昔日の約束
ハルカ……ハルカ!
「……っ?」
ようやく目を覚ましたんだね……信じられない。こんなに幼い君が、あんな危険な目に遭う必要なんてないのに……!
「……助けてくれて、ありがとうね。でも、キャンサー、私は……」
アルテミスは深く息を吸い込み、ハルカの左手を両手で強く握りしめた。
「……大丈夫か、アルテミス?」
ヒヨリが心配して彼女に問いかける。
「大丈夫……きっと大丈夫……」
紫髪の少女は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「私はずっとハルカと一緒に戦ってきた。だから、きっとできるわ。今回だって、きっと……」
「アルテミス、そんなふうに考え込まなくていい。少し俺の話を聞いてほしい」
彼女ははっとして、金髪の少年の青い瞳を見つめた。
「ハルカが今までお前に言ってくれたことや、してくれたことで、自分は信じてもらえているって思えたことは、何だ?」
アルテミスは目を閉じたまま眠るハルカを見つめ、無意識のうちにその手をさらに強く握る。
「なに言ってんの?あんた最強の残刻器でしょ?できないはずないじゃん」
少女はゆっくりと目を閉じ、そして決意したように開く。
「……始めよう」
鳳凰が先にアルテミスの肩へ手を置くと、深紅のハタが噴き上がり、その力は少しずつ彼女の身体へと流れ込んでいった。
まず鳳凰とアルテミスが万全の態勢を整え、その後、ヒヨリがハルカを包む障壁を打ち砕く。そして障壁が砕けるその一瞬に、アルテミスが鳳凰のハタをハルカへ送り込む――それが計画だった。
ハルカには根印が存在しない。だからこそ、その役割をアルテミスが代わりに担わなければならない。
とはいえ、彼女が果たせるのはあくまで代役にすぎない。本来、根印とは人体の器官であり、一瞬で全身へハタを巡らせることができる。
アルテミスには、障壁が破壊される刹那を見極め、その瞬間に適切な量のハタをハルカへ送り込むことが求められる。たとえ残刻器である彼女でも、それはあまりにも酷な要求だった。
少し離れた場所では、タマモとキュウキも見守っている。
「……行くぞ、アルテミス」
そう告げると、ヒヨリは右拳を構えた。眩い黄金色の裂炎が瞬く間に拳へと巻きつく。
――ドンッ!
その拳は真っ直ぐハルカへ叩き込まれた。
しかし届かない。ハルカの身体は、数ミリほどの厚さしかない見えない障壁によって守られていた。
ヒヨリはさらに力を込める。裂炎の炎がハルカの全身を包み込む。それでも当然、その炎は彼女自身には触れられない。
長い時間が過ぎても、ヒヨリの炎は勢いを失わない。だが、障壁には微かな揺らぎさえ生まれなかった。
「当然だ」
鳳凰がヒヨリの憂いを読んだように説明をする。
「この障壁は並のものじゃない。そう簡単には破れん。続けろ。ほんのわずかな亀裂さえ入れば、それで十分だ」
「……はい!」
「――でも、キャンサー、私は……」
言っただろう。君は脆い。人間というのは皆、脆い存在なんだ。刺されても、殴られても、ぶつかっただけでも、あっけなく死んでしまう可能性がある。どうして君は、それでも無茶をやめないんだ。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なんだ……君は……
「信じてるから。私の周りにいる人たちは、きっと私を死なせたりしない。キャンサーのように、こうしていてくれるじゃない」
……そんな勝手なことを言うな。僕だって、ずっと君のそばにいられるわけじゃない。
「大丈夫。前へ進み続けて、いろんな人と出会っていけば、きっとこれからも私を助けてくれる人がたくさんできるよ」
……そうか。
「キャンサー?えっ、どこへ行くの?」
