決別
サラマンダーたちの村に別れを告げた東華とルキウスは、第五空間へ来たばかりの崖へと戻ってきた。
空は相変わらず世の末を思わせる深紅に染まり、風が吹くたびに硫黄と煤煙の臭気が鼻を刺す。緑などとうの昔に失われ、視界の果てまで広がるのは、黒く焼け焦げた枯れ木ばかり。命の息吹を感じさせるものは、どこにもなかった。
その荒涼とした景色を見渡しながら、東華はため息をつく。
「……もともと私たちには、ドミネーターと正面から戦えるだけの戦力が足りていない。それなのに、この世界は今なお内乱を止められないなんて……」
赤い鎧を身にまとい、再び兜を被ったルキウスも肩をすくめるように答えた。
「世界全体から見れば内乱でも、それぞれの種族からすれば自分たちの戦争だからな」
彼は黒く染まった大地へ視線を向ける。
「だからこそ、今は少しでも味方になり得る連中を引き入れることが先決だ。ドミネーターが滅ぼすことは、一つの国でも一つの種族のためではない。この切り離された宇宙に生きる、俺たち含めすべての命のためだからな」
「……ええ。でも……ルキウス。あなたは私の命の恩人だから、このことだけは伝えておきたい」
「どうした?」
「昊天陛下は、私がブリットンスの協定騎士になることを許してくれたが……あのお方が、本当にあなたたちと同じ目的を見据えているとは、私は思えない」
「……ああ。それは俺も考えたことはあるさ。でも、一緒に力を貸してくれるなら、それで十分だと思ってる。別に全員が仲良く手を取り合う必要なんてない。そのくらいは分かってるよ」
「……そういう意味ではない。私が言いたいのは……陛下の考えているドミネーターの倒し方は、きっとあなたたちとは根本から違うということだ。昔から、あのお方の判断はいつも正しかった。でも……あまりにも正しすぎる」
やがてルキウスは、ふいに穏やかな声で問いかける。
「……じゃあ、東華。お前はどうしたい?」
「え……?」
「東華自身は、どうしたいんだ?聞かせてくれ。どんな答えでも、俺はちゃんと聞く」
東華は少し俯き、自分の胸に手を当てる。しばらく迷うように息を整えてから、小さく、それでも確かな声で口を開いた。
「……今の私は、医者として生き続けたいと思っている。だから、誰にも傷ついてほしくない。どこの世界の人であっても、死んでほしくない」
彼女は顔を上げ、真っ直ぐルキウスを見つめた。
「できることなら、陛下にも心からあなたたちと手を組んでほしい。そして……ルキウス、ブリットンスの王もまた、心からそう願っていてくれたらいいと……そう思っている」
少しだけ苦笑しながら、彼女は視線を逸らす。
「……やっぱり、甘い考えでしょうね。世間知らずの子供みたい」
兜の奥から、ふっと楽しそうな笑い声が漏れた。
「甘い?いや、立派じゃないか。臆病な奴ほど、最初から無理だって決めつける。だから俺は、不可能だと分かっていても、それでも口にできる人こそ本当の強さを持ってると思う」
彼は優しく続けた。
「お前はドクターだ。誰にも傷ついてほしくない、誰にも死んでほしくない――そう願うのは、ごく当たり前のことじゃないか!」
東華の胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ありがとう、ルキウス」
そう言って微笑んだものの、彼の顔は厚い兜に隠れたままだった。どんな表情で自分の言葉を受け止めてくれているのかも、その瞳がどんな色を宿しているのかも、東華には分からない。
そのことが、ほんの少しだけ惜しく思えた。
――この感謝の気持ちが、ちゃんとあなたに届いているといいのだけれど。
本来であれば、ルキウスと東華は第四空間へ戻り、昊天へ任務完了の報告を済ませた後、ルキウスはブリットンス本部へ帰還する――そのはずだった。
「……これは……」
仙境そのもののように美しかった天宮は、東華が戻ってきた頃には、その面影すら失うほど変わり果てていた。
壮麗だった楼閣の柱は何本も倒れ、屋根瓦は吹き飛び、壁は至るところで崩れ落ちている。焦げた瓦礫からはまだ煙が立ち上り、辺りには焼け焦げた匂いが漂っていた。数歩進めば、全身を負傷した兵士たちが壁にもたれ、苦しげに息をついている姿が目に入る。
「……いったい、何が……」
思わず目を疑う東華の隣で、ルキウスも低く呟いた。
