絶望な砕け音
「あいつ……!アルテミスまでどうして止めなかったんだ……!」
フクロは焦燥に駆られた表情で、単身昊天へ向かって飛び出していったハルカの姿を見上げる。さっき必死に腕を掴んで止めようとしたというのに、一瞬の隙を突かれて振り切られてしまった。
ヒヨリもまた、震える声を漏らす。
「……俺も行く。あいつ……本当にナタを……!」
飛び出そうとしたその瞬間、腕がまたも掴まれた。驚いて振り返ると、そこにはタマモが立っている。普段の妖艶な笑みはどこにもなく、その瞳だけが冷たく鋭くヒヨリを射抜いていた。
「やめておくれやす、ヒヨリ」
低く、決して逆らわせぬ声だった。
「妾は、おぬしを行かせはせぬえ。今行ったところで……犬死にするだけじゃ」
【アーマーアクセス:フレイ】
【煌めく勝利の剣!】
「栄光――!」
黄金の光が装甲を包み込み、一振りの一振りの聖剣へと姿を変える。
ハルカは一気に昊天の眼前まで駆け上がった。両手に収束した黄金の光が剣身をさらに輝かせる。
「――ドラゴンハウリングッ!」
裂帛の気迫とともに、全力の一撃が振り下ろされた。
――ゴォォォンッ!!
天地を震わせる鐘のような轟音が響き渡る。
しかし、黄金の巨体に刻まれたのは、かすかに光を乱す程度の浅い傷だけだった。
【軽い。あまりにも軽いな……。わざわざ死にに来たのか、トランスグレッサー】
「勝手に言ってろ!」
ハルカは歯を食いしばり、真正面から怒鳴り返す。
「あんたをぶっ飛ばすまで、私は止まる気はない!」
【よく吠えるな。この世界をどう治めるかは、我の問題だ。貴様らには関係あるまい】
「関係あるかどうかは、私が決める!」
わずかな沈黙の後、昊天の巨大な金身から低く響く声が落ちてきた。
【……愚かな根印無き者め】
次の瞬間、天より純白の雷霆が一直線に落ちる。
「っ!」
ハルカは咄嗟に金身を蹴って後方へ跳び退き、大剣を解除して遺産の飛行装甲へと切り替える。白雷はすぐに軌道を変え、彼女を執拗に追跡した。
【逃がさん】
左右から巨大な岩塊が迫る。
ハルカは身体をひねって辛うじて下へ潜り抜けるが、二つの岩は空中で激突し、砕け散る。その直後、大地から天を貫くほどの蔓が一斉に伸び、彼女の足首へ絡みついた。
「くっ!」
左腕の砲門が火を噴き、蔓を撃ち砕く。
だが一本を断った次の瞬間には、無数の蔓が四方八方から押し寄せ、空そのものを檻へと変えていく。逃げ道は、一つ残らず塞がれていた。
「ハルカ!」
ヒヨリは再び飛び出そうとする。しかしタマモの手は微動だにしない。
「師匠!離してくれ!」
「……いや」
その時、不意にフクロが口を開いた。
「タマモ、そのままでいい」
「……は?」
ヒヨリは信じられないというようにフクロを振り返る。
「何言ってるんだよ!」
だがフクロは彼を見ようともせず、ただタマモへ問いかけた。
「……お前なら、逃げる方法があるんだろ」
「ええ、無論」
煌めく勝利の剣が黄金の軌跡を描き、一閃。
迫り来る蔓は一瞬で断ち切られ、空へ舞い散った。だが、アルテミスは同時に一種類の残刻器しか顕現できない。飛行能力を持つ装甲を解除した今、ハルカの身体は重力に従い、そのまま落下を始める。
「ちっ……アルテミス、続け――」
【上だ!ハルカ、上ッ!!】
アルテミスの悲鳴にも似た叫び。
ハルカが反射的に顔を上げた瞬間、紺紫の瞳いっぱいに純白の閃光が映り込んだ。
――ドンッ!!
