竜血の刻印
竜の巨体が光に呑まれて消滅していく中、その灰となりゆく肉体から、一つの目立たない黄金の指輪が音もなく転がり落ちた。
誰も気にも留めないほど小さなそれを、ルキウスだけは見逃さなかった。一瞬で跳躍すると、地面へ落ちる寸前にその指輪を掴み取る。
その一方で、竜の亡骸は灰となりながら崩れ続けていた。
東華は息を整える暇もなく駆け寄り、なお熱を帯びた黒い血溜まりへ足を踏み入れる。巨大な屍に残された血肉へ静かに印を結ぶと、足元へ翡翠色の陣がゆっくりと広がっていった。
少し離れた場所へ降り立ったルキウスは、その様子を黙って見守る。
何をするつもりなのか、説明を聞かなくても察しはついた。竜の肉体を材料に解毒薬を精錬する――それが化煉使いである東華の役目なのだろう。
化煉使いとは、錬薬と錬金の達人。本来なら炉や数多くの道具を必要とする作業だが、東華ほどの術者ともなれば、そんな媒介は不要だった。素材さえあれば、その場で錬成を完成させてしまう。
やがて竜の黒い血がゆっくりと宙へ浮かび上がり、細い帯となって東華の周囲を巡り始める。
ルキウスは最初、それをただの調薬の工程だと思っていた。しかし、ほどなくして異変に気付く。東華自身の肌にも、サラマンダーたちと同じ禍々しい黒い鬱血が浮かび始めていたのだ。
「……おい、東華!大丈夫か!?」
「大丈夫……解毒薬を、完成させなければ……」
「それじゃ大丈夫じゃないだろ!」
「ルキウス!」
東華は苦痛に顔を歪めながらも真っ直ぐ彼を見つめる。その瞳には涙が滲み、それでもなお揺るがぬ強い願いだけが宿っていた。
「……お願い。最後まで、やらせて」
その一言だけで十分だった。止めようと伸ばしかけた手を、ルキウスは悔しそうにゆっくりと下ろす。
翠色のハタが竜の血肉を一か所へ集め、小さな球体を形作る。その球体は何重にも圧縮されながら、眩い光を帯び始めていく。
その代償のように、東華の身体を蝕む黒い痣はさらに広がった。全身から汗が噴き出し、肩は震え、呼吸は乱れる。やがて目尻や口元からまで赤い血が伝い落ち始めた。
ルキウスは何度も駆け寄ろうとした。だが、東華は苦しみに耐えながらも最後まで背筋を伸ばし、一歩たりとも退こうとはしない。その覚悟を前にして、彼はただ拳を握り締めることしかできなかった。
どれほど時間が流れただろうか。永遠にも思えた苦痛の末、ついに光は収束し、一粒の薬丸が東華の両手へ静かに収まる。
掌に乗るほど小さなそれを、大切そうに抱えた東華は、疲れ切った笑みを浮かべた。
「……ようやく、できた。ルキウス……これを粉末にして、皆へ――」
そこまで言った瞬間、力尽きたように膝が崩れる。
薬だけは決して離すまいと強く握り締めたまま、東華の身体は前へ倒れ込んだ。
「東華!」
ルキウスは咄嗟に飛び込み、倒れる寸前の彼女を抱き留める。
「くそっ……無茶しやがって……!せめてその薬を少しでも自分で食え!」
「う……げほっ……違う……」
「違う?」
「この薬は……精霊たちの体質に合わせて……竜のハタを、自力で排出できるようにしたもの……でも私は……竜血のハタに侵されて……急いで精錬したから、自分を守る余裕が……げほっ!」
「じゃあどうすりゃいいんだ!」
「……そんなに慌てなくても……私はただの、知り合ったばかりの人でしょうに……」
「ふざけんな!お前は解毒薬を作った!患者たちをここまで救ってきた!だったら最後まで責任を取れ!その薬は、お前自身の手で届けるんだ!」
東華の視界は急速に暗く染まっていく。
景色はぼやけ、音も遠ざかり、意識は深い闇へ沈み始めていた。
「だめだ、東華!しっかりしろ!」
ルキウスは必死に呼びかけながら思考を巡らせる。
「……くそっ。竜血のハタ……竜の血……」
やがて彼は覚悟を決めたように歯を食いしばると、大剣バルムンクを傍らへ突き立てる。
東華を片腕で抱えたまま、もう片方の手をゆっくりと剣の刃へ押し当てた。鋭い刃先が指先を裂き、真紅の血が静かに滴り落ちる。
「……一か八か、賭けるしかねぇ」
彼は傷口を東華の唇へ近づけた。
「東華、俺の血を飲め!絶対何とかお前を助けるから!」
「……ぅ……」
朦朧とした意識のまま、東華はわずかに口を開く。ルキウスの血が喉へ流れ込むと同時に、彼は自身の根印を発動させた。赤きハタが激流のように溢れ出し、東華の身体を優しく包み込む。
その力が体内の隅々まで浸透した瞬間――
