東華仙姫
とある木造の家屋の中。柔らかな陽光が、静かに室内へと差し込んでいた。
部屋には三人の姿があった。
唯一椅子に腰掛けているのは、長く艶やかな白銀の髪と翡翠色の瞳を持つ女性。左目の下には黒い紋様が刻まれ、髪には赤い飾り紐を結んでいる。淡い青緑を基調とした優雅な衣装をまとい、花を思わせる意匠や幾重にも重なる長い袖が神秘的な雰囲気を演出している。豊かな胸元と引き締まった腰、しなやかな曲線を描く肢体が衣の上からでも際立ち、落ち着きと色香を自然に漂わせている。穏やかな表情の奥には、どこか儚さと深い憂いを秘めた、気品あふれる女性であった。
その傍らに立つのは、黒紫色のショートヘアと紫色の瞳を持つ小柄な少女。頭には黒い角が生え、耳も人ならざる形をしており、眼鏡が知的な印象を与えている。白と紫を基調とした巫女風の装束に身を包み、金色の帯飾りが上品なアクセントとなっていた。落ち着いた雰囲気の中にも、冷静で理知的な性格が感じられる。
そして二人の前に立っているのは、深い蒼色の長髪と鋭い青い瞳を持つ男。頭には角が生え、背後には長い尾を携え、濃紺と青紫を基調とした長衣をまとっている――敖コウである。
三人はそれまで何を話していたのか、室内には重苦しい空気が漂っていた。
「……ご迷惑をおかけしました、東華様」
東華と呼ばれた白髪の女性は、首を横に振る。
「いいえ。むしろ、謝らなければならないのは私のほうです。まさか昊天陛下が……本当にナタへあのような仕打ちをするなんて。昔のあの人は、決してそんな人ではありませんでした……。私がこうして責任から逃げ続けていなければ、あるいは、あるいは……」
「東華様に非はございません。どうかご自身を責めないでください」
東華はしばらく俯いたまま、やがて静かに問いかけた。
「……それで、ナタが連れてきたトランスグレッサーたちは?」
「まだ行方は掴めておりません。その件についても、東華様に引き続き捜索をお願いしたいのです。外では、あの顕聖真君の目から逃れるのはほとんど不可能でしょう。もし彼らがまだ第四空間にいるのなら、軒轅国のどこかに身を潜めているとしか考えられません。彼らが力を貸してくれれば心強いですが……そこまでは望みません」
「敖コウ殿……本当に、その道を選ぶつもりですか?今の状況では、勝ち目などほとんど見えませんよ」
敖コウは穏やかな表情のまま頷いた。
「ご安心ください。東華様もお分かりのはずです。この役目は、誰かが果たさなければなりません」
その言葉に、東華は何も返せなくなった。彼女がゆっくりと立ち上がると、敖コウへ向かって深く一礼する。
「……分かりました。どうか、ご武運を」
「……ありがとうございます」
敖コウもまた深く礼を返すと、そのまま静かに木戸を開け、家を後にした。
扉が閉まる音が響くと、東華はため息をつく。
すると、傍らの少女が一歩前へ進み出た。
「東華様、この先はどうなさるおつもりですか?」
「……私にも分からないわ、ハクタク。昔も今も、私は決断というものが苦手で……。本当に、弱い人だ」
「そんなことありません!東華様はいつだって、ご自分にできる限りのことをなさってきました。ただ、状況がいつも東華様を板挟みにしてしまうだけです。……それより、今は敖コウ殿のお話はいったん忘れましょう。今日は鳳凰の領地へ薬草を採りに行く日ですし、間もなくブリットンスの円卓会議も始まります」
「そうね……私も、協定騎士の化錬使いとして、役目は果たさなければ。ハクタク、ブリットンスへ納める薬草の在庫を確認して、不足しているものをまとめてもらえる?」
「かしこまりました」
先ほどの凄まじいハタの激突に驚き、森中の小鳥たちは一度は散り散りに飛び去っていた。しかし今では少しずつ戻ってきて、木々の枝先にとまり、楽しげにさえずっている。近づく勇気はないものの、今日この地へ現れた見知らぬ者たちのことが気になって仕方ないのだろう。
その小鳥たちの視線の先では、ハルカが地面にあぐらをかいて座り、その隣にはヒヨリが腰を下ろし、アルテミスはハルカの横で行儀よく正座していた。
タマモは何とも言えない複雑な表情を浮かべ、感慨なのか、それとも悩んでいるのか、自分でも整理がつかないようにため息をつく。
「まさか、おぬしがあの魔剣使いルキウスの……本当に、運命いうもんは皮肉なもんや……」
「ハルカ」
名前を呼ばれ、ハルカは顔を上げてヒヨリを見る。
「どうして今まで、一度も家族のことを話してくれなかったんだ?」
ハルカは頬をかきながら苦笑した。