「……ポラリスって、この世界じゃ相当な強者なんだろ?霊脈まで自分のものにしてるって聞いたぞ。そんな奴の本拠地が、ここまで壊されるなんてな」
「東華様!」
聞き慣れた声とともに、一人の少女が慌ただしく駆け寄ってくる。
「ハクタク」
息を切らしながら立ち止まったハクタクは、東華の顔を見るなり安堵したように笑みを浮かべたが、すぐ右目の下の黒い紋様に気づきいた。
「東華様……お顔は……」
「それより、何があったの?」
「は、はい!天宮が襲撃されました……たった一人に……」
「……何だって?」
「それより、昊天陛下がお呼びです!事情は陛下ご自身から説明なさると!」
東華はルキウスと視線を交わした。
「……ルキウス、ごめん。こんな状況を見せることになってしまって……。これはおそらく紫微天宮の内情だ。あなたまで巻き込むわけにはいけない、私一人で行くよ。あとで迎えに来るから」
「さっきは、本心で協力し合いたいって言ってなかったか?」
「もちろん嘘じゃないわ!ただ……陛下の気性はあなたも聞いているでしょう?今の陛下はきっと機嫌が最悪だ。だから……」
「ははっ、悪い悪い、冗談だ。分かってるよ、東華。ここで待ってる」
「うん」
小さく頭を下げると、東華は天宮の奥へ駆けていった。
ハクタクは、彼女背中が霧の向こうへ消えていくのを見送りながら、終始落ち着かず、袖をぎゅっと握り締め、額には冷や汗まで浮かべていた。
「……お前、ハクタクだっけ?」
「……なんですか」
「紫微天宮で、何が起きた?」
「あなたには関係ありません。お話しできません」
「へえ」
ルキウスは鼻で笑う。
「じゃあお前も、自分には関係ないと思ってるから、東華について行かなかったのか?」
「冗談じゃありません!」
ハクタクは思わず声を荒げた。
「僕だって行けるなら迷わず行きます!でも僕はただ……東華様に助けていただいただけで、ここにいられる。天宮の問題に勝手に首を突っ込めば、昊天はきっと東華様を咎めます!そうなったら東華様がもっと危なく……」
そこまで言って、ハクタクは慌てて口を押さえた。
しかし、もう遅かった。ルキウスの声色が変わる。
「……危なくなる?つまりポラリスは、東華に何かするつもりなんだな」
「……もういいです、魔剣使い。今のは聞かなかったことにしてください」
だが、ルキウスは返事をすることなく踵を返した。
「ちょ、ちょっと!どこへ行くんですか?!」
ハクタクの呼び止めにも足を止めず、赤い騎士は濃い仙霧の中へ歩き出す。
「お前の言う通り、俺はただの関係のない余所者だ。だったら、俺が何をしようと、誰も巻き込まれないだろ」
その言葉だけを残し、ルキウスの姿は白い霧の中へ消えていった。
東華が凌霄宝殿へ辿り着くと、そこもまた激戦の跡が生々しく残っていた。
壁は崩れ、屋根は裂け、四方から冷たい風が吹き込んでいる。床には巨大な裂け目が走り、辺り一面には瓦礫が積み重なっていた。
唯一変わらぬ姿を見せていたのは、玉座の最奥に鎮座する巨大な黄金の神体――ポラリスこと昊天だけだった。
もっとも、その威容すら、荒れ果てた宮殿の中ではどこか疲弊して見える。
そして、その場にはもう一人。氷のような淡い蒼髪を持つ少女――顕聖真君・楊ゼンが静かに立っていた。
【戻ったか、東華。まずは報告だ】
「……はい」
東華は姿勢を正し、深く一礼する。
「第六空間から侵入した邪竜は討伐しました。周辺の精霊たちも無事救助し、解毒も完了しています」
【よくやった】
「陛下……天宮で何があったのですか?」
【……ふん。楊ゼン、君から説明しろ】
楊ゼンは静かに東華へ向き直る。しかし、その瞳は東華を見ようとはしなかった。
「……私の……元パートナーが、陛下を攻撃しました。あいつの強さを見誤った。その結果が、この有様です」
「あなたの……」
東華には誰のことかすぐ分かった。それでも信じられなかった。
「あの方が……理由もなく、そんなことを……?」
【理由ならある】
昊天の声が響く。
【我のドミネーター討伐の方針を、奴は認めなかった】
「ドミネーター討伐……まさか、あの方がブリットンスとの共闘に反対したのですか?」
【違う】
昊天は即座に否定した。