「っ……!」
東華は勢いよく目を見開いた。
「げほっ……!ごほっ、ごほっ!」
激しく咳き込み、大量の黒い血を吐き出す。身体を覆っていた禍々しい鬱血は少しずつ薄れ、灼けつくような熱も静かに引いていった。
だが、行き場を失った黒いハタは完全には消えない。それはゆっくりと凝縮し、形を変え、やがて東華の右目の下へ、一つの黒い紋様として刻まれた。
翼を広げた竜を思わせる、不吉な印だった。
「……はぁ……はぁ……」
「大丈夫か?東華?」
緊張の糸が切れたように、東華の身体から力が抜ける。ルキウスは慌てて彼女を抱き寄せた。東華はそのまま静かな眠りへ落ちていた。
呼吸は細い。だが先ほどまでとは違い、脈も呼吸も確かに落ち着いている。
ようやく命だけは繋ぎ止められたのだと悟った瞬間、ルキウス自身の身体からも一気に力が抜けた。その場へどさりと腰を下ろし、火山灰に霞む赤い空を見上げながら、小さく苦笑する。
「……人を救うってのは、難しいな。こんだけ必死になって……ようやく一人が助けられた、か……ほんと、俺もまだまだだな」
「……ね、クンメイは、この先、何かやりたいことってあるの?」
穏やかな声が、春風のように耳へ届く。
「え?もう、言ったじゃないですか。あなたに追いつけるよう、私は全力を尽くしますから」
「ふふっ、クンメイも、いつの間にかそんな可愛いことを言うようになったね。最初はさ、不良娘みたいな子があたしの妹弟子になるなんて、どうしようかと思ってたんだから」
「ちょっ……だから昔の話はしないって約束したじゃないですか!」
「はいはい、ごめんごめん。でもね、クンメイ。きみはあたしに追いつきたいって言うけど……追い越したいとは思わないの?」
「……追い越す、なんて。姉弟子には、はっきりした目標があります。私よりずっと情熱もあるし、才能だってあります。私は……ただ隣で見ているだけでも、十分励まされてきましたから……」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどね。でも、この宇宙はとても広いんだよ。あたしなんかよりずっと強い人も、ずっと眩しい人も、きっと数え切れないくらいいる」
「私が言いたいのは……!あなたが、そばにいてくれれば、それでいいんです……!私はただ……ずっと、あなたの隣で……あなたを見ていたいだけなんです……だから……!」
「……」
東華はゆっくりと瞼を開いた。
視界に映ったのは、木造の天井だった。ぼんやりとした意識の中、右の目尻から一筋の涙が静かに零れ落ちる。
何の夢を見ていたのか、その内容はもう思い出せない。ただ胸の奥だけに、言いようのない喪失感だけが残っていた。
東華はゆっくりと身体を起こし、指先で涙を拭う。深く息を吸い込み、反射的に根印を巡らせながら、自分が眠る前の出来事を思い返した。
――竜との戦い。解毒薬の精錬。そして……
その時、不意に木戸が控えめに叩かれた。返事をしようとして口を開く。しかし喉は焼けるように乾き切っていて、声はかすれるどころか全く出なかった。
しばらく返答がなかったためだろう。やがて扉が静かに開く。
姿を現したのは、黒いインナーを着ている大柄な男だった。暗い赤褐色の巻き髪。高く通った鼻に彫りの深い顔立ち。若く、精悍な青年だった。
彼は木のコップを手にしていた。東華が目を覚ましているのを見ると、心から安堵したように表情を和らげ、そのまま静かに歩み寄ってくる。
「起きたか」
差し出された水を、東華は呆然と受け取った。一口、二口と喉を潤しながら、目の前の男をじっと見つめる。
この気配には覚えがある。なのに、どうしても思い出せない。
男は苦笑した。
「……なんだ?まさか俺のこと、分からないとか言わないよな」
「……え?」
東華は何度か瞬きを繰り返し、ようやく目を丸くする。
「ルキウス……!?どうして……鎧は?」
「一応、任務は終わったからな」
肩をすくめて笑うルキウスに、東華はまだ信じられないように何度も顔を見比べる。
「そんなに驚くことか?」
「い、いえ……思っていたより、ずっと若かったので……」
少し視線を逸らした東華だったが、すぐに何かを思い出したように身を乗り出した。
「あっ……そうだ!サラマンダーのみんなは!?」
「安心しろ。お前の作った解毒薬は見事だった。皆助かったよ」
その言葉を聞いた瞬間、東華は胸を押さえ、大きく息を吐いた。
