天宮の囚人
「ナタ」
「うわっ!」
突然肩を叩かれ、少年はびくりと身を震わせた。
「な、何だよオマエ!」
仙気の霧は濃く、足元すら見えない。辺り一面は蒼く染まり、遠くには黄金に輝く柱がところどころにそびえ立っている。
雲霞たなびくその空間には、ナタのほかにもう一人の人物がいた。
豪奢な藍黒の装束をまとった中年の男。顔には歳月を刻んだ皺があり、青みを帯びた長髪を背に流している。蒼い瞳の奥には人ならざる異質な瞳孔が宿り、頭の両脇には鹿角にも似た黒い角が伸び、その根元には白い飾りが揺れていた。
「それはこちらの台詞だ」
男は厳しい口調で言った。
「こそこそと、何をしている?」
「ふん、別にオマエには関係ないだろ!」
「ほう?第三空間の状況など放っておいて構わないと言って飛び出していったのは誰だったかな。結局、散々な目に遭って戻ってきて、私に泣きついたではないか」
「泣いてないだろうが!うっ……」
ナタは珍しく言葉を詰まらせた。
男は少し目を見開く。いつもなら意地でも言い返してくる少年が、今日は俯いたままだったからだ。
「……敖コウ、これはオレにとって、本当に大事なことなんだ。今はまだ、オマエにも話せない」
敖コウは長い沈黙の後、静かに息を吐いた。
「君がそういう顔をするときは、大抵ろくでもないことを企んでいる」
「止めるか?」
「いや。無茶はするだろうが、悪事だけはしない。それくらいは長い付き合いで分かっている」
そう言って敖コウは背を向ける。
「行け。私は君がまだ戻っていないことにしておく。どこまで誤魔化せるかは分からんがな」
ナタはその背中をじっと見つめた。やがて足元の金色の輪が高速で回転し始める。次第に彼の身体は空へと跳ね上がり、そのまま天際へ消えていった。
敖コウもまた歩き出す。
仙宮の奥へ進むにつれ、建築群はさらに密集し、壮麗さを増していく。広大な宮殿群の間を一人で歩く彼の足音だけが、静かに響いていた。
やがて彼は一つの宝殿へ辿り着く。門前に衛兵の姿はない。そのまま殿内へ足を踏み入れると、広大な空間には冷気だけが満ちていた。
「真君」
敖コウが呼びかける。
すると奥から足音が近づいてきた。薄い帳が一つの手によって持ち上げられ、その人物はゆっくりと姿を現す。
青い制服の上に白い長衣を綿コート、氷のような淡青色の髪を一本の長いポニーテールに結った少女だった。長い前髪は眉をかすめる程度で、透き通るような青い瞳を少しも隠していない。容姿も体つきも非の打ちどころなく美しく、凛として気高い。
だが、その表情には一切の感情がなかった。まるでこの宝殿の温度そのもののように。
「来られましたね」
鈴のように澄んだ声だったが、口調はどこまでも冷淡だった。
「どうですか。軒轅国の様子は」
「今のところ異常はありません。東華様も、ご健勝です」
「そうですか」
少女の瞳に、一瞬だけ惜しむような色がよぎった。
「了解しました。ところでナタはどうしましたか。第四空間へ現れる可能性のあるトランスグレッサーの捕縛のため第三空間に向かったはず、まだ戻らないのですか」
「……はい。第三空間の状況は真君もご存じでしょう。何らかの騒動に巻き込まれているのかもしれません。調査にどなたを出されますか」
「……不要です」
少女は即答した。
「彼の実力は、私もよく知っています。それに、またブリットンズの貫通トンネルが開くため、わざわざ陛下へ奏上するのも大袈裟すぎます」
そう言い残し、彼女は出口へ向かう。敖コウの横を通り過ぎる際、足を止めずに続けた。
「お疲れ様です。引き続き、東華様の代理として天宮と軒轅国の連絡役を頼みます」
「承知いたしました」
真君と呼ばれた少女は、静かに宮殿を後にした。
長い回廊を渡り、幾重にも連なる宮殿の間を迷いなく進んでいく。仙気に満ちた楼閣や白玉の橋が雲海の上に浮かび、その足取りに合わせるように衣の裾がわずかに揺れた。
彼女は一度も立ち止まることなく天宮の奥へと向かう。やがて、遠目にもただならぬ緊張感を漂わせる一角が視界に入った。幾重もの兵が配置され、鋭い視線で周囲を警戒している。
目的地へはそれほど時間もかからなかったが、その場所だけは他のどの宮殿とも異なる重苦しい空気に包まれていた。牢獄――そこが彼女の向かう先だった。
ただ一つ異様なのは、守備に就く兵士たちが全員まったく同じ顔をしていることだった。少女の姿を認めると、兵士たちは一斉に頭を垂れる。
「面を上げよ。変わりはないか」
「はっ。依然として反省の色はありません」
「……そうか。見せてもらおう」
兵士たちは左右へ分かれ、大きな通路を作る。少女はその奥へ進み、幾重もの人垣の向こうにある牢獄へ辿り着いた。
鉄格子の内側は暗い。しかし奥には一人の人影が見える。無数の枷と鎖によって全身を拘束され、両腕を吊り上げられたまま地面に座り込んでいた。頭も垂れている。
少女は目を細めた。その身体には、新しい傷がまた増えている。抵抗した結果なのだろう。
「もう十分でしょうに」
少女は静かにその人に告げた。
「抵抗しても無意味だ。何度言わせる」
ドンッ!
