続け、それでもなお勝敗の兆しは見えなかった。
【どうだ、楊ゼン】
「申し訳ありません、陛下。非常に厄介です。このままでは、お互いのハタが尽きるまで消耗戦になるでしょう」
【……仕方あるまい】
巨大な金身から無数の黄金の光が溢れ出し、楊ゼンへと降り注ぐ。
【我のハタも貸そう。必ず仕留めろ】
「……はっ」
タマモの額に鋭い痛みが走る。相手の圧力が一気に増し、凍てつく気配が再び竹林へ流れ込み始める。空を二分していた白い境界線も、じりじりとこちらへ押し返されていった。
「ダッキ!」
背後からエンが叫ぶ。
「顕聖真君だけじゃない!向こうには昊天までいるんだ!あいつは今、この第四空間の霊脈そのものを支配している。この世界にいる限り、ハタの総量じゃ誰も勝てない!」
「そないなことくらい、分かってるえ」
タマモは九本の尾を一斉に広げ、黄金色のハタを全身から燃え立たせる。
「せやからこそ、ここで無駄に消耗してる暇はあらへん。すぐに天宮へ攻め込め。そのためにも、おぬしらのハタはここで浪費したらあかん。全部、妾に回し」
「何を馬鹿なことを……!」
「妾は冷静や」
タマモの声には一切の揺らぎがなかった。
「昊天のハタが尽きることはあらへん。せやったら、賭けるべきは一つや。楊ゼンちゃんの身体が、その莫大なハタに耐え切れず、限界を迎える――その瞬間や」
それは、この妖狐が滅多に見せることのない姿だった。人を惑わす艶やかな笑みと仕草を捨て去り、ただ一匹の獣として敵を狩るためだけに、全神経を研ぎ澄ませている。
「師匠!」
ヒヨリが思わず駆け出した。
「前に言ってたことが本当なら、俺のハタだって相当あるはずだ!だったら俺も――」
「……待て、ヒヨリ」
その腕をエンが強く掴む。
「オマエは駄目だ。いや、オマエだけは絶対に駄目だ」
「え……?」
「昊天のハタは、この世界では絶対的だ。そんな中、突然それに匹敵するハタを持つ存在が現れたら――あいつは何を考える?」
「……っ」
ヒヨリは言葉を失った。その意味を理解してしまったからだ。
「こいつの言う通りや、ヒヨリ」
前線に立つタマモも振り返らずに言う。
「おぬしは切り札や。ここで軽々しゅう姿を晒すわけにはあらへん」
その直後、大地が激しく揺れた。
「――ッ!?」
足元が大きく裂け、周囲の木々は熱と冷気がぶつかり合う余波で軋み、葉はぱちぱちと燃え上がっていく。
ヒヨリが慌ててタマモへ目を向けると、彼女はすでに片膝をつき、荒い息を繰り返していた。
「師匠!」
地上だけではない。遥か天上に浮かぶ紫微天宮までもが激しく揺れていた。
宮殿全体が絶えず震動し、巡回していた天兵たちは足元を取られ、倒れまいと踏ん張る。石畳が軋み、柱からは細かな砂埃がぱらぱらと降り注いでいた。
牢獄の中に閉じ込められていたフクロも、その異変に眉をひそめる。
「何が起きてるんだ」
「……とんでもないハタ同士がぶつかり合ってるな。おそらく昊天が誰かとやり合ってるんだろう」
隣の牢にいる男は、どこか楽しげにそう呟いた。
「まだこんな骨のある奴がいたとはな」
だがフクロは、その言葉を聞いても胸騒ぎしかしなかった。
まさか……あの二人が……また昊天に挑んでいるのか?あれほど完膚なきまでに敗れたというのに、それでもなお立ち向かうのか。
どうしてそこまでして前へ進もうとする。
どうして、そこまで――
フクロは強く下唇を噛み締めた。
――ドォォンッ!!
牢獄の前を、巨大な何かが凄まじい勢いで横切る。門前を守っていた天兵たちはまとめて弾き飛ばされ、壁へ激突した。
何が起きたのか理解できないまま、フクロの視界には、青い鱗に覆われた長大な生き物が外を疾走する姿だけが映る。
「敵襲だ!」
「陛下へ報告しろ!」
「牢獄に侵入者確認!脱獄目的と判断する!」
同じ顔をした機械仕掛けの天兵たちは一斉に武器を抜き、中には凌霄宝殿へ駆け出そうとする者もいた。
しかし、侵入者――巨大な青龍が高く頭をもたげ、大きく口を開く。その喉奥に蒼く輝く巨大な水球が凝縮されると、次の瞬間、一気に吐き出された。
濁流が牢獄を駆け抜ける。押し寄せた激流は天兵たちを一人残らず飲み込み、報告へ向かおうとしていた者までまとめて渦へ引きずり込んだ。さらに渦は一瞬で凍りつき、巨大な氷塊へと変貌する。天兵たちは身動き一つ取れないまま、そのまま氷の中へ封じ込められてしまった。
辺りは一転して静寂に包まれる。
青龍は一切ためらわず、その巨体ごと牢獄の鉄格子へ体当たりした。
――ドン!!ドン!!ドォン!!
