天外からやって来る者
「……これは、一体……」
少女に案内されて辿り着いたのは、村の中で一番大きな木造の家屋だった。入口の布をくぐった瞬間、東華もルキウスも言葉を失う。室内には老若男女を問わず数十人もの精霊たちが横たわり、誰もが苦しげな呼吸を繰り返していた。露出した肌には黒紫色の鬱血が全身へと広がり、高熱にうなされる者、意識を失ったまま微動だにしない者も少なくない。薬草の匂いと血の臭い、それに病特有の重苦しい空気が部屋いっぱいに満ちており、その凄惨な光景は見る者の胸を締めつけた。
二人がしばらく沈黙したまま立ち尽くしていると、少女は申し訳なさそうに視線を伏せ、静かに外へ案内する。
「改めまして……私はマルリネ。この村で暮らすサラマンダーです。あなたたちは……一体何者なんですか?どう見ても精霊には見えませんが」
ルキウスは腕を組み、できるだけ簡潔に答えた。
「信じてもらうのは難しいだろうが、俺たちはこの世界の住人じゃない。だが敵じゃないし、助けに来た。さっきも見たはず」
「……はぁ……」
こんな話に、マルリネは戸惑いを隠せない。それ以上追及することなく、東華が穏やかに話題を変えた。
「先ほどあの男の子が口にしていたシルフィやノームとは、どういう意味なのでしょう?」
「ああ、それは種族の名前です。この世界には四つの精霊族がいます。風と森の精霊シルフィ、大地と砂の精霊ノーム、水と氷の精霊ウンディーネ、そして炎と光の精霊サラマンダー――私たちのことです」
「なるほど。種族戦争というのは、その四種族同士で争っているということか」
ルキウスが呟くと、マルリネの表情は一気に曇った。
「……私たちの村も、ご覧のとおりです。少し前、シルフィに襲われました。本来の主戦場はここではなかったのですが、戦火に巻き込まれてしまって……」
東華は小さく息を吐く。ブリットンスの王も昊天も、この世界を難しいと評した理由が、ようやく理解できた。世界は四つの種族に分断され、協力したいところでもどの種族を話し合う相手にするすら定まらない。仮にドミネイターの脅威を伝えたところで、一気に長年憎み合ってきた彼らが手を取り合う姿など、とても想像できない。
「マルリネさん。この病について、何かわかっていることはありますか?」
「私たちは……村の近くを流れる川の水が原因じゃないかと思っています。でも、感染の仕組みはわからないんです。最初に川の水を飲んだ人はほんの数人だったはずなのに、気づけばこんなに広がってしまって……」
「同じサラマンダーの仲間は助けに来なかったのか?」
ルキウスの問いに、彼女は静かに首を横へ振った。
「シルフィとウンディーネの挟撃で私たちは敗れ、一族は各地へ散り散りになりました。他の集落も自分たちのことで精一杯なんです……」
未知の病、未知の感染源、未知の治療法。これ以上ないほど絶望的な状況だった。
東華は再び病人たちへ目を向ける。その苦しげな寝顔を見つめながら、口を開いた。
「ルキウス。私はさっき彼の命をつなぎ止めただけで、根本的に治すには、まず川の水に何が混じっているのかを調べなければ。お願いしてもいいか?」
「おお。医術に関しては俺はさっぱりだからな。じゃあ病人はお前に任せる、人手がいるなら何時でも俺を呼べ」
「うん。ではマルリネさん、私たちに任せていただけませんか。必ず、この病の正体を突き止めます」
一瞬呆然としていた少女の表情が、みるみる明るくなる。
「本当に……手伝ってくださるんですか?」
「ええ」
「ありがとうございます……!本当にありがとうございます!」
何度も頭を下げるマルリネを前に、東華は穏やかに微笑んだ。しかしその瞬間、ふと脳裏をよぎったのは、ある人物の姿だった。自分より遥かに優れた医術を持ち、多くの命を救ってきた、あの人――
東華は両手でそっと頬を叩くと、迷うことなく病人たちのもとへ歩いていった。
その背中を見送ったルキウスは、ふとマルリネを呼び止める。
「一つ聞きたい。この病が流行り始めたのは、いつ頃だ?」
「一か月ほど前です」
「そうか……」
兜の奥で低く呟くと、彼は静かに踵を返した。
「悪いが、その川まで案内してくれ。原因をこの目で確かめたい」
「もちろんです。この先です」
マルリネは頷き、川へ向かって歩き出す。東華は村に残って患者たちを診察し、ルキウスは病の根源を探るため現場へ向かう。二人は自然に役割を分け、それぞれの使命を果たすべく歩き出した。
調査と診療の日々は、そのまま五日間続いた。
その五日間、ルキウスは抜けがないよう丁寧に川を調べ続けていた。幾筋にも枝分かれした河川を一つずつ遡り、戦乱で変わり果てた地形を踏破しながら、汚染源を突き止めようと奔走していたのである。
一方の東華は、一瞬たりとも休むことなく病人たちに付き添っていた。