遠い場所だ。どうしても果たさなければならないことがある。
「……そっか。うん、行ってらっしゃい!いつか必ず、また会いに行くから!絶対に!」
真っ白だった視界に、少しずつ色が戻っていく。
ハルカはゆっくりと目を開いた。左手が誰かに強く握られている感触がある。
「……ヒヨリ……アルテミス……」
ぽたり。
隣にいた紫髪の少女の大粒の涙が、次々とハルカの頬へ落ちた。
「バカ!バカ!ハルカの大バカ!」
「……え?」
目を覚ました途端三回もバカと言われた。
「本当に死んじゃうところだったんだから!」
アルテミスは涙声で叫ぶ。
「でも……よかった……。うぅ……生きてて、本当によかったぁ……」
ハルカはしばらく記憶をたどる。そうだ。昊天に渾身の一太刀を浴びせ、そのあと反撃を受けて――そこで意識が途切れたのだ。
「なんだよ。私と組むのを後悔したって言ってたくせに」
ハルカは冗談めかして笑う。
「こんな時にあなたは……!もう、本当に心配してたんだよ!」
ハルカが身を起こすと、右隣にはヒヨリがいた。彼の服はあちこちが煤で汚れ、炎で焼け焦げた跡が残っている。
「……無事で、本当によかった」
ヒヨリは安堵したように微笑んだ。
「おかえり、ハルカ」
ハルカはヒヨリとアルテミスを見つめ、心から嬉しそうに笑みを浮かべる。
「うん。二人とも、ありがとう。――ただいま」
――ほらね、キャンサー。私、やっぱり間違っていないじゃない。
紫微天宮には無数の宮殿が立ち並び、そのすべてが仙気の立ち込める霧に包まれていた。まさしく天上の仙境と呼ぶにふさわしい光景である。
その中でも最も壮麗な宮殿――凌霄宝殿。
ジョウガは傍らの大きな白兎を従え、その宝殿へと足を踏み入れた。広大な殿内には、白玉で造られた欄干や梁、巨大な柱が整然と並び、神々しい静寂に満ちている。
その広間にはすでに一人の人物が立っていた。
白いリボンで氷青色の長い髪を一つに結び、澄み切った青い瞳を持つ少女。額には氷を思わせる紋様が刻まれ、年若い容姿とは裏腹に、その眼差しには揺るぎない意志と芯の強さが宿っている。淡い藍色を基調に濃紺で縁取られた防寒用のロングコートには、雪の結晶を思わせる装飾と柔らかな毛皮があしらわれており、青と白を基調とした装いは、まるで冬そのものを身にまとっているかのような冷ややかな気品を漂わせていた。
「……真君、ご機嫌よう」
「ジョウガ様こそ。お変わりなくお過ごしでしょうか」
「お気遣いありがとうございます。特に変わりはございません」
二人の少女の会話には親しさの欠片もなく、ただ儀礼的な挨拶だけが淡々と交わされる。
やがて宮殿の最奥を覆う巨大な帳が静かに持ち上がった。その向こうに姿を現したのは、巨大な金色の御身――昊天である。
重々しい蒸気が噴き出し、その圧力で帳が大きく揺れる。金色の輝きが宝殿の内部を淡く照らし出すと、楊ゼンとジョウガは同時に頭を垂れ、恭しく礼を取った。
「陛下」
「昊天様」
【礼は不要、面を上げよ。よくぞ来てくれた。早速だが、ジョウガ、トランスグレッサーの処遇はどうなっている】
「はい。現在は牢へ収監しております。昊天様のお許しが下り次第、ブリットンスへ護送する予定です」
【よい。本心では早々に始末したい余所者ではあるが、あの三人のトランスグレッサー……どうにも只者とは思えぬ。確証が得られるまでは、しばらく牢へ閉じ込めておけ。移送は急がなくてよい】
「承知いたしました」
昊天は一拍置き、今度は楊ゼンへ話題を向けた。
【では楊ゼンよ、単刀直入に問おう。ナタへの処分について、どう思う】
ジョウガは隣で礼を崩さない楊ゼンへ静かに視線を向けた。
「陛下のご裁断を、私ごときが論じる立場にはございません。異論もございません」
【ほう?ナタとは特に親しい仲だったではないか。少しの不満も抱いておらぬというのか】