「……よかった」
張り詰めていたものが、ようやくほどける。その安堵した表情を見届けたあと、ルキウスは少しだけ視線を落とした。
「……だが、東華。俺から、お前に謝らなきゃならないことがある」
そう言うと彼は傍らから磨き上げられた丸い金属盤を持ち上げ、東華へ差し出した。
東華はそれを受け取り、その表面を覗き込む。そこに映っていたのは――右目の下へ刻まれた、黒い竜を思わせる禍々しい紋様だった。
「……これは」
「竜血に侵されて、お前は死にかけてた。だから、俺の血をお前の体に流し込んで、竜のハタを無理やり抑え込んだ。こんなの俺も一度もやったことない、結果として命は助かった。でも……消えきらなかったハタが、浮想紋みたいな形で残っちまったらしい。悪かった、時間をかければ、消す方法も見つかるかもしれない」
「……何を謝るの?あなたは、私の命を救ってくれたじゃない」
「でも……せっかく、麗しい顔だったのに、こんなのを――」
「ふふっ。意外だね。ルキウスって、そういうことを気にする人だったなんて」
「いや……そりゃ……」
困って言葉に詰まる彼を見て、東華は柔らかく首を振る。
「私は気にしないわ。消す必要もない」
指先で黒い紋様へそっと触れながら、穏やかに微笑む。
「これはきっと……私が忘れてはいけない教訓でしょう」
そう言って鏡代わりの円盤を静かに膝へ置くと、東華はどこか遠くを見るように目を細めた。
「……実ね、私、最初から医者になりたかったわけじゃない」
ルキウスは何も言わず、静かに耳を傾ける。
「昔、私より先に昊天陛下の弟子になった、とてもすごい方がいた。彼女は人を救うことが熱心で、苦しみに負けず立ち上がる人たちを見るのが、本当に嬉しそうな方だった。医術は私なんかよりも遥かに優れていて、能力も極めて優秀な治癒能力だった。陛下――あの頃の師匠も、彼女を最高の医師へ育てようと。そして私は……夢に向かって、やりたいことに向かって、真っ直ぐ進み続ける、彼女の背中が、大好きだった」
東華はゆっくりと俯いた。
「……彼女は、ある日、自分が命を救った相手に裏切られた。焼き鏝を押し当てられ、刑具で肉を裂かれ……それでも彼女は誰一人恨まず、復讐を望むこともなかった。でも、もう二度と、人を救うことを、自分のやりたいことだと思えなくなってしまった」
「……つまり、東華、お前はそいつが歩けなくなった道を、代わりに歩こうとしてるんだな」
「……滑稽でしょう?私は今でも、もう存在しない眩しい過去ばかり見つめている。彼女のやりたいことを、代わりに叶えたいなんて……本当に馬鹿みたい」
「いや。そんなことはない」
彼は窓の外へ目を向ける。
「俺だって同じだ。俺は俺の……ブリットンスの王に忠誠を誓った。王が成し遂げたいことを、この手で叶えるために戦ってる。世の中には、一人じゃ絶対にできないことが山ほどある。だから誰かが隣に立つんだろ?」
「でも私が追いかけているのは……過去の幻なんだ、知ってるのに、なお」
「……ああ。だからこそ危ない。そんな終わりのないものを追い続けたら、お前はいつ止まればいいのか分からなくなる。だから自分をそこまで追い詰めちまうんだ」
そう言うと彼は東華の前まで歩み寄り、ゆっくり腰を屈める。そして大きな手を差し伸べた。
「外へ行こう」
「……え?」
「少し歩けるか?」
東華は少し戸惑いながらも頷いた。その手を借りてベッドから降りるが、まだ足元は覚束ない。身体がぐらりと傾き、自然とルキウスの肩へ寄りかかる形になってしまった。
年下でありながら、自分よりずっと背の高いルキウスにこうして身体を預け、薄い衣越しにも鍛え上げられた逞しい筋肉の感触が伝わってくることに、東華は少し気恥ずかしさを覚えた。
ルキウスは何も言わず、そのまま歩幅を合わせて外へ連れ出した。
外へ出ると、崩れた家々が並ぶ村は依然として廃墟同然だった。それでも、少し前までとはまるで違う。
細い道には人の姿が戻り、あちこちで笑い声が聞こえていた。ついこの間まで高熱で身動きも取れなかった光と炎の精霊たちが、今では元気に歩き回っている。子供たちは土埃を巻き上げながら追いかけっこをし、その無邪気な笑顔に東華は思わず目を見開いた。
ルキウスが遠くの一本の木を指差す。木陰では、第五空間へ来たばかりの頃に出会った兄弟が、力を合わせて材木を運んでいた。
