命が輝けるように
キュウキが再び姿を現したのは、誰一人として足を踏み入れることのない、深い森の一角だった。
鳳凰・エンの縄張りのような鳥のさえずりも花々の香りもここにはない。鬱蒼と枝葉が空を覆い、光はほとんど地面まで届かず、湿った土の匂いだけが辺りに漂っている。獣の気配すら感じられない、静寂だけが支配する不気味な場所だった。
キュウキは翼を畳み、鼻歌交じりに気ままな足取りで森の奥へ進んでいく。
その時、地面のあちこちから、紫黒く粘つく液体のようなものが一斉に噴き上がり、蛇のようにうねりながらキュウキの足首へ絡みつく。
瞬く間に全身を拘束される。しかしキュウキは抵抗するどころか、肩をすくめてため息をついた。
「……またか」
粘液はゆっくりと彼の身体を這い上がり、人の輪郭を形作っていく。
やがて現れたのは、一人の男だった。
肩を露出した薄紫色のインナーに黒い上着を羽織り、艶やかな濃紫色の巻き髪を揺らしている。細身ながら無駄のない筋肉をまとった身体。そして何より奇妙なのは、頭部の両脇から翼が生え、その耳までもが小さな翼の形をしていることだった。
男は姿を現すなり、そのままぎゅっとキュウキへ抱きつく。
「もうっ――!また何も言わずにどこ行ってたのさぁ!オネエさん、心配したんだからねぇ!」
今にも泣き出しそうな声で耳元へ訴える男に、キュウキは露骨に顔をしかめた。
「うるさいなぁ、兄貴。何を心配してるんだよ」
「もちろん、アナタのせいでまた誰かが酷い目に遭うんじゃないかって心配してるんだよ!まさかアナタ自身の心配なんてするわけないでしょ!……あと何度言えば分かるの!?兄貴じゃなくてオネエさんって呼んで!」
そのままキュウキの身体へ顔を近づけ、男は何度も匂いを嗅ぎ始めた。
「……うわ、やめろって」
さすがのキュウキも嫌そうな顔をすると、男を押しのけ、大きく翼を広げて近くの高い枝へ飛び乗った。
「アナタ、ずいぶん知らない匂いが付いちゃってるねぇ。人もいるし、獣もいる。でもその獣のほうは……妙に懐かしい気がするな」
「そうそう。それを話そうと思ってたんだよ」
キュウキは面白そうに口角を上げた。
「ダッキがまた軒轅国へ戻ってきたよ。俺はコントンの兄貴のところのキュウキだって知ってるとは。しかも今じゃ何人ものトランスグレッサーとつるんでいて、昊天にまで喧嘩を売るつもりらしい。いやぁ、本当に面白くなってきた」
どうやら、この男――いや、この獣の名はコントンというらしい。
キュウキは枝の上で頬杖をつきながら、いたずらっぽく笑う。
「だから兄貴の意見を聞こうと思ってね。こんな面白そうな話、俺としてはぜひ混ざりたいんだけど、兄貴はどう思う?」
コントンはすぐには答えなかった。驚いたように目を丸くしていたが、その表情に焦りや動揺はない。
「ダッキか……なるほど。トランスグレッサーっていう連中のことは知らない。でもダッキも、アナタも興味を示すくらいなんだから、きっと普通じゃない奴らなんだろうね。別にいいよ。キュウキ、アナタは好きにすればいい。この軒轅国の獣なんて、みんな昔から好き勝手に生きてるんだから。今さら誰かが口を出すことでもないさ」
キュウキは首を横へ振る。
「いや、聞きたいのはそこじゃない。兄貴はさ、今の昊天のやり方で、本当にドミネーターに勝てると思う?俺は面白ければ何でもいいんだけどさ。でもあいつ、あそこまで強引にこの世界の霊脈と一体化してるだろ。そのうち軒轅国まで手を伸ばしてきてもおかしくない。俺は、自分の遊び場が壊されるのは御免だからね」
コントンは苦笑を浮かべた。
「確かに、あの男は昔とはずいぶん変わってしまった。それでも、一緒に戦った仲間だったからね。できることなら、今でも仲良くやっていきたいとは思ってる」
少しだけ言葉を区切り、穏やかな声で続ける。
「ただし、アナタの言うことにも一理あるね」
コントンはゆっくりと顔を上げ、木々の隙間からわずかに見える空を見つめた。その眼差しは、遥か昔――今では誰一人覚えていないほど遠い時代へ向けられているようだった。
「安心しな。もし昊天が天上の玉座を掌握しただけでは飽き足らず、いつの日かこの軒轅国にまで手を伸ばすというのなら、流石にアタシも困るわ」
コントンはどこか寂しげに微笑んだ。
「……だって、この大結界はもう――あの人が世に唯一遺した、アタシを愛してくれた証拠だからね」