囚人は突然鉄格子へ頭突きを叩き込んだ。あと少しで少女に届きそうなほどだった。
兵士たちは慌てて武器を構える。
「真君、ご無事ですか」
「危険です、お下がりください」
だが少女は動かさなかった。鉄格子の向こうを見ると、そこには眩しいほどの金色の瞳。その瞳の中には、自分の姿が映っていた。
「俺こそ何度も言っただろうが……」
牢獄にいる男は歯を剥き出しにして笑った。
「楊ゼン!俺はお前と昊天のクソジジイを、考えを改めるまでぶん殴り続けてやる気なんだ!」
真君――楊ゼンという少女は深く息を吸う。そして背を向けた。一歩、また一歩と牢から離れていく。
「……あなたが自分の過ちを認めた時、私はあなたを解放する」
「はっ」
男は鼻で笑った。
「そんな日は永遠に来ねえよ」
楊ゼンの足が止まる。牢の奥から、なおも不敵な声が響いた。
「だってその前に――俺がこの邪魔な鉄格子をぶち壊して出ていくんだからな!待ってろ!!」
フクロは不意に足を止め、警戒するように背後を振り返った。
すでに夜だった。
人影ひとつない町には灯りもなく、月明かりと星明かりだけが道を照らしている。それでもフクロは、確かに何かの気配を感じ取っていた。
「フクロ?」
後ろからヒヨリが肩を叩く。
「どうしたの?ハルカたちに置いていかれるよ」
「お前は何も感じないのか?」
ヒヨリはハタへの感知能力に優れていた。ブルーハー血族の時はハルカの接近を真っ先に察知し、大江山でもナタの存在に誰より早く気付いていた。
「あ?別に何も……」
ヒヨリは不思議そうな顔をした。
「ナタがあんまり警戒するから、お前まで神経質になってるんじゃない?」
「……ならいい」
ヒヨリにすら分からないなら、自分の気のせいなのかもしれない。
しばらく歩いた後、今度はヒヨリの方から口を開いた。
「……フクロ、聞きたいことがあるんだけど」
「何だ」
「スエタケと何を話してたの?俺がセイメイの残したものを持って行く前さ」
「それを聞いてどうする」
「どうするって……そんなふうに隠されたら、俺もハルカも気になるに決まってるだろ」
「俺のことは、お前たちが知らない方がいい」
「なんでだよ」
「別にいだろう。ハルカだって、自分のことを俺たちに話したことがあるか?」
「……」
ヒヨリは言葉を失った。
言われてみれば、自分はハルカについてほとんど何も知らない。
いつも真っ直ぐ前へ進む彼女に引っ張られてきたが、彼女がどんな人生を歩み、どんな大切な人がいるのか――自分は何一つ知らなかった。
「だろう。誰にだって話したくない過去くらいある」
「過去ってやっぱり……スエタケが、お前の記憶を戻したんだな」
「……」
「だったらさ、もし俺たちがただの偶然で集まっただけの他人だって言うなら、なんであの時、お前は本気になって俺を目覚めさせたんだよ」
フクロは黙ったままだった。
「本当に俺たちが何でもない存在なら、俺が暴走する厄介な奴だって分かってたはずだろ。それなのに、どうして一緒にここまで来たんだよ!」
「おーい!」
後ろから聞き慣れた声が飛んでくる。ツインテールの少女がひょいと現れ、ヒヨリの腕を掴んで二人の間に割り込んだ。
「アルテミスはもう旅館に戻ってるよ!晩ご飯の前に厨房の掃除もしなきゃなんだからさ、二人とも何してるの?」
「……別に。行くぞ」
フクロはそれだけ言うと、前を向いて歩き出した。
「え?」
「ごめん、ハルカ。本当に何でもない」
そう言い残し、彼もまた歩き出す。
「何でもないって……」
ハルカは首を傾げた。
結局よく分からないまま頭を掻き、それ以上深く考えることなく二人の後を追いかけた。
先に旅館へ戻っていたアルテミスは、館内の蝋燭や提灯に一つずつ火を灯して回った。ほどなくして、薄暗かった旅館全体が温かな明かりに包まれる。
旅館はちょうど湖の隣で便利だった。ハルカたちは湖から水を汲み、机を拭き、床を磨いた。
厨房には調理器具が一通り揃っていたものの、保存されていた食材の多くはすでに傷んでいた。幸い米櫃の中にはまだ食べられる米が残っており、今日畑で取ってきた作物もある。数日分の食事には困らなさそうだった。
床掃除を終えたハルカが、ヒヨリの手伝いをしようと厨房へ入ったその時だった。
