神祇契約
「えっ?あの……えぇ?師匠、神祇契約って、確か――」
ヒヨリが目を丸くしてタマモを見ると、タマモは頷き、落ち着いた口調で説明を始めた。
「うん。もしこのキュウキがおぬしと契約結んだら、これから先はおぬしの言うこと聞いて、式神として呼ばれることになるえ」
「だよね!?」
ヒヨリはますます困惑したようにキュウキへ視線を向ける。
「だったら、損をするのはキュウキの方じゃない?」
「はははっ!そういうところが気に入ったよ、ますます契約したくなるな。……なあダッキ、神祇契約の本当のリスク、まだこいつには話してないんだろ?」
タマモは深々とため息をつき、どこか苦い表情を浮かべる。
「……しゃあないなぁ。ヒヨリ、神祇契約を結ぶには、まず契約の術式が要るんや。その術式は安倍セイメイがおぬしに託してはる。せやけどなぁ――主従の立場が、必ずしも決まるとは限らへんのえ」
「主従……?」
ヒヨリが首を傾げると、アルテミスも続いて口を開いた。
「私も聞いたことがある。契約術式は、互いの根印とハタを繋ぐためのもの。術式が優れているほど、空間を越えた召喚も安定する。でも、本来従う側である式神が、主人を遥かに上回るハタを持っていた場合……契約そのものを逆転させることができるの」
その説明を聞き、ヒヨリの表情が少しずつ強張っていく。やがて彼はキュウキを真正面から見据え、慎重に問い返した。
「……つまり、俺がお前と契約したら、逆に俺がお前の命令を聞かなきゃいけなくなる可能性もあるってことか」
「その通りだ」
キュウキは楽しげに口角を上げた。
「どうだ、坊主。賭けてみるか?」
タマモは即座に一歩前へ出てヒヨリを庇う。
「あかんえ、ヒヨリ。この者は間違いのう、あの名高い凶獣キュウキや。そない危ない賭けに、おぬしを巻き込むわけにはいかへん。ほかの手立てを考えるえ」
しかしヒヨリは首を横に振った。
「……でも、さっき師匠が言ってたじゃないか。俺たちには軒轅国へ行くしかないって」
「それは……」
「それに、ハルカの容体だって一刻を争う。このまま昊天に見つかったら、本当に全部終わってしまう」
アルテミスは膝の上で眠るように横たわるハルカを見下ろした。ハタの障壁によって命は繋がっていると頭では理解していても、その青白い顔を見るたびに胸が締め付けられる。だからといって、ヒヨリに命懸けの賭けを強いることなどできず、唇を噛み締めることしかできなかった。
その時、ヒヨリはそっとアルテミスの肩に手を置き、優しく微笑む。
「大丈夫だよ、アルテミス。俺は絶対にハルカを助ける」
「でも……あなたが……!」
「俺はハルカに出会ったから、今ここにいる。あいつのことは、まだ知らないことばかりだ。でも、一つだけ分かる。ハルカは俺を大切にしてくれた。だから今度は、俺があいつを守る番なんだ」
その瞳には一切の迷いがなかった。
ヒヨリは真っ直ぐキュウキの前まで歩み寄ると、静かに右手を差し出す。
「……契約する。どうすればいい?」
「いい度胸だ!」
キュウキは満足そうに笑った。
「このまま手の甲を出せ。ダッキ、詠唱はおまえが教えてやれよ」
タマモはなおも複雑そうな表情を浮かべていたが、ヒヨリの揺るぎない眼差しを見て、それ以上引き止めることはできなかった。静かに彼の背後へ立つと、小さく息を整える。
「……ええか。妾の後に続いて唱えるんや。万一のことがあったら、妾が何があっても、おぬしを守るえ」
「はい。ありがとう、師匠」
キュウキは迷いなく親指を噛み切り、その血をヒヨリの右手の五芒星へ滴らせる。途端に術式が青緑色の光を放ち始め、二人の足元から柔らかな風が渦を巻いて立ち上った。
