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プロジェクト【サハ】  作者: 諸星佑月
【第二章】鬼も地獄も人の内

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虹の彼方へ

「うっ……はぁ……はぁ……はぁ……」

「フクロさん?大丈夫ですか?」

 卜部スエタケは慌ててフクロの身体を支えた。

 フクロは答えなかった。ただ荒い呼吸を繰り返しながら拳を固く握り締め、床板にはっきりと見えるほどの爪痕を残している。

「……そうか。俺は……やはり……」

「フクロ!」

 その時、部屋へ飛び込んできたのはヒヨリだった。見慣れない一枚の紙を手にしている。

「スエタケ、話はもう終わったか?」

「ああ、うん……」

「ならよかった!フクロ、見てくれよ。これ、セイメイが俺たちに残してくれたものなんだ!」

「……何だ」

 フクロはまるで何事もなかったかのように立ち上がった。

「なんか、たくさん契約を結べるようになるらしいんだ!ハタを使って遠くにいる仲間を呼び出せるとか!ハルカには根印(ねしるし)がないから使えなくて、俺かフクロのどっちかになるんだけど」

 一通り説明を聞くうちに、フクロもようやく落ち着きを取り戻したらしい。呼吸も普段通りになっていた。

「お前が使え」

「えっ、いいのか?」

「そういう契約は大量のハタを必要とするんだろう。だったらお前の方が向いている」

「じゃあ、そうするよ!それで、どうやって使うんだ?」

 卜部スエタケがここで彼に説明する。

「ヒヨリ、その手を出して、この紋様の中央に置いてみなさい。それから根印(ねしるし)を回してみなさい」

 ヒヨリは言われた通りに手を紙の上へ置いた。実際に触れてみると、それは普通の紙ではなかった。もっと柔らかく、滑らかな布のような感触だった。

 根印(ねしるし)を発動すると、紫色のハタが右手に流れ始める。すると黒い紋様がふわりと宙に浮かび上がった。紋様はゆっくりと縮小しながら、その複雑な模様をすべてヒヨリの腕へと流し込んでいく。最後には五芒星だけが残り、手の甲へ焼き付くように刻まれた。

 布の上からは紋様が完全に消え去り、代わりにヒヨリの右手の甲には黒い五芒星が浮かび上がっている。

「これで成功です」

「やった!ありがとうな。フクロお前――」

 だがフクロの意識はまったく別の場所に向いていた。自分が呼ばれたことすら聞こえていない。何を考えているのか、ただ静かに立ち込み、普段では考えられないほど緊張と動揺を浮かべた表情のまま、一言も発しなかった。

「……俺、来るタイミング悪かったかな」

「そんなことございません。先ほどナタさんも言っていました。あなたたちに与えられた時間は二日だけです。やることは早めに済ませておくべきですよ」

「うん……こんなにすぐ出発しなきゃいけないんだな……」

 そこでヒヨリはふと思い出したように言った。

「そういえば、俺たちが貫通トンネルを通るたびに見るあの夢、結局なんだったんだろうな」

 その言葉を聞いた瞬間、卜部スエタケははっと顔を上げた。

 そして信じられないものを見るような表情で問い返す。

「……えっ?本当ですか?あなたたちも貫通トンネルを通る時、異様な光景を見たというのですか?」

「スエタケも!?」

 ヒヨリがビックリして声を上げ、フクロも驚いたようだ。

 すると源ヨリミツが立ち上がり、話に加わる。

「スエタケは幻惑使いに任じられてから、何度かブリットンス本部へ向かうために貫通トンネルを利用しているのだ。通るたびに奇妙な光景が見えるとよく話していた。俺はてっきり、スエタケが生まれつきソルスへの感応が強いせいだと思っていたのだが……」

「安倍セイメイでも分からなかったのか?」

 尋ねたのはフクロだった。

「……あのお方はハタの扱いに長けたが、僕の見た光景を目にしたことはないそうです。精神系の術を専門としていたわけではありませんから。しかし……」

 卜部スエタケは腕を組み、深く考え込んだ。

「まさかあなたたち三人全員が見ていたとは……しかも根印(ねしるし)無き者まで。実に不可思議です」

「じゃあ、それが誰が残したものかは分からない?」

 ヒヨリの問いに卜部スエタケは首を横へ振った。

「それこそ、僕がずっと知りたいと思っていることです。ただ……あなたたちがこれからも旅を続けるなら、いつかそれらの主に辿り着いてほしい。貫通トンネルは宇宙の血管たるソルスと深く結び付いています。たとえ本人がすでに亡くなっていたとしても、ソルスへ直接繋がる者が無名であるはずがない」

