ドラゴンスレイヤー
「……ルキウス」
背後から名を呼ばれ、ルキウスは足を止めて振り返った。角の生えた兜がその素顔を完全に覆っているため、東華には彼がどんな表情を浮かべているのかまったく分からない。それでも、立ち止まって自分の言葉を待ってくれていることだけは伝わってきた。
「ごめんなさい。自分の身体をきちんと管理できなかった。私たちは協力して任務を果たすためにここへ来たのに……私があなたの足を引っ張ってしまった」
しばらく沈黙が流れた後、低く落ち着いた声が返ってくる。
「俺も感情的になって怒鳴った。悪かった。……だが、本気で言ってる。東華、お前は少し休め。お前の体調が万全になるまでいくらでも待てる」
「ありがとう。でも、本当にもう大丈夫なの」
そう言って東華はそっと右手を差し出した。掌から淡い翠色の光が静かに灯り、若葉が芽吹くように柔らかな光の筋が枝葉のように広がっていく。優しい光は彼女自身を包み込み、失われていた力が少しずつ戻ってきていることを物語っていた。
「私の能力――両儀は、自分を含めた対象を様々な形で強化する力なの。さっき倒れたのは、単純にハタを使い切ってしまっただけ。眠って回復したから、もう問題なく能力を使えるわ」
「……強化?」
ルキウスはわずかに首を傾ける。
「治癒能力じゃなかったのか」
東華は一瞬だけ言葉を失い、やがて頷いた。
「……うん」
掌の光は静かに消え、彼女は手を下ろして俯く。
「だから私は……人よりもずっと努力しなきゃいけないの」
その一言には、ただ能力の違いだけではない、もっと深い後悔と執着が滲んでいた。
ルキウスは問いかけようとした。彼女が何を抱え、何をそこまで背負っているのか。だが東華はその視線から逃れるように一歩踏み出し、彼の言葉を遮る。
「行きましょう。一刻も早く終わらせないと……サラマンダーのみんなを助けられないもの」
その背中は、それでいて決して折れようとはしなかった。
赤黒いマントを翻し、彼もまた東華の後を静かに追って歩き出した。
源流に沿って、火山地帯へ足を踏み入れた途端、吹き荒れる烈風が東華の視界を容赦なく奪った。肌を焼くような熱気、煮え立つ溶岩、鼻を刺す硝煙の臭い――そのすべてが彼女の体力を少しずつ削っていく。
何も言わず、ルキウスが一歩前へ出た。巨躯の騎士が風を受け止める壁となり、それだけで東華への負担は大きく和らぐ。礼を言おうと口を開きかけた、その時。
火山の奥から、天地を震わせる咆哮が轟いた。
視線の先にあったのは、まるで溶岩が流れる岩山そのものだった。だが、それはゆっくりと身を起こす。赤く発光する溶岩は血管のように全身を巡り、黒く巨大な翼は空を覆い隠し、裂けた顎からは灼熱の吐息が噴き出す。血のように紅い双眸が、侵入者たちを射抜いていた。
――竜。
東華は息を呑む。しかし驚いたのは、その姿だけではなかった。周囲を漂うハタの流れが、明らかに異常だったのである。
「……これは……」
「ああ。周囲のハタの気配と微妙に噛み合っていない。間違いない、こいつが今回の標的――トランスグレッサーだ」
その時、巨竜が前脚を地へ叩きつけた。大地が揺れ、火山岩が砕け散る。
【どこの塵屑だ。わざわざ死にに来たのか】
低く響く声とともに、濃い硝煙が鼻先から噴き上がった。
「おい」
ルキウスはまるで旧知の相手に話しかけるように肩をすくめる。
「お前、この世界の住人じゃないだろう。こんな場所で何をしてる?」
竜はゆっくりと首を下ろし、その巨大な瞳をルキウスへ近づけた。
【随分と威勢がいい。オレがどこに居ようと、貴様ごときに指図される覚えはない】
東華は一歩前へ出て、大きく声を張る。
「お願いです、話を聞いてください。あなたのハタがこの地の河川を汚染し、下流に住む精霊たちは未知の疫病に侵されています。私たちの目的はただ、あなたを媒介に解毒薬を作り、この世界から立ち去っていただくことです」
竜は鼻で笑うように煙を吐き出した。
【まだ生き残りがいたとはな。くだらん。終わることのない戦争を繰り返す劣等種など、生きていても宇宙に益などない。オレがいなくとも、いずれ奴らは戦火の中で滅ぶ運命だ】
東華の瞳が鋭く細められる。
「……命に、優劣なんてありません」
その静かな声には、はっきりと怒りが滲んでいた。