感染経路が判明していない以上、誰かを不用意に病室へ入れるわけにはいかない。結局、三十人近い患者の世話は、すべて彼女一人が担うことになった。
食事を口へ運び、身体を清め、熱を測り、眠れぬ者には付き添い、苦しむ者には手を握る。そして何より、自らのハタを絶え間なく注ぎ込み、病の進行を少しでも食い止め続けていた。
「ハクタク、手伝っ――」
そこまで口にしたところで、東華はふと動きを止めた。
……いない。
いつもなら隣に立ち、何も言わずとも必要な道具を渡してくれる少女の姿は、ここにはない。
「……お嬢さん、大丈夫か?」
寝台に横たわる老婦人が、心配そうに彼女を見上げる。
東華はすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろんです。具合いかがですか?」
「おかげさまで、ずいぶん楽になった。本当にありがとう……。でも、あなたの顔色のほうが心配よ」
そう言って老婦人は、そっと東華の手を包み込んだ。
――失態だ。
医師たる者が、患者に心配をかけてどうする。
東華は胸の奥で自らを戒め、小さく微笑み返した。
「私は大丈夫です。どうか安心してください。必ず皆さんを治してみせますから」
そう言って立ち上がろうとした、その瞬間、ぐらり、と視界が揺れる。
床が大きく傾いたような感覚に襲われ、足元がおぼつかなくなる。
「東華さん!」
ちょうどその時、外からマルリネの声が飛び込んできた。
「ルキウスさんが戻ってきましたよ!」
「……ええ……今、行きます……」
返事をしたものの、目の前にあるはずの扉が、どれだけ歩いても近づいてこない。
次の瞬間、視界は闇に染まり、東華の身体はその場へ静かに崩れ落ちた。
「――っ!」
東華は息を呑みながら飛び起きた。
全身は汗で濡れ、胸は激しく上下している。しばらく荒い呼吸を繰り返したあと、ゆっくりと周囲を見回した。いつの間に運ばれたのか、小さな木造の家屋の寝台に寝かされている。
そして、その傍らには一人の男が立っていた。暗赤色の重甲冑を纏った巨躯の騎士――ルキウス。
頭が完全に兜に覆われ、顔は勿論、表情を窺うことは一切できない。それでも、彼の全身から立ち上る空気だけで、今どれほど怒っているのかは痛いほど伝わってきた。
「……お前」
低く押し殺した声が部屋に響く。
「どうしてあそこまで無茶をした。忙しかったなら、マルリネに手伝わせても、俺を呼んでもよかっただろうが。知らせさえあれば、すぐ駆けつけた」
どうやら事情はすべて知られてしまったらしい。
「……感染経路が分からない以上、誰かを危険にさらすわけにはいけない。私一人なら、自分だけは守れるから」
「守る?じゃあ自分を守ったとも言えるのか、今その状況で?」
ルキウスの声が一段低くなる。
「この村で奴らを救えるのはお前しかいない。そのお前が倒れたら、誰が患者を救う?」
「……救われたのは彼らで十分だ」
バキィッ!
凄まじい音が部屋に響き、寝台脇の木製の棚がルキウスの拳で粉々に砕け散り、木片が床へ転がる。
東華は思わず目を見開いた。
――どうして、そこまで怒るの。
「ポラリスが推薦した人物だから、どれほどのものかと思っていた。自分一人救えない奴が、人を救うなどと言うな」
その言葉に、東華の胸にも熱いものが込み上げた。
「……あなたに、何が分かるんだ。私には、私のやり方があるわ」
「お前……!」
「ルキウスさん!東華さん!」
部屋へ飛び込んできたマルリネが、険悪な空気に思わず立ち止まる。
東華が目を覚ましたことに安堵する一方で、二人の張り詰めた雰囲気に戸惑い、どちらへ声を掛けるべきか分からず視線を泳がせた。
「えっと……その、お二人とも、何が……?」
「何でもない」
ルキウスは短く言って話を切り上げる。
「マルリネ。この五日間、川の上流を徹底的に調べた。支流が多いうえ戦争で地形まで変わっていて骨が折れたが、どうにか源流を突き止めた。これからそこへ向かう」
「なら私も行く」
まだ足元はふらついていたが、東華は迷わず寝台から立ち上がった。
「馬鹿を言うな。源流の調査なら俺一人で十分だ。お前は休め」
「あなたは疫病の知識がない。私が行かなければ、原因を見極められないでしょう」
「だったら、どうして倒れるまで無理をした!」
「今はもう平気よ!」
「お二人とも!」
マルリネが思い切り声を張り上げる。その一喝で、二人はようやく口を閉ざした。気まずそうに互いから視線を逸らし、部屋には重たい沈黙が流れる。
「本当は……いい知らせを持ってきたんです。さっき、この村にとある方がいらっしゃって……病人のお世話なら、自分が手伝えると言ってくださったんです」
「……何?」
東華は一人ひとりの容態を診察し終えると、全員の症状がこの数日よりも明らかに落ち着いていることを確認して、ようやく病室を後にした。