雷が、彼女の身体を真正面から貫いた。
誰の目にも、それははっきりと映っていた。
ハルカは最後に残った力だけで煌めく勝利の剣を手放す。投げ出された剣だけは雷撃の直撃圏から弾き飛ばされる。
その代わりに、何も持たない少女自身の肉体が、滅びにも等しい一撃を受け止めた。ツインテールを揺らす少女の身体は純白の雷光に完全に呑み込まれ、黒煙を上げながら空中へ弾き飛ばされる。
防御も、回避も、生存の余地さえ存在しない。
その姿は流星のように左手の山肌へ激突し、そのまま力なく地上へと落ちていった。
フクロもヒヨリも、あまりに現実離れした光景を前に、その場で完全に思考を止めていた。脳がようやく状況を理解した時には、もう遅かった。
根印無き者が、あれほどの雷撃を受けて生きていられるはずがない。
「――――――ハルカッ!!!!!」
ヒヨリの絶叫が、山々へ木霊する。
その叫びに応えるものは何もなく、ただ静寂だけが訪れる。
――カラン。
ハルカの胸元で揺れていた黄金のペンダントが、小さく乾いた音を立てて砕け散った。
アルテミスが変化した剣は遥か彼方へ弾き飛ばされ、甲高い金属音を響かせながら地面へ深々と突き刺さった。
天空に浮かぶ巨大な金身から、大量の白煙が噴き上がる。
【……そこまで堕ちたか、ナタ。かくも脆く、かくも容易く死に絶える蟻のような存在のために、貴様は命を投げ出したというのか。その程度の者が、ドミネーターに挑めるとでも思ったか】
――ピカッ!!
漆黒の雷光が大地から天を貫くように立ち昇り、幾重もの雲を突き破る。巨大な金身はゆっくりと向きを変え、その黒き雷の発生源へ視線を向けた。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
黒髪に赤い瞳。静かに天を見上げるその姿には、恐怖も焦りも見えない。
【貴様も死にに来たか、トランスグレッサー】
「……いや。俺は降伏しに来た」
【……ほう】
「もともと、ここであいつらと別れるつもりだった。もうブリットンズから逃げ続ける気もない」
金身から再び白煙が噴き出す。
【聞き分けは悪くない……だが、トランスグレッサーは三人いたはずだ。残る一人を逃がすための時間稼ぎではあるまいな】
「好きに探せばいい。もう一人なら、とっくに逃げた。ナタが戻る前にな」
昊天は長い間沈黙し、まるで世界そのものを探査するかのように微動だにしなかった。やがて低い声が響く。
【……確かに、半径百里以内に、この世界に属さぬハタの反応は存在しない】
その瞬間、フクロの足元が激しく震えた。立っていた地面そのものが巨大な岩盤となって宙へ浮かび上がり、彼の身体を乗せたままゆっくり天空へ昇っていく。
【ならば、貴様というトランスグレッサーは我が直々に連行しよう】
「……好きにしろ」
フクロは一切抵抗しなかった。ただ一度だけ、ハルカが落ちていった山の方角へ目を向ける。それだけだった。
やがて巨大な金身は雲海の奥へと姿を沈め、フクロを乗せた岩塊ごと空の彼方へ消えていった。
アルテミスがハルカのもとへ辿り着いた時、そこにあったのはあまりにも無惨な光景だった。
折れた木々が身体に覆い被さり、泥にまみれた少女はぴくりとも動かない。目は閉ざされ、鼓動も呼吸も感じられなかった。
「ハルカ……!ハルカっ!」
紫髪の少女は慌てて地面へ膝をつき、その身体を抱き起こす。
「いや……そんな……嘘……どうして……!」
その刹那、彼女の前に一枚の鏡が何の前触れもなく現れた。アルテミスは思わず身構えるが、鏡の中から現れたのはヒヨリとタマモだった。タマモが袖を軽く払うと、鏡は水面のように揺らぎ、そのまま跡形もなく消え去る。
「ハルカ!」
ヒヨリは駆け寄り、彼女の傍らへ崩れるように膝をついた。