「彼らの未来を決める権利は、あなたにはありません」
【口だけは立派な女だ……その物言い、あの憎いフレイドマルと同じだ……!】
大きく口が開き、喉の奥へ灼熱の炎が渦を巻いて集束していく。
【消え失せろ!!】
火山そのものが噴火したかのような溶岩の奔流が一直線に迫る。
東華は避けようとしなかった。その直前、漆黒の影が音もなく割り込み、天を焦がす炎の柱が、真っ二つに切り裂かれた。
炎の向こうに立っていたのは、大剣を肩に担ぐ赤き騎士。
竜は前脚を折り、獲物を狙う獣のように身を低くする。その視線は完全にルキウスへ向けられていた。
彼が構える大剣もまた真紅。刀身には生きているかのような鱗と牙の紋様が刻まれ、不吉な熱を放っている。
「どうやら、大人しく協力する気はないらしいな」
ルキウスはむしろ楽しそうに笑った。
「だったら好都合だ。口で話すより、こっちの方が性に合ってる!」
切り裂かれて飛び散った溶岩が、まるで意思を持つかのように大剣へ吸い寄せられていく。刀身はさらに赤熱し、周囲の空気すら歪ませるほどの高熱を放った。
竜も大口を開き、再び灼熱を凝縮する。
剣が唸る。
赤黒い溶岩を纏った螺旋の斬撃が放たれ、竜の灼熱の吐息と真正面から激突した。紅蓮と紅蓮がぶつかり合い、無名の火山頂は戦場と化す。空さえも、さらに深い血色へ染め上げられていく。
やがて均衡は崩れた。
ルキウスの一撃が押し切る。竜の頭部は大きく仰け反り、焼け爛れる苦痛に絶叫が響き渡る。しかし、体勢を立て直した次の瞬間には、焼け焦げた鱗も肉も驚異的な速度で再生し、まるで最初から傷など存在しなかったかのように元へ戻っていた。
【……虫けらめ!】
傷ひとつ残っていない巨竜を見上げ、ルキウスは兜の奥で眉をひそめた。
【貴様らが誰の差し金だろうと関係ない。オレはあらゆる苦難を乗り越え、すべてを手に入れた。今のオレは敵などいない。この地は貴様ら二人の墓場となる!】
再び真紅に燃え上がり、灼熱の業火が山頂一帯を呑み込むように噴き出した。
東華は即座に前へ踏み出し、両手を合わせる。淡い緑色の光が足元に広がり、円形の八卦陣が展開された。柔らかな光膜が炎の奔流を真正面から受け止め、火炎を押し返していく。しかし、竜の吐息は途切れることなく続き、東華は歯を食いしばりながら陣を維持し続けた。
「まさか……敵が竜種だったなんて……」
額に汗を浮かべながらも、東華は周囲へ広がるハタの流れを見つめる。
「これで分かったよ。竜種は獣や精霊たちの始祖のような存在……つまり精霊たちとは根源を同じくする存在だ。だから、この竜由来の毒に精霊たちはまったく免疫を持たなかった。そして竜種は、生まれながらに強大な根印と膨大なハタを持ち、世界の霊脈と直接つながっている……川だけじゃない。この竜の毒は、とっくに霊脈そのものへ浸透していた。その故に、あれほど多くの精霊が感染した……!」
「なるほどな。さすがだ、元凶を一目見ただけで、全部見抜いたか」
「でも、どうする、ルキウス!竜種は霊脈から直接にハタを取り込み続けられるって……そんな相手にどうやって――」
「ははっ、心配するな」
あまりにもあっさりと笑うその声に、東華は思わず言葉を失う。
「これでようやく、俺がここへ派遣された理由も分かった。東華、少しだけ俺を信じてくれないか?倒れたばかりなんだ。ここは一旦、俺に任せてくれ」
「……あなたを信じたい、だけど――」
返事を待つことなく、ルキウスは前へ飛び出した。
轟々と吹き荒れる炎の中へ一直線に踏み込み、大剣、バルムンクを振り抜く。刹那、竜の吐息は真っ二つに裂かれ、そのまま逆流するように巨竜へ押し返された。押し返された業火に竜自身が怯み、猛攻がぴたりと止まる。同時に東華も結界を解除することができた。
――強い。
東華は思わず息を呑む。
ルキウス・クィントゥス。竜の咆哮を、たった一振りの剣で真正面から押し返す男など見たことがなかった。
「……分かった。気を付けて、ルキウス」
「おお」
短く答えると、ルキウスは風を纏ったバルムンクを足場にして一気に跳躍した。
【愚かな足掻きを……!】
巨竜の尾が山を薙ぎ払う勢いで振り抜かれる。人間など塵にも等しい体格差。それでもルキウスは一切ひるまない。
「暴虐」