エンの領域には、主であるエンのほか、ハルカ、ヒヨリ、タマモ、そして向かい側には東華とハクタクの姿があった。
森の中は静まり返り、枝先に止まった鳥たちだけが時折小さくさえずる。互いに持っている情報はすでにすべて共有し終えたらしく、その場には重苦しい沈黙が流れていた。
やがて東華が先に口を開く。
「……そうだったか。ナタは……そのようにして、あなたたちと出会われたのね。何があったとしても、それはあの方自身が選んだ道だ。ナタは、決して自分の選択を後悔するような方ではない。だから……どうか、自分を責めすぎないで、そして、あの方が成し遂げたことを、忘れないでいてほしい」
ハルカとヒヨリは顔を見合わせる。二人とも何も言わず、ただ、頷くだけだった。
東華は一度深く息を吸い、皆の顔を順番に見渡す。
「……では、改めて確認させて。皆さんは、本当に昊天を倒す覚悟を決めたでしょうか」
その問いに、最初に答えたのはエンだった。
「化煉使いよ。オマエの懸念は理解している。ここにいる誰よりも、オマエがあの男の強さを知っているだろう。だが、それでもなお、オマエ自身が彼と袂を分かったように、オレもあのやり方だけは認められない」
その声は、確かな意志を宿していた。
「命を、一切の穢れも存在しない揺り籠へ閉じ込めるなど……オレはどうしても受け入れられない。生命は、そのような扱いを受けるために生まれたのではない。世界もまた、たった一人のためだけに創造されているのではない」
「まあ」
タマモがくすくすと笑う。
「それをおぬしが言うと、えらい説得力あるやないの。前職の癖なんかえ?」
「黙れ」
エンは即座に切り返した。
東華は苦笑しながらも、その言葉を否定することはできなかった。そして今度は隣に立つ少女へ視線を向ける。
「……ハクタク。あなたはどう思う?」
ハクタクは山羊のような耳をぴくりと震わせ、小さく息を吐いた。
「僕は……ずっと後悔していました」
「後悔?」
「あの時、東華様のために僕が前へ出られなかったことを。もし僕に勇気があったなら……東華様も、魔剣使いとあんなことにはならなかったかもしれません」
真っ直ぐ東華を見つめ、その瞳に迷いはない。
「だから今回は、たとえ東華様が反対しても僕は行きます。もう二度と、あなたが苦しむ姿を見たくありません」
東華は困ったようにため息を漏らし、今度は向かい側にいる、ツインテールの娘へ目を向けた。
「……ハルカ。一つだけ、私の質問に答えてほしい。あなたは強い心を持っている。戦う才能にも恵まれている。けれど同時に、多くの強者たちと比べれば、明らかな弱点も抱えている。それでも家を離れ、自分を守ってくれる人たちの元を離れてまで、なぜ旅を続けるの?冒険というものは……本当に光のある終着点へ辿り着くまで、果てのない苦難の連続でしかないでしょう?」
その場にいた全員の視線が、一斉にハルカへ集まる。
ヒヨリもまた、真剣な眼差しで彼女を見つめていた。
ハルカは少しだけ考えるように空を見上げ、それから柔らかく笑った。
「東華はどうして、冒険って終わりだけが輝いてるって思うの?」
「……」
「そもそも、冒険の終わりって何なんでしょうね?誰が決めたのでしょう」
その問いに、誰も答えられない。
ハルカは胸元に下げた、ひび割れの入ったペンダントをそっと握った。
「昔、宇宙のことなんて何も知らなかった頃はね、世界ってすごく簡単なものだと思ってた。私の世界は、家と、故郷の町と、その隣の山、それだけ。世界中の人だって、町で会う人たちだけだと思ってた」
彼女はゆっくりと顔を上げる。その瞳は、まるで星空を映しているようだった。
「でも、本当は違った。広い銀河のどこかには、まだ見たことのない花が咲いていて、まだ見たことのない空が広がっていて、まだ出会ったことのない最高なやつらがいる。もちろん、それを会い行くのは大変だよ。下手をすれば命だって落とすかもしれない」
ハルカは照れくさそうに笑う。その笑顔は次第に力強さを帯びていく。
「でもね、東華。私、本当にやりたいことをやってから初めて思ったんだ――生きてるって。ちゃんと私はこの世界にいて、私の心臓はこんなにも熱く鼓動してるんだって」
その言葉は静かな森の中へ真っ直ぐ響き渡り、誰の胸にも深く突き刺さった。
東華は何か言おうと唇を開く。しかし、言葉は一つも出てこない。