外へ出ると、夕暮れとも昼ともつかない赤い空の下、一本だけ立つ枯れ木のそばにルキウスが腕を組んで待っていた。
その隣には、見覚えのない、細い男が立っている。
灰色の短髪に、風を受けて揺れる白い軽装。どこか旅装にも見える質素な服装とは裏腹に、その金色の瞳だけが妙に印象的だった。
男は東華の姿を見つけると、穏やかな笑みを浮かべる。
「……アナタが、あの少女の言っていたお医者様ですね」
ゆっくり歩み寄ってきた男を見て、東華は自然と警戒心を強めた。
「……どなたでしょうか」
「申し遅れました。ワタシは――ぶっ!」
東華とルキウスは揃って足元へ視線を落とした。
平坦な地面には石一つ転がっていない。それにもかかわらず、目の前の灰髪の男は見事に何もない場所で転び、顔面から地面へ突っ込んでいた。
「……」
二人とも何と言えばいいのか分からず、その場で固まってしまう。
男は額を押さえながら立ち上がり、赤く腫れた額を苦笑交じりにさすった。
「お恥ずかしいところをお見せしましたね」
「……あなた、大丈夫ですか?」
「ええ」
何事もなかったように衣服の土を払い、改めて一礼する。
「ワタシは、タウィルと申します。ただの通りすがりの者です。この村の様子があまりにも深刻でしたので、勝手ながら患者さんたちのお手伝いをさせていただきました。幸い、ワタシは少し医術を知っていますので」
東華はじっと彼を見つめたまま口を開く。
「……少し医術を知っている程度で、あそこまでできるとは思えません。この数日間診察を続けて分かったことですが、この病は毒素が患者の身体と異常なほど高い親和性を持っています。身体そのものが毒を毒と認識できず、免疫反応すら起こせない状態なんです。私はハタで侵食を抑え続けるのが精一杯でした。それなのに、あなたが診た直後から患者たちの症状は明らかに安定していました。一体、何をしたのですか」
タウィルは少しだけ驚いたように目を丸くし、それから穏やかに笑った。
「……さすがですね。そこまで見抜かれてしまいますか。ですが、私は医者ではありません。やったことも、力任せに病の進行を押さえ込んだだけです。本当に彼らを救うには、やはり病に効く薬、抗体のある解毒剤が必要でしょう」
「さっきの質問、答えてくれなかったが」
ルキウスが一歩前へ出る。
「お前は何者だ。精霊か、人か」
タウィルは少し困ったように頬をかいた。
――見えない。
東華は無意識に息を呑む。
根印も、ハタの流れも。
経験を積んだ根印持つ者なら、相手の周囲に集まるハタ粒子を見るだけでも、おおよその素性は推し量れる。
しかし目の前の男だけは違った。何一つ判別できない。まるで濃い霧の向こう側を覗き込んでいるように、すべてが曖昧だった。
やがてタウィルは息をつく。
「隠し続けても、余計な誤解を招くだけでしょうね。アナタ方と同じ、ワタシはこの世界の住人ではありません。どうしても果たさなければならないことがあって、この宇宙へ来ました」
その言葉のあと、しばし沈黙が流れる。
柔和な笑みは変わらない。それなのに、彼の周囲には言葉では表せないほどの圧迫感が静かに漂っていた。
「安心してください、ワタシは敵ではありません――ルキウスさん」
ルキウスの眉がわずかに動く。彼は一度も、この男に自分の名を名乗っていない。
「アナタの敵でも、ブリットンスの敵でも、この宇宙の敵でもありません」
――この男は、尋常ではない。
ルキウスは警戒を解かなかった。いつでも剣を抜けるよう、無意識に重心を整えている。
「……なら、何のためにここへ来た」
タウィルは、血のように赤い空を静かに見上げた。
「見届けるため……でしょうか」
その金色の瞳は、まるで空の向こうを見つめているようだった。
「この宇宙というものが、不変で無限に続く現実なのか。それとも、ただ繰り返される泡沫の夢に過ぎないのか。それをしばらく観測したうえで、自分なりの答えを出したいと思っています。……ですが、世界がどのような姿であれ、命に罪はありませんので」
その言葉を聞き、ルキウスはゆっくりと肩の力を抜いた。この人に対する警戒が完全に消えたわけではない、先ほどまで張り詰めていた空気はわずかに和らいでいた。
東華は一歩前へ進み、静かに頭を下げる。
「……事情はまだ分かりませんが、あなたがこの村を助けてくださったことは事実です。本当にありがとうございました」
タウィルは穏やかに微笑み返した。
「お気になさらず。それより、お二人にはまだやるべきことがあるのでしょう。どうか行ってください」
恐ろしいほど底知れず、それでいて不思議なほど穏やかな人物。
この突然現れた男は、一体どこまで世界の真実を知っているのか。そして、本当は何者なのか。
その答えが明かされるのは、まだずっと先のことだった。