「そんなはずない……あり得ない!ハルカが……ハルカがこんなところで死ぬわけない!お前は……こんな場所で終わる奴じゃない……!」
アルテミスの瞳から大粒の涙が次々と零れ落ち、ハルカの頬へ静かに落ちていく。いつも無鉄砲で、放っておけば何をしでかすか分からず、気付けば心配ばかりしていた少女が、どうしてこんな姿にならなければならないのか。
「……落ち着きや」
二人が顔を上げると、タマモはハルカを見下ろしたまま静かに言った。
「よう見てみい。あやつの周りを流れておるハタが、どこぞおかしいえ」
アルテミスは慌てて観察を始める。確かに見たこともないハタがハルカの全身を包み込み、絶えず循環していた。干渉を試みても、まるで見えない壁に阻まれたように一切届かない。
さらに胸元へ視線を落とすと、金のペンダントは半分だけ砕けていた。
「……これは……このハタ……外部からの干渉を全部遮断している……?」
「その通りじゃ。ハルカ自身の有様さえ、外からは認識できぬほどになっておる。あくまで妾の推測にすぎぬが、このハタの障壁が雷撃を受ける寸前にあやつを包み込み、命だけは守ったのじゃろう……とはいえ、受けた衝撃は凄まじい。このまま治療せねば、結局は助からぬ」
「師匠……!」
ヒヨリは怒りを抑えきれず拳を握る。
「どうして止めたんだ!ハルカはもう少しで死ぬところだったんだぞ!」
「妾が止めんかったら、今よりなお酷い有様になっておったえ。幸い、あやつはまだ命を落としてはおらぬ。おぬしまで飛び出しておったら、それこそ目も当てられぬことになっておったとは思わんのかえ?ナタちゃんは命まで懸けて、おぬしらを逃がしたんじゃ。それを無駄にするつもりかえ」
ヒヨリは何も言い返せなかった。
「待って……!ヒヨリもタマモも落ち着いて!あっ、フクロは?フクロはどこなの?」
「……あいつ、自分から昊天について行った」
「えっ!?それじゃブリットンスに……!」
「……あいつは言ってた。もう俺たちと一緒に行く必要はないって。ここから先は、自分の問題だからって」
三人の間に重苦しい沈黙が落ちた。ナタは命を落とし、ハルカは瀕死、フクロもまた姿を消した。あまりにも最悪の状況だった。ヒヨリは強く目を閉じ、自らの無力さを噛み締める。
「おいおい、何やってんだよ、おまえら」
その時、不意に背後から聞き慣れない男の声が響く。三人は一斉に振り返った。突風が吹き抜け、草木を大きく揺らす。
そこに立っていたのは、遊牧民を思わせる装束の若い男だった。蛍光にも見える緑の短髪、人ならざる瞳、頭には曲がっている牛の角、そして背には濃い茶色の翼。耳をほじりながら、呆れたような顔でこちらを眺めている。
「ようやく姿を見せたかえ。二日も妾らの後をつけて、一体何が目的どす」
タマモが一歩前へ出ると、男は肩をすくめて笑った。
「ははっ。俺が自意識過剰なのか、それとも噂のダッキ様が忘れっぽいのか」
言い終わるより早く男の姿は消え、次の瞬間にはタマモの背後を抜けてヒヨリの目の前へ現れていた。
「おまえさぁ!」
拳でヒヨリの胸を軽く叩き、呆れたように言う。
「あんな上物を昊天なんぞに持っていかれるとか、本気で馬鹿なのか?」
「えっ……フクロのことか?」
「へぇ。あいつフクロって名前なのか」
「おい」
タマモの殺気は、ヒヨリにまで肌で感じ取れるほどだった。さすがの見知らぬ男も空気を察したのか、肩をすくめながら数歩だけ後ろへ下がる。
「まあええ。ここまで来たら、もう隠れ続ける意味もないか。俺はキュウキだ。どうだ、ダッキ。覚えはあるか?」
「……キュウキ?おぬし、あのコントンの傍におったキュウキかえ」
「え?誰なんだ、師匠?」
ヒヨリが首を傾げると、タマモはしばらく口を閉ざしたまま答えない。
「師匠?はははっ!」
キュウキは腹を抱えて笑い出した。