「いや、私もルキウスが昔ブリットンスの人だったことも、今日初めて知ったんだよ。あの人、自分の昔話なんて一度もしてくれなかったし。まあこれはさておき……今まで言わなかったのは、あんたとフクロにはなくて私だけが持ってるものをわざわざ話したら、自慢してるみたいで嫌だったから。そんなの、あんたたち二人の気持ちを全然考えてないじゃん」
ヒヨリは思いもよらない理由に目を丸くし、思わず吹き出した。
「……なんだ!そんなことだったのか。ははっ。ハルカって本当に何も悩まない人だと思ってたけど、意外とそういうところ気にするんだな!」
「はぁ!?私だってちゃんと人の気持ち考えてるんだけど!?何それ!」
ヒヨリは笑いながらハルカの肩に手を置く。
「ありがとう、ハルカ。でもさ、やっぱりもっと聞かせてほしい。ハルカの家族のことも、ハルカ自身のことも。俺は知りたい。仲間だろ?」
ハルカは一度瞬きをし、やがて穏やかに微笑んだ。
「……うん」
「――いい雰囲気のところ悪いが」
鳳凰が歩み寄り、二人の会話に割って入る。
「次に何をするか、そろそろ決めなければならん」
ハルカは立ち上がり、真っ直ぐ鳳凰を見る。
「そうだね。まずは、ルキウスについてもっと詳しく知りたい。あいつはこの世界で、一体何をしたの?」
タマモは静かに息を吐いた。
「……あやつのことを知りたければ、昊天本人に聞くか、あるいは当時ルキウスと深う関わっておった天宮の協定騎士を訪ねるしかあらへん」
「その協定騎士って?」
「化錬使い、東華仙姫――倪クンメイや。せやけど、知ったところでどうにもならへん。天宮へ入れへん以上、会う術もあらへんやろ」
「いや」
鳳凰がその言葉を遮った。
「東華なら、今は軒轅国にいるぞ。薬草を採りに、時々この辺へ来る」
「はぁ?なんで東華が軒轅国におるんかえ?人類やろ?」
鳳凰は呆れたように鼻で笑う。
「ほら見ろ。肝心な時になると、役に立たん。時期を考えれば、ちょうど今日あたり来るはずだ、直接聞いた方が速い。ただ、一応あいつは今でもブリットンス側の人だ。トランスグレッサーのオマエたちが、会うのは避けたほうがいいかもしれんがな……」
「ううん」
ハルカは迷いなく首を振った。
「ルキウスのことなら、私が直接聞く。身内のことを人任せにするなんて私は嫌よ」
その眼差しには、一片の迷いもなかった。
「ついでに、俺もだ」
突然口を開いたキュウキに、一同の視線が集まる。
「東華のそばにいるハクタクとは、ちょっとした因縁があってな。俺がハクタクを引きつける。その間に、おまえたちは好きに動けばいい」
鳳凰はなおも決めかねている様子だった。危険が大きすぎる。だがその時にヒヨリはそんな彼の前へ歩み寄る。
「鳳凰。ハルカを信じてほしい。それから、俺たちも信じてほしい。お願いだ」
バラ色の瞳がヒヨリを見つめ、ゆっくりと閉じられる。
「……エン」
「え?」
ヒヨリは首を傾げた。
「オレの名だ。神祇契約に必要なのは真名。互いの真名を交わし、血を契りとし、誓いを立てる。力を貸すと言った以上、その言葉を違えるつもりはない」
「――本当か!」
ヒヨリは満面の笑みを浮かべると、勢いよく鳳凰の両手を握った。
「ありがとう!本当に助かるよ!」
「……まったく、喜びすぎだ。言っておくが、オレも報酬はもらうぞ。相応のハタを供給してもらわねば困る」
二人が握手を交わしたその瞬間、場の空気を切り裂くような殺気が走る。タマモが、鳳凰を睨みつけていた。その視線だけで刺し殺さんばかりである。
「……その手を、離し。この発情駄鳥がぁ!」
「はぁ?いい歳の女狐に命令される筋合いはないな」
「おぬし……ほんまに一遍ぶちのめされたいようやな!」
「やれるものならやってみろ!」
――獣たちがそこら中に闊歩する軒轅国。そこは、そうした生き物たちが集う地であった。おそらくそれらの獣の影響なのだろう。この地にはハタ粒子が非常に濃密に満ちており、その力は次第に植物にも及び、あらゆる霊薬の素材が育つようになっていた。辺りに生える草を無造作に摘むだけでも、人の身体を大いに滋養する薬草ばかりである。
人である東華仙姫は、人であれ獣であれ、助けを求める者は等しく救うという信条のもと、この軒轅国でも一つの居場所を築いていた。
ハクタクは竹で編まれた薬籠を手に、東華の後ろを歩いていた。しかし、不意にその足を止める。
前を歩いていた東華も同時に立ち止まったが、振り返ることはなかった。
「……妙な気配がするわね、ハクタク」
「はい。ですが、なぜこんな場所に……。あの凶獣が、どうして鳳凰の縄張りへ近づいてくるのでしょう」
「調べに行く?罠の可能性も高いけれど」
「……申し訳ありません、東華様。見過ごすことはできません」
東華は振り返ってハクタクから薬籠を受け取った。