ふわりと米の香りが鼻をくすぐる。
視線を向けると、一つの鍋ではご飯が炊かれ、もう一つの鍋では完成した料理をヒヨリが皿へ盛り付けていた。
「わあっ!何、ヒヨリって料理できるの!?」
「え、ああ……ずっと一人暮らしだったし、たまに食堂の裏で――って、美味しい保証はないからな!」
ハルカは返事も聞かずに皿へ近寄ると、指で芋らしき具材を摘み、そのまま口へ放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼し、飲み込む。
「うん、美味しい!すごいじゃん!ヒヨリ、料理の才能あるんだね!」
「才能……?」
そんなことを言われたのは初めてだった。自分の作った料理を見下ろしながら、しばらく言葉を失う。
「おーい!ヒヨリがもう料理作ってくれてるよー!フクロは椅子を持ってきて!アルテミスはタマモを呼んできてー!」
ハルカはそう叫ぶと、そのまま厨房を飛び出していった。
「分かった!」
アルテミスは雑巾を置き、特に深く考えず二階へ向かった。
タマモの部屋の前で扉を叩く。しかし返事はない。不思議に思いながら扉を開けると、部屋にはまだ一本の蝋燭も灯されていなかった。
差し込む月明かりだけが室内を照らしている。寝台の上ではタマモが横向きに寝転がっていた。そして扉を開けたアルテミスを見て、鋭い目を向ける。
その瞬間、アルテミスはようやく気付いた。
――そういえば、タマモはまだ自分の人の姿を見たことがなかった。
慌てて何か説明しようと口を開きかけた時だった。
「おやおや。これはまた、ディーアティ・クロニクルはんやないの」
その一言で、アルテミスは逆に落ち着きを取り戻した。無言のまま扉口に立ち、複雑な表情でタマモを見つめる。
「やっぱりそうやったか。まあ安心し。今の妾はブリットンズとは何の縁もあらへんし、おぬしのことを吹聴するつもりもあらへんえ。戦うた時から怪しい思うておったけど、平安京での働きぶりもなかなか見事やったわ」
「……あなたは、平安京にはいなかったはずでしょう。どうして知っているの」
「妾はあの場にはおらなんだけど、見る術くらいは持っとるえ。間違いあらへん」
タマモはそれ以上説明する気はないらしく、話を続けた。
「せやけど皮肉なもんやのう……オリュンポス山があれほど苦心して生み出した存在が、まさかここまで落ちぶれてしもうたとはなあ」
アルテミスはワンピースの裾をぎゅっと握り締めた。
「……自分がどれだけ無力かは分かっている。全て、私自身の未熟さのせいだ」
少し俯き、それから真っ直ぐタマモを見る。
「でも……その言葉でハルカまで見下しているなら、私は認めない」
「ほう?」
「ハルカは強いわ。私とは違う。根印すら持たないのに、誰よりも強靭な心を持っている」
「ふふっ。ほんまに、おぬしはあの娘がドミネーターを倒せる思うておるのかえ?」
「……そう、信じたい」
アルテミスは迷わず答えた。
「それにタマモだって、好奇心があったから付いて来たんでしょう?」
「……なかなかよう言うやないの」
タマモは肩をすくめる。
「まあ、その話を否定する気はあらへんえ。少しくらい興味があるんも事実やしな。せやけど、それ以上に妾が気になっておるんはヒヨリの方や」
彼女はゆっくりと起き上がり、アルテミスの前まで歩み寄った。
「妾には一つ心当たりがあるのえ。ヒヨリの正体について、やけどな。おぬし、あの三人とはもっと前から一緒におったんやろう?ほな、ヒヨリがただの人類やあらへんことくらい、うすうす気付いておったはずや」
「それはもちろん。でも、何なのかは全く分からない……」
「ふふっ。それが普通やろうな。妾とて――」
そこまで言った瞬間だった。タマモの表情が変わる。弾かれたように窓の方を振り返り、鋭く外を睨んだ。
「っ……」
「えっ!?ど、どうしたの!?」
アルテミスも思わず身構える。
だが数秒後、タマモはゆっくりと肩の力を抜いた。
「……消えたかのう。何でもあらへんえ。ナタちゃんの脚なら、どのみち明日には戻って来るやろうしな。今夜の晩飯はヒヨリが作ったんやったな?まずはそれを、じっくり味わわせてもらうとするえ」
「……あ、うん……」
アルテミスはまだ釈然としないまま頷いた。