「――夢を紡ぐ創造主よ。すべての魂の造り手よ。今一度、この契りを見届けたまえ」
「真なる永遠を求め、我らは血をもって結ばれん」
「真なる輝きを求め、我らはここに名を交わさん」
「この契約が、覇坤の戦火を終わらせ、この縁が星河の彼方まで続かんことを」
「同じ夢に在りし同胞よ。汝が名を告げよ」
キュウキは静かに目を閉じ、厳かな声で応えた。
「我が名はキュウキ。この契約に従い、おまえのもとへ馳せ参じることを誓う」
その瞬間、光はさらに強く輝き、風は二人を中心に大きく渦を巻く。
ヒヨリも力強く言葉を紡いだ。
「――我が名はヒヨリ。この契約に従い、お前と共に歩むことを誓う。これをもって、契約は成す」
詠唱が終わると、風はゆっくりと静まり、まばゆい光も少しずつ消えていった。
キュウキは何事もなかったように手を引っ込め、ズボンのポケットへ突っ込む。ヒヨリは恐る恐る右手を見ると、五芒星の一角に牛の頭を思わせる新たな紋様が刻まれていた。
「……これで、終わり、なのか?」
「俺も誰かと契約するのは初めてだからな。たぶん成功だな」
だがタマモは気を緩めなかった。
「安心するんは、まだ早いえ、ヒヨリ。この者がいつ契約を覆そうとするか、妾にも分からへん。決して油断したらあかんえ」
キュウキはその言葉を聞いても肩をすくめるだけだった。大きく伸びをすると、背中の翼を勢いよく広げる。
「さて、それじゃ約束通り軒轅国へ連れて行ってやる。全員こっちへ来い」
タマモはヒヨリへ小さく頷き、自ら先にキュウキのもとへ歩み寄る。ヒヨリはアルテミスを支え、気を失ったままのハルカを背負い直して後に続いた。
全員が集まると、キュウキは巨大な翼を大きく広げ、そのまま包み込むように閉じる。
「きゃっ!?」
アルテミスが思わず声を上げるが、暗闇はほんの数秒しか続かなかった。
「……着いたぞ」
翼がゆっくりと開かれる。
目の前に広がっていた光景を見て、アルテミスは思わず息を呑んだ。
そこは先ほどまでいた荒れ果てた山中とはまるで別天地だった。満開の桃花が風に揺れ、山頂から流れ落ちる清流は透き通った音を立てながら足元の玉石を洗う。木々の若葉には朝露がきらめき、小鳥たちは澄み渡る歌声を響かせていた。柔らかな陽光の下、山々を結ぶように大きな虹が架かり、まるで天へと続く橋のように空を彩っている。
タマモは周囲を見回し、小さく頷いた。
「……間違いあらへん。ここが軒轅国や。なるほどのう、おぬしはこないして人目を欺いておったんやな。道理で、察した途端に姿を消したわけや」
「お褒めに預かり光栄だ」
キュウキは翼を畳みながら笑う。
「さて、この先はどうする?ヒヨリ、おまえが背負ってる嬢ちゃんはハタの障壁で辛うじて保ってるが、それも長くは続かんぞ。所詮は根印すらを持たぬ人類だからな」
ヒヨリは背中のハルカを振り返り、自責の色を滲ませながら静かに目を伏せた。
するとタマモが一つ息をつく。
「……しゃあないえ。助けられるやもしれん者に心当たりはある。せやけど、えらい気難しい相手なんや」
「誰でもいい!」
ヒヨリは迷わず言い切った。
「ハルカは俺の大切な仲間だ。俺は絶対に……絶対にこいつを死なせない!」
その強い決意に、タマモはわずかに微笑む。
「そう言うと思うておった。参るえ、ヒヨリ、アルテミス。妾が案内したる――死者すら蘇らせる力を持つ神獣、鳳凰。その者は、この軒轅国におる」
ハルカたちが一夜を過ごしたあの小さな町では、あれほどの激戦が嘘だったかのように、湖だけが何一つ変わることなく鏡のような静けさを湛えていた。
