集う者たち
「あれ以来……私は、一度も天宮へは戻っていない。幸い、ハクタクが私を軒轅国へ匿ってくれた」
東華はハルカと並んで大きな岩へ腰掛ける。穏やかな風が白銀の髪を揺らし、彼女は無意識のように右目の下へ指を伸ばした。黒き竜の紋様をそっとなぞるその横顔には、長い年月を経ても消えない後悔と寂しさが滲んでいる。
「……ルキウスが生きていることだけは知っている。でも、その一件以来、ブリットンスと昊天との関係は悪化した。ルキウスもブリットンスの王によって騎士の任を解かれ、本部を去った。それ以来、この十数年……彼についての情報は、一つも耳に入ってこなかった」
「そっかぁ」
ハルカは頬をぽりぽりと掻くと、気楽な笑顔を浮かべて東華の背中を軽く叩いた。
「でも安心しなって!あいつ、めちゃくちゃ元気だから。私なんか毎回怒鳴られてるし、声なんて超でっかいよ!」
その言葉に東華は小さく笑みを浮かべた。嬉しいそうだが、その瞳にはすぐまた深い悲しみが宿る。
「……でも、私のせいで、彼はたくさんのものを失った。もし叶うなら、もう一度だけ会いたい。そして……私にできる限りのことをして、償いたい。けれど今の私には、彼に会わせる顔なんてない」
「何言ってるのよ!」
ハルカは岩から飛び降りると、振り返って屈託なく笑った。
「ルキウスがどう思ってるかまでは知らないけどさ。東華に会えたら、絶対バカみたいに喜ぶと思うよ!ま、とりあえずルキウスの話を聞けただけでも収穫かな。まだ実感はあんまり――うっ!」
勢いよく身体を動かした瞬間、体の奥で骨が軋むような嫌な音が鳴った。
「いっ……!」
ハルカはその場でぴたりと固まり、顔を引きつらせる。
東華は一瞬で表情を変えた。医師の顔になった彼女はすぐ立ち上がると、迷いなくハルカの身体へ手を伸ばし、全身を手際よく診察していく。数か所を軽く押しただけで、ハルカは思わず悲鳴を漏らした。
「いっ、痛い痛い痛い!」
「……肋骨が三か所に亀裂。右脛骨にも損傷。両腕の尺骨にもひび……それだけじゃない」
淡い翠色のハタがハルカの身体を包み込みながら、東華はじろりと睨み上げた。
「筋肉の損傷は最近治療を受けた形跡がある。それだけが救いのようね……説明は?」
「えっと……その、ちょっと無茶をして……」
「説明を、詳しく」
有無を言わせない口調だった。
ハルカは観念したように頭を掻く。
「ごめん。昊天に真正面からケンカ売っちゃった」
「……」
「あいつ、あんな酷いことしたんだよ!?だって――」
「ナタを……殺したから、ね」
「えっ。もう知ってたの?」
「……もともと、軒轅国と天宮の連絡役は私でした。でも昊天と決別してからは天宮へ戻っていない。今、その役目を引き継いでいるのは、敖コウという龍種の方だ」
東華は治療の手を止めることなく続ける。
「彼は……もともとナタのパートナーで、長い付き合いだった。ナタがトランスグレッサーを庇い、昊天によって撃ち落とされたことも、彼から聞いた」
ハルカの体へと優しい翠色のハタが染み渡っていく。だが、東華の表情だけは晴れなかった。
「……ハルカ。本当なら、ナタが見出したトランスグレッサーにそれだけの価値があるのなら、私も昊天をもう一度説得するために力を貸したでしょう。でも……駄目だ」
彼女はハルカの手をぎゅっと握り締める。
「あなたはルキウスの家族だ……あなたまで失いたくない」
ハルカは一度深く息を吸い、肩の力を抜いたまま笑った。
「東華、まずさ、ルキウスとちゃんと話もしないうちから、自分のせいであいつは何かを失った、なんて決めつけるのはやめようよ。今のルキウスが何を思ってるのか。昔と今、どっちが幸せなのか。それは本人しか分からないんだから。私のことを心配してくれてるのは、本当に嬉しいよ。でもさ――東華も分かってるでしょ?」