二人はこちらへ気付き、大きく手を振る。
「ほら」
ルキウスが穏やかに笑う。
「全部、お前がやったことだぞ」
「……私、が?」
「他に誰がいる。もし俺一人だったら、あいつらは笑うどころか、あのまま苦しんで死んでた。どうせ今、彼女だったらもっと早く、もっと上手く助けられたっなんて思ってるんだろ?」
東華は申し訳なさそうに頷いた。
「ははっ!でもな、あいつらはそんな奴を知らないし、俺だって知らない。知ってるのは、お前だけだ。感謝する相手も、お前だけなんだ。だってここへ来たのは、あいつらを助けたのは、誰にも代われない東華、お前なんだから」
東華は顔を上げる。赤褐色の髪を揺らす青年は、一見すると厳つく近寄り難い。けれど、その言葉の一つひとつには、不器用なくらい真っ直ぐな優しさが込められていた。
パン、パン、と拍手が響く。
振り向くと、灰色の髪に白衣をまとった痩身の男――タウィルが微笑みながら歩いてくる。
「実に見事でしたね。あれほど短時間で解毒薬を完成させ、その上ここまで効果を出すとは」
東華は少し照れたように、一歩だけルキウスから離れた。右目の下の黒い竜紋が、その横顔にひときわ目立つ。
「……そうでしょうか。私からすれば、あなたが毒を抑え込んでいた方が、よほどすごいと思いました」
タウィルは苦笑しながら首を振る。
「いえいえ。ワタシはただ、彼らの体の中へ極小の扉を無数に開いただけですよ。分かりやすく言えば、アナタは彼らの身体を強化して毒へ耐えさせた。ワタシは、血液やハタなど、毒に感染されやすいものを減らして、症状を抑えていただけです。正直に言えば、ワタシの方法では、二日ほど命を繋ぐのが限界でした」
東華の表情が変わり、思わず声を荒げる。
「……どうして、それを先に言わなかったんですか!あんな危険な方法だったなんて……どうして黙っていたんです!」
タウィルは少しも動じない。
「アナタ方なら、最短で解決してくれるとわかっていましたから。ほら、ワタシは二日以内に戻れなんて言っていなかったのに、それでもお二人は最高の結果を持ち帰ってくれた。結果として、皆が助かった。それで十分ではありませんか」
ルキウスは呆れたように頭を掻く。
「ちっ……全部見通してたみたいな言い方しやがって。どっかの性悪野郎を思い出すぜ」
「ルキウスさん!東華さん!」
長い三つ編みを揺らしながら、サラマンダーの少女マルリネが駆け寄ってくる。
「本当に……本当にありがとうございました!もう助からないと思っていたんです……皆を救ってくださって……!」
東華は柔らかく、彼女に微笑みかける。
「当然のことをしただけです。これから皆さんは、どうする予定なんですか?」
「村を建て直したいという人も大勢います。せっかく命を助けてもらって、川も元に戻りましたから。もう一度、この場所で暮らしたいって」
ルキウスは眉を上げる。
「でも、それだけじゃないだろ?村を出ようとしてる奴も、結構見かけたぞ。どういうこと?」
マルリネは間をおいて、やがて真剣に答えた。
「……戦争は、まだ終わっていません。ここは救われました。でも私たちの同胞が、今も戦いが続いています。だったら私たちも、サラマンダーの長――デロル様のお力になりたいんです」
またその名だ、と東華は思う。最初に出会った少年も、その名を口にしていた。
ルキウスはため息をついた。
「俺から一つ忠告だ。戦場はいくつも渡ってきたが、命を懸けてでも付き従いたい相手がいるとか、死を誓える覚悟があるとか、そういう理由でもない限り……自分から戦争なんかに関わるもんじゃない。それが一番幸せなんだからな」
「……ルキウスさん。東華さん」
マルリネはゆっくり頭を下げる。
「お二人に出会えて、私は幸運でした。でも、今この瞬間も、苦しんでいる仲間がたくさんいます。だから今は……自分の幸せだけを考えてはいられないんです。本当に、ありがとうございました」
東華は、彼女まで戦場へ向かうことを選ぶとは思っていなかった。
昊天の統治する第四空間では、まだ平穏な日々が続いている。だからこそ、この年若い少女までもが、自ら血に染まる未来を受け入れている現実が胸に重くのしかかった。
ルキウスは、そんな彼女を止めなかった。
「覚悟を決めたならいい。人生は、お前自身のものだからな」
その言葉を聞いたマルリネは、ようやく顔を上げると、涙を浮かべたまま、まっすぐな笑顔を咲かせた。