【東華。君は長年我に仕えてきた。ならば察しているだろう。我は最初から、ブリットンスが我々を勝利へ導くなどとは考えていない。奴らは全員揃った時ですらドミネーターを倒せなかった。今や戦力は半分にも満たない、そんな者たちに世界の命運を託せるものか】
東華は答えられなかった。心のどこかで、それが昊天の本心なのだと理解していたからだ。
【我はモニターだった頃から、この世界の霊脈と融合するため、気の遠くなるほど長い年月を費やしてきた。だが、それでも足りぬ。ドミネーターは宇宙すら一太刀で断ち割る。一つの世界のハタ程度では、あの災厄は滅ぼせん。楊ゼン、東華に見せてやろ】
「はい。東華様、宮殿の端までお下がりください」
楊ゼンに促され、東華は理由も分からぬまま、言われた通り宝殿の端へと歩いた。同時に、楊ゼンは宮殿の中央へ進み出ると、自らの残刻器の識転を解除する。淡い蒼光とともに、一振りの純白の三尖両刃刀がその手に顕現した。
彼女は迷いなくその切っ先を足元の床へ突き立てる。刹那、刀身から眩い蒼い光が奔り、宮殿全体を包み込んだ。
ゴゴゴゴゴ……
床そのものが唸るような重低音とともに床が激しく震え始める。東華は何が起きているのか理解できず思わず身構えたが、楊ゼンはすぐさま後方へ跳躍し、同じく宮殿の端へ退いた。
凌霄宝殿の中央の床がゆっくりと左右へ開き、その地下に隠されていた巨大な空間が姿を現す。
底知れぬ冷気が一気に吹き上がり、まるで冬そのものが解き放たれたかのように宮殿中へと流れ込んだ。吐く息は白く染まり、瓦礫にも柱にも瞬く間に白い霜が降り積もっていく。
東華は息を呑み、地下へ視線を向けた。
そこにあったのは――
無数の、凍りついた人々だった。
老人も、子どもも、男も女もいる。衣服を見る限り、誰もが地上で平穏に暮らしていたごく普通の民だ。彼らは皆静かに目を閉じ、透明なカプセルの中で眠るように横たわっている。その膨大な数のカプセルは厚い氷に包まれ、まるで時そのものを止められているかのようだった。
「……これは、一体……何ですか……?どうして……どうして、こんなことを……!どうして私には何も知らせてくださらなかったのですか!?」
震える声で叫ぶ東華に、昊天は微動だにせず答える。
【落ち着け、東華。我の第二異能力――志心帰命は、この世界の霊脈と繋がることで得た力だ。その能力は、この世界に生まれた人たちのサハを、我自身のハタへと変換することにある】
「サハを……?何を仰っているんですか……!サハとはその者の魂であり、その者のすべての記憶ですよ?!これもあなた様が私に教えたことです!」
【ああ。見ての通り、肉体だけを残し、空っぽになった彼らは眠り続けることになる。だが安心しろ、これは一時のことで、我も必ず彼らの肉体を守り通す。我は民のサハを力として背負い宇宙も毒瘤を倒し、そして――彼らが再び目を覚ます時には、この宇宙はすでに危機を乗り越え、平和な世界になっていると誓おう】
楊ゼンは無言のまま三尖両刃刀を振るう。
重々しい音を立てながら床は再び閉じ始め、地下の巨大な空間はゆっくりと闇の中へ沈んでいった。凍りついた人々の姿も、やがて完全に見えなくなる。
東華は唇を震わせた。あまりにも信じ難い光景に、言葉すら出てこない。
【無論、隠すつもりだったわけではない。計画はまだ始まったばかりだ。地上にはまだ多くの民が残っている、これから楊ゼンと共に、順次ここへ運び入れる】
「……その人たちの意思を、尋ねたのですか。彼ら自身は、それを望んでいるのですか」
【宇宙の真実など知らぬ根印無き者が大勢だ。我が地上を離れて久しく、子どもたちなど我を知らん。ならば、すべて夢だったと思わせておくのが最善だ】
「……そう、ですか」
東華はゆっくり顔を上げる。
「……だから、あの方は天宮をこうまでにして、あなたと戦ったんですね」
その瞳には、これまで昊天へ向けたことのない怒りが宿っていた。
【……その目は何だ、クンメイ】
昊天の傍らに立つ楊ゼンも、複雑そうに視線を伏せる。
「今すぐ、おやめください。あなたは、昔からそうでした。誰よりも先を見据え、誰よりも正しい判断をなさる。そのことは私もよく分かっています……でも――あなたの正しさは、すべての人にとっての正しさじゃありません!!あの時だってそうです!もしあなたが、ほんの少しでも……ほんの少しでも姉弟子のことを思いやってくださっていたなら……!彼女があんな結末を迎えることは、なかったはずです!!」