「大局を前にして、私情を優先することはありません」
――まるで氷から生まれた者だけが口にできるような、何の温もりもない言葉だった。
【……君は、昔から我に対して偽りを申さぬ。疑う者は用いず、用いる者は疑わずだ。その言葉を信じよう。だが……敖コウはどうしている。ナタとは、君以上に深い縁があったはずだ】
「ご報告いたします。以前お会いした際、敖コウ殿は地上の軒轅国へ向かわれました。ナタの件をご存じかどうかまでは確認できておりません。お役に立てず申し訳ございません」
【そうか……楊ゼン、君には引き続き地上を探索してもらう。本当にトランスグレッサーが残っていないか、徹底的に調べよ。ハタについては我が支援を与える】
「はっ!」
【そして、最悪の場合にはジョウガ、君の力も借りねばならぬ。すまぬな、月の仙女よ。本来ならば、君までこの争いに巻き込まれるべきではなかった】
ジョウガは半ば目を伏せ、小さく息をついた。
「……この状況ですから、誰もが思うようにはいられません。ルナーも同じです。私には不満などございません。必要とあらば、お力添えいたします。今の私には、この世界に留まる以外の道もありませんから」
【そうか。なら頼んだぞ】
現在の状況をハルカへ一通り説明したものの、案の定、彼女は途中から話を聞いていなかった。
「やっほー。俺はキュウキ。しばらくはおまえたちと一緒に行動することになりそうだから、よろしくな」
凶獣は気楽そのものの口調でハルカへ挨拶する。
「わああああっ、イケメン!」
ハルカは目を輝かせ、よだれまで垂らしそうな勢いで身を乗り出した。
「ねえねえ、本当に人を食べるの?血も飲むの?」
「食べることは食べるけど……残念ながらおまえの体にはハタがどこにもないから、お断りだな♪」
「うぅっ!くそぉ……振られたぁ……!根印がないことを、こんなにも恨んだのは初めてだよぉ……!」
ゴンッ!
ハルカがアルテミスに拳骨を落とされ、床へ突っ伏す――いつものやり取りである。見慣れた光景だった。
「すみません。この痴女が迷惑をかけした」
アルテミスは氷のように冷たい声で頭を下げる。
「はははっ!おもしろすぎる!やっぱりヒヨリについてきて正解だったな。俺の勘は当たってた。この契約、本当に得だったぜ」
「……ついさっき生き返ったばかりの人に、それをやるのはどうなんだ……」
さすがの鳳凰も思わず突っ込む。
「さあ」
タマモは肩をすくめるだけだった。
頭を押さえながら起き上がったハルカは、ふと思い出したようにヒヨリを見た。
「そうだ。ヒヨリ、フクロは?見当たらないよ?」
その一言で、場の空気が重く沈む。
ヒヨリはしばらく言葉を探した末、ゆっくり口を開いた。
「……フクロは、自分から昊天について行った。もう俺たちとは一緒に行動しないって……そう言って」
「えっ?なんで?!」
ハルカも驚きを隠せず、その場で立ち上がる。
「でもなぁ、妾はそない単純な話やあらへん思ておるんよ。あの時点で昊天がヒヨリの存在を知っとったんやったら、あないトランスグレッサーを毛嫌いしとる男や。地の果てまで探してでも始末しようとしたはずやろ?それやのに今になっても、天宮は何の動きも見せてへん」
「……ということは」
アルテミスはすぐに結論へたどり着く。
「フクロが昊天を騙した?この世界にはもうトランスグレッサーはいないと信じ込ませて……私たちを守ってくれたってこと?」
「でも、そんなつもりなら、どうして俺と本当のことを話してくれなかったんだ!」
誰も言葉を返せなかった。何を言えばいいのか、誰にも分からなかった。
「――さて、トランスグレッサーたち」
鳳凰がパン、と手を打ち鳴らし、一同の視線を集める。