「大丈夫。行ってらっしゃい。気をつけて」
ハクタクは深く頭を下げると、そのまま素早く鬱蒼とした森の奥へと消えていった。
東華は一人、再び歩き始める。目的地は鳳凰の領域の中ではあるものの、実際にはその外縁に近い場所だった。
巨大な岩山の脇には小川が流れ、岩肌にも、小川のほとりにも、周囲の古木にも、それぞれ異なる植物が同時に育つ、不思議な土地である。
彼女は薬籠を下ろし、岩の裂け目から顔を出した一本の緑の草へと手を伸ばした。
「順調に育っているみたいね……ずっと岩の隙間にいたから日当たりが心配だったけれど、自分の力で外まで伸びてきたのね――」
細い指先で、その植物に咲いた白い小花へそっと触れる。
「――でも、外へ出てくることが、必ずしも良いこととは限らないわ……そうでしょう、トランスグレッサー」
ツインテールの少女は、いつの間にか東華の背後へ立っていた。
風が淡い橙色の髪を揺らし、木陰から姿を現す。紺紫の瞳が、静かに東華を見据えた。
「――ッ!」
ハルカは相手の動きをまったく視認できなかった。気づいた時には腹部へ重い掌打を受け、景色が一気に流れ去る。そのまま身体は空高く吹き飛ばされた。
さらに東華は跳躍し、空中で身体を回転させながら、追撃の一撃でハルカを地面へ叩き落とそうとする。
「ちっ――煌めく勝利の剣!」
黄金の閃光がほとばしり、ハルカの手に黄金の長剣が現れる。
東華はその剣身を力強く叩きつけた。多少は衝撃を殺せたものの、ハルカはなお勢いよく地面へ叩きつけられ、大地には巨大な穴が穿たれた。
軽やかに着地し、彼女は土煙の中から立ち上がるハルカを静かに見つめる。
「……タマモ、化錬使いは戦士じゃないって、騙したんじゃないの?」
彼女は不満げに呟く。
【今はそんなことを気にしてる場合じゃない、ハルカ!】
剣からアルテミスの声が響く。
【気をつけろ!ブリットンスの王が見込んだ協定騎士は誰一人として甘い相手じゃない!鳳凰があなたの身体を一応回復させたとはいえ、負荷はまだまだ相当残っているわ!】
東華は袖をひるがえし、ゆっくりとハルカへ歩み寄る。
「……根印無き者が、残刻器を使っている?わざわざ私の前へ姿を現した目的は何?私を捕らえて、陛下を脅し、貫通トンネルを開かせるつもりかしら」
「それは考えてなかったな」
ハルカは剣の柄を両手で握り締める。
「いきなり殴りかかってくるとは思わなかったけど、おかげで話が早い。口で問い詰めるより、こっちのほうが性に合ってる!」
「問い詰める……?トランスグレッサーが、ブリットンスの協定騎士を?……ナタが守ろうとした相手というのは、こんな無茶な人だったのね」
「……ナタを知ってるのか」
「ええ。彼が認めた相手を否定したくはない。でも、もしあなたの力がその程度なら――私が直々に、あなたたちを元の世界へ送り返す。もう、誰にも犠牲になってほしくないの」
少女は深く息を吸い、剣を構え直す。
「聞いただろう、アルテミス。悪いけど、もう一度付き合ってくれよ」
黄金に輝くハタ粒子が剣身へ絡みつき、やがて巨大な螺旋となって噴き上がる。
――その姿が、東華の記憶の中にいる一人の人物とゆっくり重なっていく。
「栄光――」
次に剣身から眩い黄金の奔流が解き放たれ、螺旋を描く光は天の果てまで突き抜ける。
「ドラゴンブレス!」
姿だけではない。
構えも、表情も、眼差しも――そのすべてが、あの人と瓜二つだった。
緑色の瞳に映るのは、少女が剣を振り下ろす姿。
黄金の巨大な光柱はあらゆる障害を薙ぎ払いながら東華の目前まで迫る。その直前で不意に軌道を変え、天高く駆け上がった。厚い雲を貫き、蒼穹そのものを撃ち抜く。
わざと標的を外した斬撃は二人の間には深い裂溝だけが残された。
ハルカは荒い息を吐きながら剣を地面へ突き立て、呆然と立ち尽くす東華を見つめる。
「……どうして」
東華の声はかすかに震えていた。
「どうして、あの人の技を……まさか、あなたは……」
彼女はもはや少しも冷静ではなかった。ハルカも、まさかこんな反応が返ってくるとは思っていなかった。
「……彼は……今、どうしているの?」
あまりにもか細いその声は、胸が痛むほど弱々しかった。
「……ルキウスなら、元気にしてるよ」
「本当?」
「うん」
その一言を聞いた瞬間、東華の全身から力が抜け落ちる。両手で顔を覆い、静かに肩を震わせた。
ハルカは手にしていた剣を粒子へと還し、ゆっくり東華へ歩み寄る。
目の前の東華が何者なのかは分からない。だが、彼女が大切な人を想っていることだけは、ハルカに伝わってきた。
「……ねえ。ルキウスが、この世界で何をしていたのか、教えてくれない?どうしても知りたいんだ、お願い」