赤き魔剣から暴風が迸り、幾重もの風刃が悲鳴のような音を響かせながら竜尾へ食らいつく。
「ドラゴンハウリングッ!!」
巨竜の尾が根元から断ち切られ、それだけでは終わらない。暴風はなおも牙を剥き、片翼すら噛み千切るように引き裂いていく。絶叫を上げた巨竜は均衡を失い、その巨体を山肌へ叩きつけた。
ルキウスはその勢いのまま竜の眼前へ降り立ち、巨大な眼球を踏みつけると、バルムンクの切っ先を瞳孔へ突きつける。
【貴様ァァァッ……虫けら如きがッ!!】
「俺が虫なら、お前はただのトカゲ以下だぞ」
直後、失われた尾と翼が骨を生み、肉をまとい、鱗を再生させながら瞬く間に元通りになる。巨竜は頭を激しく振り、ルキウスを空中へ弾き飛ばした。
しかし当の本人は空中で体勢を立て直し、豪快に笑っている。
「再生は確かに速いな。なら、逃げられないよう、翼を何度でも斬り落としてやる。先に音を上げるのがどっちか、勝負だ!」
【竜と消耗戦を挑むつもりか、人類!!】
赤き鎧の騎士は竜の牙を紙一重でかわし、着地した瞬間には尾撃を見切って再び跳躍する。その動きはまるで未来を知っているかのように淀みがない。圧倒的な体格差があるにもかかわらず、戦場を支配しているのはむしろルキウスの方だった。
東華は思わず見惚れてしまう。
竜と互角に戦う強者ならこれまでにも見てきた。だが、初めて出会った時から感じていた違和感――この男だけは、どこか決定的に違う。
バルムンクが再び振るわれ、鋭い一撃が竜角を断ち切る。全身を斬り裂かれようと傷は一瞬で塞がり、落下した翼の残骸からは白骨が伸び、新たな翼が血色の空へ堂々と広がっていく。
それでもルキウスは攻撃の手を緩めない。竜の巨体を疾風のように駆け巡り、隙を見つけるたび迷いなく剣を振るう。風、炎、そして溶岩が魔剣へと集束し、その咆哮は竜の雄叫びにも劣らぬ轟音となって天地を震わせた。
互角――いや、押している。
ただ存在するだけで精霊たちを滅ぼしかねない災厄の竜が、たった一人の男によって封じ込められている。
その時、東華は足元の霊脈に異変を感じ取った。
地中を流れる膨大なハタが、信じられない速度で減少している。
【許さん……許さんぞ!!あいつの陰謀にも裏切りにも耐えてきたというのに……ようやく見つけた安息の地まで奪おうというのか!!】
再生は続いている。それでも、竜の動きは目に見えて鈍くなっていた。傷は塞がる。だが、反応速度も、力も、確実に衰え始めている。
【貴様……何者だ!なぜ人類ごときが、オレと互角に渡り合える!!】
「竜ってやつは、どいつもこいつも思い上がってるな」
ルキウスは肩に剣を担ぎ、不敵に笑う。
「生まれつき強い身体を与えられ、人を見下ろす。それが宇宙にとって幸運だったのか、それとも失敗だったのか……俺には分からん」
【話を逸らすな!我が力として取り込めるはずの霊脈のハタが、妙な勢いで減っている!貴様が何かしたのだろう!!】
バルムンクが天へ掲げられる。
鮮血のような紅いハタが天を焦がし、騎士の全身から噴き上がる膨大な力は巨大な竜の幻影となって彼を包み込んだ。
本来なら竜の前では蟻ほども小さいはずの人が、その瞬間だけはもう一頭の竜として天を睥睨していた。
「勘違いするなよ」
ルキウスは堂々と剣を構える。
「俺はずっと、自分の力だけでお前と戦っている。答えを知りたければ――まずはこの一撃を受け切ってみろ!」
その姿を見て、東華はかつて昊天のもとで学んだ知識を思い出す。
宇宙を巡る血筋――ソルス。その膨大なエネルギーはまず各世界を維持するため霊脈へ蓄えられ、通常の根印持つ者は、そこから溢れ出たハタ粒子だけを利用して能力を発動する。
だが竜種だけは違う。宇宙誕生の時から、生まれながら霊脈そのものへ接続された超越種。だからこそ歴史上、多くの竜が世界を滅ぼす災厄となった。
まるで宇宙が、その天敵を用意するためのように、人でありながら竜と同じく霊脈へ接続する加護を授かった者。
どれほど巨大な怪物を前にしても、決して退かず、戦場を駆ける者。
「――テンペスタスッ!!」
放たれた一閃は天地を裂く紅き奔流となり、巨竜の肉体を真正面から呑み込んだ。
東華はルキウスの姿を見つめながら、その真名を口にする。
「……ドラゴンスレイヤー」