 そこで一度言葉を切り、少し寂しげに微笑んだ。

「……もしその人物が今も生きているのなら。完全に僕個人の願いですが、一度会ってみたいものです」


 京の町では今日も復興作業が続いていた。

 木材を運ぶ者、壊れた家屋で炊き出しをする者、汗を拭う者、水を一気に飲み干す者。老若男女が忙しなく行き交っている。それでもどこか活気があり、二度も鬼の災害を乗り越えた人々の力強さが感じられた。

 その光景を見下ろすように、シュテンは大きな桜の木の上に腰掛けていた。満開の花々に隠れ、人々は誰も彼の存在に気付かない。

 片手に酒盃を持ちながら眺めるその表情は、どこか満ち足りていた。

「おっ、こんなところにいたんだ!」

 そこへツインテールの少女――ハルカが器用に登ってきて、隣へ腰を下ろした。

「……そういえば、ちゃんと話してなかったな。酒でも飲むか?」

「ルキウスとリツ(にー)に、まだ飲んじゃダメって言われてるからパス!」

「ははっ、誰だそれは」

 シュテンの機嫌が良いのは一目で分かった。だからこそハルカも遠慮なく尋ねる。

「ねえ、やっぱりシュテンって鬼じゃないんでしょ?その角は何なの?」

 シュテンはしばらく黙り、やがて盃を置いた。

「……この平安京において鬼とは、人の希望を壊す存在だ。宇宙における俺も似たようなものだ。だから鬼の姿をしていたところで、不思議はないさ」

 指先で酒の中に浮かぶ花弁を摘み上げる。

「俺はな、本来従うべきルールに背いた。その罰みたいなものだ。ずっと声が聞こえている。いつから聞こえているのかも、もう覚えていない。不快で、耳障りで、絶えず意識を鈍らせる声だ。俺を深淵へ、底の見えない闇へ引きずり込もうとしてくる」

 花弁をそっと吹き飛ばしながら、シュテンは続けた。

「蘆屋ドウマンに身体を奪われたのも、俺自身に責任がある。もう疲れていたんだ。罰を受け続けることに」

「へえ?じゃあ私たちとイバラキは余計なお世話だった?」

「……以前の俺なら、そう思っていたかもしれないな」

 シュテンはハルカの頭へ手を伸ばし、優しく髪を撫でた。ハルカも嬉しそうに身を任せる。

「ちゃんと生きろよ、ハルカ、全力でな。お前たちを見て思い出したんだ。俺は、そうやって必死に生きる奴らを見たかったからこそ、あのルールに逆らったんだってな」

「えへへ!やっぱり私の勘は当たってた!シュテンっていい男だよ!」

「……はは」

 その頃、買い出しの帰りだったチヨは遠くからその様子を目にしていた。

 水色の浴衣を纏った黒髪の少女は、二人を見て口元を隠しながらくすりと笑う。

「本当に面白いトランスグレッサーたちね、世界破壊者(デストロイヤー)と仲良くなれるなんて……名前を聞き忘れてしまったけれど、きっとまた会えるよね」

 その口調は、いつものチヨとはまるで別人のものだった。


 そして二日後。

 この二日ほど、かなり強い雨が降り続いていた。建物の修復作業には多少支障が出ていたものの、その雨のおかげで平安京のあちこちには色とりどりの紫陽花が咲き誇り、実に美しい景色が広がっていた。

 そしてこの日の朝、ようやく空は晴れ渡る。紫陽花の花びらや青々とした葉の上には露がきらきらと輝き、まるで宝石を散りばめたかのようだった。

 空には、一本の儚げな虹が架かっていた。

 もう、悪夢のような血雨は、過ぎたことだ。

 第四空間(フォース)への入口へ向かう道を歩く一行には、ナタ、源ヨリミツ、そしてなぜかタマモまで加わっていた。

「何ぞ問題でもあるのかえ?それに妾はヒヨリと別れとうおへんのや」

 本人はそう言うが、同行を巡ってはナタとかなり揉めたらしい。それでも結局、この狡猾な狐を止めることはできなかった。

「ちっ、忌々しいダッキめ……。まあいい。向こうで正体が露見したらただでは済まんぞ」

 ナタはそう吐き捨てると、先頭に立って歩き出した。

 山道は遠回りだったが、急ぐ旅でもない。晴れ渡った空の下、森の空気は澄み渡り、息を吸うだけで胸が洗われるようだった。

 しばらく歩いたところで、源ヨリミツがふと口を開く。

「今さらかもしれないが、一つ聞いてもよいだろうか。君たちは……この平安京を、この世界をどう思った?」

 三人は顔を見合わせた。

 源ヨリミツは少しだけ遠くを見るような目をする。

「俺は、この地で生まれ、この地で育った。十年前、初めて鬼の災害が起きた時は恐ろしくて仕方がなかった。唯一の故郷を失うのが怖かったのだ。だからセイメイに縋り、この世界との繋がりを守ろうとした。そしてその後の十年は、こんな幼い姿の俺を皆がどう見るのか、不安でもあった」