「ダッキ、おまえはいったい何をやってるんだ。まさかおまえ、自分が獣だってことすら、この坊主には話してないんだろ?」
「妾が妾の男にどう接しようと、おぬしには関わりのないことどす」
タマモはにこりと微笑む。しかし、その笑みの奥には鋭い刃のような冷たさが潜んでいた。
「……獣?」
ヒヨリは戸惑いを隠せず、二人を見比べる。
「はぁ……まったく、よりにもよって、こんな時分に説明する羽目になるとはのう。ヒヨリよ、根印を持つ命あるものは、人類だけやあらへん――そのくらいは知っておるじゃろ?」
「あ……はい」
「この宇宙には、人類以外にも、ようけおるんどすえ。妾のようなもんは獣と呼ばれておるのじゃ。獣は生まれつき人よりはるかに多くのハタを持っておって、力をさらに増すために、人を喰ろう者もようけおる。……いや、正しくは、人を喰ろうたりせぬ獣のほうが、よっぽど珍しいと言うべきじゃろな」
「だってよ、もともと獣の食い物は人類だったんだからな!」
キュウキは愉快そうに笑って肩をすくめる。
「今じゃ、変な草食主義者が多くなっているけど」
ヒヨリはゆっくりキュウキを見据えた。
「……つまり、お前は、フクロを喰うつもりだったのか」
「お、察しがいい。だって、あんな血生臭いハタは何年生きても初めて見た。狩らない理由なんてないだろ?まさか昊天に先を越されるとは思わなかったが。おまえのハタは相当だが……俺は好き嫌いが激しくてね。まあ、ダッキの獲物みたいだし、横取りつもりはないよ」
タマモは何かをまだ心配しているようで、今度はキュウキに問い掛けた。
「キュウキ、一つ聞かせてもらうえ。おぬしが本当にあのキュウキなら、軒轅国の在り処くらい知っておるはずじゃ。妾らをそこまで連れて行ってはくれへんかえ」
「えっ……軒轅国へ!?」
アルテミスは目を丸くして声を上げる。
「そこって、獣ばかりが住んでいるっていう噂の国だね?今のハルカの状態で行くなんて、危険すぎる……!」
「妾が先ほど昊天の感知を欺いた術は、本来、人を隠すためのもんやあらへん。身を潜められるんも、ほんのひと時だけどす。このままやと、遅かれ早かれ昊天に見つかってしまうえ」
キュウキは眉をひょいと上げ、腕を組んで考え込む。
「……まあ、それもそうだな。あれだけ昊天を怒らせちまったんだ。おまえらが身を隠せる場所なんて、軒轅国くらいしかねぇか。……だが、俺もただで他人を助けるような親切な奴じゃない。案内してほしいなら、何をくれる?」
タマモは言葉を失い、アルテミスは気を失ったハルカを強く抱き寄せる。誰も答えられず、その場は再び重苦しい沈黙に包まれた。
最初にタマモに情報を求めた時も、やはり何かを交換しなければならなかった。どうやら獣はみなこういう感じらしい。
「……今は、俺たちからあげられるものないかもしれんが、これからはあるかも……」
「わるいが、つけないてほしいな。どれどれ……」
キュウキの視線が一人ひとりを順に見渡し、やがてヒヨリの右手の甲で止まる。そこに刻まれた五芒星の紋様を見た瞬間、彼の表情がわずかに変わった。
「……ん?おい坊主、おまえ、ずいぶん上等な神祇契約の術式を持ってるじゃねぇか。どう見ても自前じゃないな。誰にもらった?」
「え?ああ、これか……」
ヒヨリは手の甲をそっと撫でながら答える。
「俺たちがとても世話になった人にもらった。何だ?」
「ふん……」
キュウキは五芒星をじっと見つめたまま、口元を吊り上げる。
「おまえについて行けば、いずれあのフクロってやつにも、また会えるんだろ?」
「えっと……俺にも分からないけど……」
「よし、決めた!」
キュウキは突然にやりと笑い、勢いよく指を鳴らした。
「おまえと契約してやるよ。契約を結んでくれるなら、軒轅国まで案内してやるぜ――どうだ?」