彼女は東華の目を真っ直ぐ見つめる。
「一人が正しいと思うことが、誰かにとっても正しいとは限らないよ」
その言葉に、東華は何も返せなかった。ただ静かに、握ったハルカの手へ力を込める。
「あと、敖コウってやつも全部知ってるわけじゃなさそうだね」
ハルカはぱっと表情を明るくすると、今度は自分から東華の手を掴んだ。
「さ、東華!」
勢いよく立ち上がり、そのまま前へ歩き出す。
「私の仲間を紹介するよ!」
「……どういうつもり?」
ハクタクは鋭く問いかけた。
双翼を広げ、木々の上空にハルカ然と浮かぶキュウキは、彼女の憎悪に満ちた視線を真正面から受けながらも、どこか愉快な様子だった。
「ずいぶん大人しくなったじゃないか、ハクタクちゃん。昔のおまえなら、俺の顔を見た瞬間に殴りかかってきてたぞ?」
「茶化すな。わざわざ僕の前に姿を現した以上、ろくでもないことなんでしょう」
ハクタクは一歩も引かず、冷たい声で言い放つ。
「言いなさい。また何を企んでる」
「そんな警戒するなよ」
キュウキは大きく伸びをし、欠伸でもするかのように翼を揺らした。
「今日はただ話しに来ただけだ……なあ、ハクタクちゃん。おまえは天宮と、あの昊天のことをどう思ってる?」
その問いに、ハクタクはすぐには答えなかった。
不用意な一言すら、この男の思う壺になる。そんなことは、長い付き合いの中で嫌というほど思い知らされていた。
「まあいいさ。こっちも、そろそろ動き出す頃合いだからな。そのことだけ伝えに来た」
「……動き出す?どういう意味?」
「ははっ、分かってるくせに。いやぁ、皮肉なもんだ。この軒轅国ってのは、もともと人と獣が共に生きるために造られた大結界だったろ?それが今じゃ、お互いすっかり距離を置いちまってる。昊天なんて、獣どもを厄介者扱いで、全然関わりたくないね」
ハクタクは鋭く睨み返した。
「……あなたみたいに、人を喰らうことを楽しむ獣がいるからでしょう。少なくともあの男は、この世界の人を誰よりも守ろうとしている、これだけは確信がある」
「へぇ?」
キュウキは口角を吊り上げる。
「ってことは、それ以外については別に擁護する気もないってわけだな、ハクタクちゃん」
「……」
ハクタクは何も答えない。
キュウキはゆっくりと彼女の周囲を旋回しながら、その反応を楽しむように目を細めた。
「おまえもずっと我慢してきたんじゃないのか?本当に天宮へ心酔してるんなら、俺なんかとこんな長話をしないだろ?」
「……どうして今なの。どうしてあなたまで昊天を狙うの?天宮がどうなろうと、ずっと軒轅国にいるあなたには関係ないでしょう」
「そのうち分かるさ」
キュウキは意味深に笑った。大きく翼を畳み、その羽で全身をすっぽりと包み込む。
「逃がすか!」
ハクタクが地面を強く踏み込む。大地が裂け、鋭い岩槍が何本も一斉に突き上がり、キュウキへ襲いかかった。
だが、その一瞬早く。翼が風に溶けるように霧散し、岩槍は何もない空間を貫いただけだった。
「相変わらずだな」
どこからともなく、キュウキの笑い声だけが森の中へ響く。
「ハクタクちゃんは、本当に考えてることが分かりやすい」
その言葉を最後に、気配は完全に途絶えた。ハタも跡形もなく消え失せる。
「……ちっ」
ハクタクは小さく舌打ちすると、追跡を諦めるようにゆっくりと拳を下ろした。静まり返った森には、風が木々を揺らす音だけが虚しく響いていた。
ヒヨリは、ハルカたちが向かった方角をずっと見つめていた。
先ほどまでは、あれほど凄まじいハタ同士の衝突が響いていたというのに、今では辺りは静まり返り、何の気配も感じられない。吹き抜ける風だけが草を揺らし、不気味なほどの静寂が続いていた。