微かに震える唇だけが、彼女の心の揺らぎを物語っていた。
確かに、この少女にはルキウスと重なる面がある。だからこそ恐ろしかった。また同じ苦しみを、この子まで背負わせてしまうのではないかと。
だが――違う。ハルカはルキウスではない。彼女は彼女だけの強さを持ち、その眩しさは誰とも違うものだった。
「心配してくれてありがとう、東華。でも私にとっては、こうして進んでる今が、一番生きてるって思えるんだ」
その真っ直ぐな瞳はきらきらと輝き、東華の返事を静かに待っていた。
東華はゆっくりと深呼吸し、困ったように肩を落とす。それでも最後には、優しく微笑んだ。
「……私の負けだね」
「えへへ!」
ハルカは満面の笑みを浮かべ、その場の重苦しい空気を吹き飛ばすように笑った。
ヒヨリは少女の笑顔を見つめるうちに、不思議と胸のつかえがすっと晴れていくのを感じた。思わず笑みがこぼれ、隣にいるタマモへ何か声をかけようと振り向く。
だが、いつもなら軽口ばかり叩いている彼女は、珍しく空をじっと見上げたまま微動だにしていなかった。
そこには何もない。それなのに、その横顔だけは今まで見たことがないほど張り詰め、獣のような鋭い警戒を帯びていた。
「ハルカ、こちらへ来て。ハクタクはいつも私の作った薬を持ち歩いている。根印無き者にも効果があるし……私の能力で、これ以上体に負担がかからないよう処置しておくわ」
「ほんと?やった!」
「人ごとのように喜ばないで。次にまた怪我をしたら、本気で許せないから」
「うぅ……怪我するかどうかなんて、私が決められることじゃないのに……」
二人が治療の話を始めてしばらく経っても、タマモはなお空を見上げたままだった。さすがのヒヨリも心配になり、おそるおそる声をかける。
「師匠?どうしたの?空には何も――」
タマモはゆっくりとヒヨリへ視線を向けた。その真剣な表情は、一瞬でいつもの妖艶な笑みに塗り替えられる。
「ヒヨリ~~~~♪」
「うわっ!?」
いつものように胸元へ腕を抱き寄せられ、ヒヨリは慌てて声を上げた。
「ま、また急にどうしたんだよ!」
タマモは両手でヒヨリの頬を包み込み、そのまま顔をぐっと引き寄せる。二人の額が触れ合い、互いの吐息がそのまま伝わるほどの距離だった。
「……少し、妾の話を聞いてくれるかえ?」
「え?うん……」
「……妾にはな、ようけ名前がある。せやけど、本当の意味での名は、一つもあらへん。ダッキもタマモも……どれも妾に魅せられた男どもが、己のすべてを捧げた果てに、妾へ与えた呼び名や。けど、そのどれ一つとして、妾自身が心から、これが妾の名や、と思えたことは、一度もあらへん」
ヒヨリは何も言わず、続きを待った。
「おぬしが前に、どうして契約を結ばへんのかと尋ねたやろう?それも理由の一つや。妾には契約に用いる真の名があらへん」
そう言いながら、タマモはそっと腕をヒヨリの首へ回す。
「世の者どもは皆、国を滅ぼした妖狐がおったことしか知らへん。妾がどこから来て、何者なんか……誰も知らへん。ヒヨリ、おぬしも同じや。今まで妾がおぬしに見せてきたもんも、結局は、おぬしに見せたい妾に過ぎへん」
「……師匠が昔どんなことをしてきたのか、俺には分からない。でも、一つだけ分かってる」
真っ直ぐにタマモを見つめながら、優しく笑う。
「俺にとって師匠は、感謝しなきゃいけない相手なんだって」
「ほう?妾が、おぬしに嫌われてしまうような、取り返しのつかへん悪事や大罪をようけ重ねてきたとしても?」
「なんか変なこと言うなあ。誰だって間違いはするだろ?それに、何が悪で、何が罪だなんて、俺一人が決められることじゃない」
タマモの狐耳が、ぴくりと揺れた。
「大事なのは、この先どうするかだと思う」
ヒヨリは、タマモの腕をそっと握る。
「人はいつだって、自分を変えることができる、俺だってそうだ。もし許されないことをしてしまったなら……だからって、死ねば全部終わりなんてことにはならないだろ?」
金色の髪を揺らしながら、ヒヨリはいつものように屈託なく笑った。
「俺にとって昔の師匠より今の師匠は、ちゃんと信頼できるっから!」
その言葉を聞き、タマモはふわりと甘く微笑んだ。
彼女はそっとヒヨリの右手を取り、その手の甲を優しく撫でる。ヒヨリが気づかないほど自然な仕草で、ほんの小さな細工を施してから、静かに手を離した。
「……それなら、妾も安心や」