 ヒヨリは少し迷った末に言う。

「……ヨリミツ大将も、人の目を気にするのね」

「当然だ。京を治める者が民の想いを顧みない方が、よほど未熟だろう」

 それを聞いてヒヨリは微笑んだ。

「でも、俺たちがこの平安京に来た初日の夜、屋台のおじさんも、甘味処のチヨも、みんなヨリミツ大将のこと話してくれた。将軍様が京を治めるようになってから暮らしが良くなったって、花火大会にも来るんだって――ヨリミツ大将は、京の人たちのことを大切に思っているし、京の人たちもヨリミツ大将のことを大切に思っているね」

 源ヨリミツは、呆然としたように金髪の少年を見つめた。

「想う、想われる。これ以上最高なことはないだろう!」

 その横でハルカは満足そうに頷き、肘でフクロを小突く。フクロはただため息をついただけだった。

【……あなたたちは、本当にすごいな。まさか源氏と、こんな関係になれるなんて】

「ん?どうしたの、アルテミス。今さら私たちの凄さに気付いたの?」

 ハルカはそう言って笑った。

「だから言ったじゃん。わざわざ自分を隠してる必要なんてないんだって。みんなとももっと話せばよかったのに!次の世界に着いたら、今度はもっと表に出てきなよ!」

【……そう、だな】

 歩き続ける一行を後ろから見つめながら、ナタは複雑な表情を浮かべる。

「気に入ったんやろう?」

 タマモが隣で言った。

第四空間(フォース)には、こんな連中はおらぬからのう」

「……それ以上喋るなら焼くぞ、ダッキ。オレは今でも、あのお方が間違っていたとは思っていない」

「せやけど、正しかったいうわけでもあらへん。まさかおぬしがこないな決断をするとはのう。本気なんかえ?」

 ナタは拳を握り締める。

「……責任はオレが取る。目的は最初から変わっていない」

「そうかえ……」

 タマモは小さくため息をついた。

「昔から、それがおぬしのええところでもあり、いっとう大きな弱みでもあるのじゃ、ナタちゃん」

 やがて一行は広い河原へ辿り着いた。岩の間を流れる小川を越えた先が目的地だった。

 ナタは振り返って宣言する。

「よし、最後に言っておく。これからオマエたちは第四空間(フォース)へ向かう。オレでも直接第五空間(フィフス)へ送るのは難しい。しばらくはあちらで過ごすことになる。絶対に目立つな。目立てば死ぬ。分かったな?」

「分かった!」

 ハルカは元気よく手を挙げた。

「バレたら戦えばいいんでしょ!」

 ――全然分かっていない。

 その場の全員が同じことを思った。

 ナタは深いため息をつくと、火尖槍を呼び出し、大きく虚空を薙ぎ払った。そこに波紋が広がり、その中心に虹色の光を湛えた裂け目が現れる。

 第四空間(フォース)への門だった。

「――それでは」

 源ヨリミツが少し寂しそうに手を振る。

「見送りはここまでだ」

「うん!本当にありがとう!」

 ハルカも力いっぱい手を振り返した。

「平安京に来られて最高だった!私、この世界好き!ヨリミツ大将!みんな!本当にありがとう!」


 人と鬼。善と悪。

 互いに異なる者たちを生み出しながら、それでも世界は続いていく。

 世界の理は、人々を遠ざけるためにあるのか。それとも理解し合わせるためにあるのか。

 その答えは、まだ誰にも分からない。


「他人と分かり合う――そういう行いは、私はどちらかといえば愚かな部類に入ると思っている。だが、それで構わない。愚かなものにもまた、美しさは宿るものだからな。芋虫は蝶へと姿を変え、泥の中の貝は真珠を生み出す……まあ、それと似たような話だ」

「だが……少々順調すぎるな。より苛烈な試練があってこそ、より鮮やかな虹は架かるものだ」

「この先はそう甘くはないぞ。もっとも、私も悪魔ではない。まあ、半分は悪魔だが」

「もし次の世界を乗り越えられたなら――少しくらいは手を貸してやろう。義理もあることだしな」

「さあ、見せてみろ。君たちの歩む道が、いったいどの宇宙まで続いているのかを」


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