「そないに心配やったら、様子を見に行ったらええやないか?」
そう言いながらタマモが隣へ腰を下ろす。尻尾をゆったり揺らしながら、ヒヨリの横顔を覗き込んだ。
少年は首を振る。
「ハルカが自分でやるって言ったんだ。だったら、きっと大丈夫だ」
「ふん……大した信頼やのう」
タマモは頬を膨らませ、どこか拗ねたような声音で呟く。その言葉には、わずかに嫉妬の色さえ混じっていた。
そんな彼女を見て、ヒヨリはふと思い出したように口を開く。
「そういえば、前から聞きたかったことがあるんだけど、師匠。どうして師匠は、俺とも神祇契約を結ばないの?」
「なんや、ヒヨリ。ようやく妾をずっと傍に置いておきとうなったんかえ?」
「いや……その言い方が変だろう。師匠には本当に何度も助けられてるからさ」
「ああもう、おぬしはほんまに色気いうもんが分かっておらへん。そこがええんやけど、同時によぉない」
ため息をついてから、彼女はヒヨリの肩へ身体を預ける。
「まあ、それはさておき、神祇契約の話やけどな……単純に、妾はそない親切やあらへん。妾は自由気ままに生きるんが性に合うておる。呼ばれたらいつでも飛んで行くなんて、割に合わへんし、おぬしは残業代も払うてくれへんやろ?もちろん、おぬしのハタを受け取れるんは悪うない。せやけど、それだけで妾が何かを差し出すことはあらへん……いや、正確に言うなら、おぬしのすべては妾のもんや、いう前提でもない限り、妾は誰かのために尽くそうとは思わへんし、そうする理由も分からへん」
ヒヨリは困ったように首を傾げた。
「そうなのかな……でも、師匠はもう十分いろんなことをしてくれてると思うよ。それって、もう俺のために頑張ってくれてるってことじゃないの?」
「違うえ」
タマモは即座に言い切る。
「全部、妾自身の目的のためや」
「うーん……難しいな。でも、理由が何だったとしても、助けてもらったことには変わりないよ。たまにどう接したらいいか分からなくなる時もあるけど、本当に感謝してる。それは、本心だから」
タマモの狐耳がぴくりと震え、耳元の鈴がちりん、と澄んだ音を鳴らした。
「……まったく。こんな時に、さらっと女の心を乱すようなこと言うて。まだ何一つ片付いてもおらへんいうのに。あの美人ちゃんのフクロがどうなったんかも分からへん。それに、おぬしも自分が何者なんか知ってしもうた……それでもなお、この先も別の世界へ行くつもりなんかえ?」
その問いに、ヒヨリは珍しくすぐには答えられなかった。
その時、大きな翼が風を切る音とともに、鳳凰――エンが二人の前へゆっくりと舞い降りる。彼の周囲には数え切れないほどの小鳥たちが付き従い、枝へ止まるものもいれば、臆することなくエンの肩へ留まるものまでいた。
「どうやら、一段落ついたようだな」
エンが軽く手を上げると、森の両側から鳥たちが飛び立ってくる。やがて木々の向こうから、一方にはハクタク、もう一方にはハルカと東華の姿が現れた。
「ハルカ!」
ヒヨリは勢いよく立ち上がる。
「東華様!ご無事で……って、ダッキ!?」
ハクタクと東華は、平原の真ん中でくつろぐ九尾の狐を見つけるなり目を丸くした。一方のタマモはというと、まるで最初から知っていたかのように穏やかに微笑み、ひらひらと手を振るだけだった。
「ふぅ、助かった!この子たちが案内してくれなかったら、絶対迷ってたよ」
ハルカは腰に手を当て、いつものように朗らかに笑う。
その様子を見て、エンも静かに口元を緩めた。
「さて」
一同を見渡しながら、ハルカはぱんっと手を叩く。
「せっかくだし、みんな改めて自己紹介しよう!」