三度目の衝突で鉄格子は大きく歪み、ついには門枠ごと吹き飛ばされる。舞い上がる煙の向こうで、龍の姿がゆっくりと人へ変わっていった。
深い藍色の長髪を持ち、頭には一対の龍角を生やした中年の男。厳しい表情を浮かべたまま牢の前へ歩み寄ると、静かに頭を下げた。
「……申し訳ありません。独断で動きました。お二人とも驚かせてしまいましたね。どうか、お早くお出になってください」
そう言って顔を上げ、牢の中へ穏やかな視線を向ける。
「はははっ!」
隣の牢の男が豪快に笑いながら立ち上がった。
「まさかお前だったとはな!いつも真面目なお前が、こんな無茶をやる日が来るとは思わなかったぞ」
そう言って牢の外へ歩み出る。
それを見ていたフクロは、ようやくその男の姿を初めて目にすることになった。
「師匠!」
タマモの額から鮮やかな血が一筋流れ落ちるのを見た瞬間、ヒヨリは思わず駆け出した。
「来たらあかん……ヒヨリ!それと、そこの発情怪鳥!」
タマモは苦しげに息を吐きながらも鋭く叫ぶ。
「こやつらを連れて行き。楊ゼンちゃんは今、妾との勝負に全力を注いどる。おぬしたちに構うてる暇なんぞあらへん」
「何言ってるんだよ!放っておけるわけないだろ!」
「来たらあかん言うてるやろ!」
怒声が竹林に響く。ヒヨリは思わず足を止めた。
こんなタマモを見るのは初めてだった。黄金色の獣の瞳が真っ直ぐ自分を射抜いている。その視線は、胸の奥まで抉り取ってしまいそうなほど鋭く、強かった。
やがてタマモはふらつきながらもゆっくり立ち上がり、額から血を流したまま、それでもいつものように笑みを浮かべる。
「……安心し。妾が今日まで生き延びてきたんは、伊達やあらへん」
そう言って、もう一度エンへ視線を向けた。
「皆を連れて行き。楊ゼンちゃんは妾から目ぇ離されへん」
盾を握り締めたままのハルカが、彼女に問いかける。
「……タマモ。私たちに、あんたを信じろって言うんだね?」
「ははっ」
タマモは小さく笑った。
「妾も長う生きてきたけど、人間にそないなこと聞かれたんは初めてや。……せやけど、そうしておくれ。このままやと、昊天を倒せる可能性は、ほんまに一つもあらへんようになる」
ハルカはしばらくタマモを見つめ、それから力強く頷いた。
「分かった。ヒヨリ、行こう!」
「……!」
そこまで言われてしまえば、もう迷うことはできなかった。
ハルカが真っ先に盾を収め、そのまま竹林の奥へ向かって駆け出す。東華とハクタクもすぐにその後を追い、エンは最後にもう一度だけタマモを見つめると、静かに背を向けた。
ヒヨリだけが、その場から動けずにいた。
「……なら信じるよ、師匠!」
その一言だけを残し、彼もまた振り返ることなく竹林を駆け去っていった。
彼らの気配が遠ざかり、残されたのはタマモ一人。静まり返った竹林へ、再び昊天の声が響き渡る。
【理解できぬ。他の者ならまだいいが、なぜ貴様がそこまで命を懸ける。何が貴様を変えた、ダッキ】
「……妾も不思議でならへんよ」
タマモは鼻で小さく笑い、自嘲するように肩を竦める。
「妾自身が、一番その答えを知りたいくらいや。せやけど、一度前へ出ると決めた以上、退くつもりはあらへん」
ゆっくりと天を見上げ、その黄金の瞳を細めた。
「来い、昊天。今日は、おぬしの大義が人の想いを踏みにじるんか。それとも、おぬし自身が地上の命によって天から引きずり下ろされるんか……決着、つけようやないか」
【――来いッ!!】
轟然と烈風が吹き荒れた。灼熱を孕んだ暴風は竹林を薙ぎ倒し、燃え盛る炎は生き物のように天空へと駆け上がる。
そこへ、天より降り注ぐ絶対零度の氷が激突した。炎と氷は互いを喰らい合い、空そのものを濁った灰色へと染め上げていく。
――限界だった。
第三の目と第三の目。千里を隔てた瞳力の激突は、ついに極限へと達する。
天地を揺るがす爆音が轟き、凄まじい衝撃波が竹林全土を吹き抜けた。暴風に煽られ、どんな生物でさえ宙へ浮かび上がる。世界は眩い白光に包まれ、視界という視界が塗り潰された。
光の中で、タマモの姿がゆっくりと掻き消えていく、まるで、最初からそこには誰も存在しなかったかのように。
「やれやれ、お前さんという獣は……見ている景色は私と同じはずなのに、どうしてそんなにも違う答えへ辿り着くんだい?」
「……呆れたもんや。もし誰もが同じ考えになれるんやったら、世の平和なんぞ、とっくに永遠になっとる」
「はははっ、それもそうだ!つまりお前は、この宇宙に永遠に美しいものなど存在しないと、本気で思っているわけだ」
「ああ。永遠なんは、憎しみと悪意くらいやろう。妾は嫌いうほど見てきた。人間は、何度でも同じ過ちを繰り返す。本当に愚かな生き物や……おぬしも、愚かやった」
「愚か、か。そうかもしれないな。だから今日、私はお前に殺されるのだろう。だが構わない。私よりも、お前がこの宇宙で本当に永遠に在り続けるものを見たほうが、きっと意味のあることなのだから」
楊ゼンの額から鮮血が噴き出し、その身体が力なく崩れ落ちる。
「……っ、はぁ……はぁ……!」
冷え切った空気を荒く吸い込みながら、その場へ膝をついた。額の第三の目は完全に閉ざされている。
限界を超えて酷使されたその力は完全に枯渇し、もはや当分の間、再び開くことはないだろう。