その湖へ深く潜り、さらに何里も底へと降りていくと、暗い水中をゆらゆらと漂う一本の赤い綢が目に入る。その布を辿るようにさらに沈んでいけば、光の届かぬ湖底に、一人の少年が静かに横たわっていた。
半身しか残っていない、蓮根で造られた身体。長い髪は水中でゆるやかに広がり、閉ざされた瞼は二度と開く気配を見せない。そこには鼓動も息遣いもなく、ただ冷たい静寂だけが満ちていた。
ごぽり、ごぽりと水泡が湧き上がり、巨大な影がゆっくりと近づいてくる。
それは静かに少年の傍らまで泳ぎ寄ると、大きな口先をそっと少年の額へ寄せた。そのまま名残を惜しむように、長い間離れようとはしなかった。
「オオオオオオオオオオォォォン――――ッ!!」
轟く咆哮とともに、巨大な獣が湖面を突き破る。
凄まじい水柱が天へ立ち昇り、湖は怒濤の波を巻き起こした。
青く輝く無数の鱗に覆われた巨体。鹿を思わせる一対の角、風になびく長い鬣、鋭く光る四本の爪。
――青龍。
その神々しい巨龍は天空高く舞い上がり、悲しみを吐き出すかのように何度も咆哮を響かせた。
やがて空には灰色の雲が集まり始め、細かな雨粒が静かに町へ降り注ぐ。雨は湖面を優しく叩き、波紋を幾重にも広げていく。
青龍はなおも空を巡り続け、長い時間その雨を降らせ続けた。
まるで、一人へ捧げる弔いの涙であるかのように。
その頃――紫微天宮。
「……了解いたしました」
牢獄の外から聞こえてきた兵士たちの会話に、鉄格子の奥で眠っていた男はゆっくりと目を覚ました。苛立ちを隠そうともせず、重い瞼を持ち上げて外を睨みつける。
「陛下は現在こちらまで手が回らぬ。各自、情報の更新を行え」
「了解。中壇元帥・ナタ様の命令受信権限を削除します」
「ああ。過去の記録は残して構わん。だが、すでに戦死された以上、これよりナタ様から新たな命令が届くことはない」
その言葉が牢内へ響いた瞬間――。
――ガァァンッ!!
耳をつんざく轟音とともに鉄格子が激しく揺れ、兵士たちは一斉に振り返った。
牢に囚われた男が、全身を叩きつける勢いで鉄格子へ体当たりしていたのだ。
「……今、何と言った……」
「囚人、大人しくしろ」
兵士たちは慌てて剣を抜き、鉄格子の隙間から次々と突き込む。
幾本もの刃が男の身体へ深々と突き刺さり、鮮血が床へ滴り落ちる。それでも男は苦痛の声一つ上げることなく、血走った瞳で兵士たちを睨み続けた。
「ナタ……あいつがどうした……!」
怒号が牢内に轟く。
「まさか……昊天のクソジジイに殺されたというのかッ!!」
瞬間、牢獄の奥から灼熱の闘気が爆発した。
凄まじい熱風が吹き荒れ、数人の兵士がその衝撃だけで床へ叩き倒される。
「……あれほど大量のポロニウムで封じているというのに……」
「落ち着け。奴は外へは出られん」
しかし男は構わず鉄格子へ何度も身体を叩きつけ、腕を縛る幾重もの鎖を力任せに引き千切ろうともがき続ける。
その怒りと焔は、牢獄全体を震わせるほどだった。
「……楊ゼン……」
低く唸るような声が漏れる。
「楊ゼンッ!!出て来いッ!!」
男は喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「これがてめえの望んだ結末か!!誰が死のうと、てめえはそうして黙って従い続けるつもりなのかッ!!」
鉄格子へ何度も拳を叩きつけるたび、金属が激しく軋む。
鮮血が飛び散っても、鎖が肉へ食い込んでも、その叫びは止まらない。
「出て来い……楊ゼンッ!!昊天!!!」
「この……クソ野郎がァァァァッ!!」