【今さら昔の話を持ち出す気か】
宮殿中に散乱していた瓦礫が一斉に宙へ浮かび上がり、弾丸のような勢いで東華へ襲いかかった。
東華は反射的に根印を展開し、翠色のハタを纏わせる。迫り来る瓦礫を次々と打ち砕き、その破片が激しく飛び散った。
楊ゼンが思わず踏み出しかける。
【楊ゼン。手を出すな】
「……承知しました」
彼女は拳を握り締めたまま、その場で動きを止めた。
【……ようやくあの厄介極まりない奴を片づけたと思えば、今度は、君が騒ぎを起こす番か。まったく、君らしくもない】
「騒ぎ?私は自分の思いをきちんと伝えただけです!あなたと考えが違うだけで、それを騒ぎと決めつけるんですか?!」
【非常時だからこそ、我はこの手段を選んだ】
昊天の声が宮殿を震わせる。
【これ以外にどうしろと言う。まさかブリットンスなどという者どもに、この宇宙の未来を託せとでも言うのか】
東華は唇を強く噛み締めた。本当は伝えたかった、ルキウスたちと手を取り合ってほしいと。力を合わせれば、きっと別の道があるのだと。
だが今の昊天を前に、その言葉は喉の奥で凍りついてしまう。
【……師弟の情に免じて最後に忠告してやる。これ以上逆らわなければ、一か月の禁足で済ませてやろう】
昊天の黄金の神体から溶け出した液体金属が、自ら意思を持つように細長い鎖へ姿を変えていく。
じゃらり、と重い音を響かせながら、その無数の鎖が東華へ向かってゆっくりと伸びてきた。
東華は思わず一歩退こうとした。あるいは能力を使って抵抗しようとも思った。
だが――
この世界では昊天が絶対だった。
誰よりも、それを東華自身が知っている。どれほど抗っても、勝てない。
震える足は静かに止まり、逃げようとしていた身体も力なく動きを失う。
結局、私は、何一つ変われなかった。何も成長できていない。
深い絶望の中、東華はゆっくりと目を閉じた。
――ガァンッ!!
耳をつんざくような金属音が凌霄宝殿に轟く。
東華ははっと目を開いた。
目の前には、一人の大きな背中が立っていた。赤い鎧を纏った騎士――ルキウス。
振り下ろされたバルムンクが迫っていた鎖をまとめて叩き斬り、砕け散った鎖が床へと激しく降り注ぐ。
「ル、ルキウス!?どうして……!」
「何だと……!ブリットンスの円卓騎士……何を企んでいる!」
楊ゼンが鋭く声を上げる。
しかしルキウスは振り向きもしなかった。ただ静かに、大剣を肩へ担ぎ、黄金の神体を真正面から見据える。
【……どうした、ブリットンス。まさか我らと手を組む気が失せたとでも言うのか】
「はっ!その気がないのは、先にお前の方だろ、ポラリス」
ルキウスは肩にバルムンクを担ぎ、兜の奥から不敵に笑った。
【……無礼な男だ。この世界で好き勝手に吠えるとは。外から来た雑音風情が、礼節のひとつも弁えぬなら――さっさと消え失せろ!】
その怒声とともに、宮殿中のハタが一斉に昊天へと収束し始める。
まるで世界そのものが巨大な渦となったかのように、膨大なハタが金身の周囲へ吸い寄せられていく。荒れ果てた凌霄宝殿には凄まじい暴風が吹き荒れ、辛うじて形を保っていた柱や梁までもが悲鳴を上げるように軋んだ。砕けた瓦礫が宙へ舞い上がり、床石すら剥がれていく。
「っ……!」
東華は思わず足を踏ん張るが、その暴風に身体を持っていかれそうになる。
「ルキウス、駄目――!」
慌てて彼を止めようと手を伸ばす。
しかし、ルキウスは半身だけ振り返ると、その手首を先に掴んだ。
力強く、けれど乱暴ではない手だった。不意に引き寄せられ、東華の身体が彼の胸元へ寄る。
兜越しで表情は見えない。それでも、その一言だけは驚くほど静かで、迷いがなかった。
「行け。やりたいことを、思う存分にやれ」
東華が言葉を返すより早く、ルキウスはそのまま彼女を力いっぱい後方へ突き飛ばした。
「ルキウス!!」
伸ばした指先は届かない。
赤き騎士は振り返ることなく、大剣バルムンクを握り締めたまま、ただ一人、ハタの奔流へと駆け出していく。
紅蓮の鎧が嵐の中へ飛び込み、次第にその背中は白く渦巻く光と暴風に飲み込まれていった。
轟きが、世界を覆い尽くす。
東華はただ、その姿を見つめることしかできなかった。
――これが、東華がルキウスの姿を見た、最後だった。