「たとえ軒轅国で身を隠せたとして、このまま一生ここにいるつもりか?」
「……そんなわけない」
ハルカは真っ直ぐ鳳凰を見据えた。
「私の目的は変わらない。何が前に立ちはだかろうと、全部乗り越えてみせる」
「たった今、昊天に半殺しにされたばかりだというのに?」
「次は、やられない」
「ハルカ……!」
その強気な宣言に、アルテミスはまた不安そうな顔をする。
「ふん、気に入った!トランスグレッサーども!オマエたちの戦い、オレも手を貸してやろう!」
「……は?」
一同の声が見事に重なる。中でも最も大きく反応したのはタマモだった。
「おぬし、正気どすか?」
「オレは昔から、昊天のやり方が気に食わなかった。ヒヨリ、オマエには特別に神祇契約を許可する。オレもオマエと共に戦う」
「はぁ?!この二なりの発情怪鳥め!やっぱり妾のヒヨリが目当てやったんやろ!おぬしにニュークリアスのことを教えるんやなかったわ!」
「むしろ聞きたいのはこっちだ。どうしてオマエだけが独り占めしていいんだ?」
「この……!」
「ちょっ、ちょっと待って待って待って!」
ヒヨリが慌てて二人の間へ飛び込む。
「これって良いことじゃない?!どうして味方同士で喧嘩になるんだよ!」
その様子を見ていたハルカは楽しそうに笑う。
「やるじゃん、ヒヨリ。モテる男は違うねぇ」
「ハルカまで煽らないで!」
ヒヨリは悲鳴のような声を上げる。
「とにかく、まずは作戦を考えよう?昊天はとんでもなく強いんだから、揉める場合じゃないって……」
タマモと鳳凰は互いを睨みつけたまま、同時にふいっと顔を背けた。
「この世界を放ったらかしにした狐なんかより、オレのほうが情報はずっと持っている」
鳳凰は石台へ飛び乗り、タマモの鋭い視線を受けながらも得意げに続けた。
「安心しろ。思いつきで言ってるわけじゃない。オレは前から天宮の状況を調べ続けてきた。ただ、奴らに対抗するいい機会がなかっただけだ」
「へぇ?それで、何が分かったんどす?」
「……もし本当に天宮を落とすつもりなら、内部から崩すしかない。そこにいる天兵は一人ひとりはそこまで強くないが、とにかく数が多すぎる。今のオレたち程度の戦力では、昊天の前に辿り着く頃には力を使い果たしてしまう」
「うーん……」
アルテミスが腕を組む。
「今、フクロは天宮にいるんだよね。連絡さえ取れればいいんだが……まだ私たちと戦ってくれるかは分からないけど」
「それも難しいだろうな。オマエたちの仲間は厳重に監禁されているはずだ。昊天はトランスグレッサー、まあ基本的に余所者を心底嫌っている。仮に連絡が取れたとしても、あいつ一人では何もできん」
「ほんっと器が小さいな」
ハルカは不満そうに唇を尖らせる。
「トランスグレッサーが何したっていうのよ。そんなに根に持つなんて」
タマモがぴくりと耳を動かした。
「話せば長うなるんやけどな。正確には、ブリットンスから遣わされた一人が原因なんや。本来は天宮の協定騎士と一緒に行動するはずやった。せやのに、どないしたんやら、その男が突然昊天へ斬りかかったんや。それ以来、ブリットンスの王と天宮との仲は、ずうっと険悪なままなんよ」
アルテミスは目を見開く。
「そういえば、その話は聞いたことがある気がする……。でもブリットンスの人とはあまり面識がなくて。昊天に剣を向けるなんて、一体どんな人だったの?」
「かつて、ブリットンスの王直属の騎士の一人――魔剣使い。そして王国最強と謳われた男。そやつの名は――」
「――ルキウス・クィントゥス」
ヒヨリは思わず息を呑み、聞き間違いではないかとハルカのほうを振り向く。
どうやら聞き違いではなかった。
ハルカも目を大きく見開いたまま、ゆっくりと顔を上げる。その視線はどこを見るでもなく、ただ呆然と宙を見つめていた。




