黒雷の記憶
ナタが一人で立ち去ったあと、庭の向こうに、ちょうど渡辺ツナと別れたばかりのイバラキの姿が見えた。イバラキもこちらに気づいたらしく、少し迷った様子で頭を下げて挨拶する。
その反応を見たナタは、そのまま庭へ飛び降り、イバラキの前まで歩み寄った。
「よう、後輩」
「……前から聞きたかった。オマエは、一体何者なんだ?」
イバラキは新たに得た右腕を持ち上げる。自分の肉体ではないはずなのに、まるで生まれつきそうであったかのように馴染んでいるその腕が、今なお不思議でならなかった。
「どうやら何も知らないみたいだな。オマエ、その太腿の紋様は生まれつきだろ?それに、オマエの母親はオマエを身ごもった時、異常なほど長い期間妊娠していなかったか?」
「……そうだ。どうしてそんなことまで知っている?」
「知りたいか?ならまずは先輩って呼べ!」
「……ナタ先輩」
「よし!もう一回!」
「ナタ先輩」
「ふふん!よろしい!」
得意げなその様子は、まるで普通の子供そのものだった。
「コホン。イバラキ、オマエも自分の力が特別だってことくらいは気づいているだろう。オマエの力は普通のハタじゃない。ある種の元素なんだ」
「元素……?」
「ハタは宇宙で最も普遍的なエネルギーだ。だが、宇宙に存在する力はそれだけじゃない。宇宙誕生以来の長い歴史の中で、元素を扱える者――元素使いはごくわずかしか存在しない。オマエが扱っているのはヴィジュ元素というものだ。その性質の一つはハタを消し去ること。そしてヴィジュ元素使いには、生まれつき身体のどこかに特別な紋様があり、母胎の中で異常なほど長い時間を過ごすという特徴がある」
イバラキは呆然とその説明を聞いていた。やがて自分の両手を見つめ、静かに掌を開く。
「……つまり、この特別な力は……母さんが苦しんでくれたからこそボクに与えたものなんだな」
「そうだ」
「……そうか……そうだったのか……」
イバラキは自分の身体を抱きしめるように腕を回し、うつむいた。ナタには彼がどんな過去を抱えているのか分からなかったが、今は何も言わず、その事実を受け止める時間を与えた。
しばらくしてイバラキが顔を上げる。
「……ナタ先輩も、ヴィジュ元素使いだったのか?」
「お、察しがいいな。正確には元、ヴィジュ元素使いだ。どういうわけか、オレの知る限り、ヴィジュ元素使いはいつも宇宙に一人しか存在できない。数日前、オマエの右腕を再生するためにオレの力は全部使い切った。ほら見ろ、身体の紋様も綺麗さっぱり消えただろ?」
「それじゃあ……!」
「慌てるな。オレはずっと前から力が少しずつ失われているのを感じていたし、十分すぎるほど長く生きた。数え切れない戦いにも勝ってきた。いつかこうなることは分かっていたんだ。最後にかわいい後輩を助けられたなら、それで十分だ。オマエが気に病む必要なんてどこにもない」
「……ありがとう、ナタ先輩」
イバラキは深々と頭を下げた。
「気にするなって。まあ正直、この力についてはな……オマエが一生、本当に必要になる場面に出会わないのが一番だと思ってる」
「どうしてだ?」
「考えてみろよ。宇宙にとって最も重要なエネルギーであるハタを打ち消す力なんて、どうして存在しているんだ?それ自体が妙な話だろ」
「……そこまでは考えたことがなかった。今のボクは、この力のおかげでシュテンを助けられたし、ヒヨリも助けられた。それだけで十分感謝している」
その答えに、ナタは安心したように笑った。
「そうか。ならそのままでいろよ。そうやって純粋な心を失うな、後輩。オマエみたいな奴がこの力を継いでくれて、オレも安心したぜ」
「……ハルカ」
呼ばれて振り返った少女は、不思議そうにヒヨリを見た。
「ごめん。あんなことになって……もしまた俺が……」
「またなったら、その時はもう一回ぶん殴って起こせばいいだけでしょ?」
ハルカは笑いながら彼の肩を叩く。
「そんなの大したことじゃないよ。これから一緒に冒険する仲間なんだから、それくらい!」
全身にはまだ包帯が巻かれている。その姿を見るたび、ヒヨリの胸には申し訳なさが込み上げた。
「おいおい、まさか私がヒヨリに勝てないとか思ってないよね?」
「い、いや、そんなことは……」
「だったらいつも通り笑ってればいいの。終わったことをいつまでも気にされる方が、私は困るんだから」
「……うん。分かった。ありがとう、ハルカ」
「フクロにもちゃんとお礼言っときなよ。ヨリミツ大将たちとの話が終わったら、向こうへ戻ろう」
「待たんかいな、ヒヨリ~」
後ろからタマモが抱きついてくる。
「妾のことはどうするんや? あれだけ世話してやったいうのに、お礼もなしやなんて、つれない子やこと」
「もちろん感謝してるけど……だから師匠、いつもそうやって擦りつけないでくれ。師匠の胸がもう十分……」
「十分、何なんやえ?」
「……からかわないでよ……」
やがて三人は、安倍セイメイがトランスグレッサーたちのために残した品が保管されている部屋へ向かった。
室内には何もなく、低い机の上に奇妙な五芒星のような紋様が描かれた一枚の紙が置かれているだけだった。
「セイメイが残したものって、これ?」
ハルカが首を傾げる。
「ほう……こらまた、えらい代物やこと」
タマモの目が輝いた。
「これはな、セイメイがすべての神祇契約を解いたあとに残った、根印の残骸なんやえ」
ハルカとヒヨリは同時に首を傾げた。
タマモはため息をつきながら説明を始める。
「まず神祇契約いうんはな、根印を持つ者同士が名を交わして契りを結ぶことを言うんや。契約を結んだ相手は式神となる。式神はどこにおっても呼び出せるし、一つや二つ、あるいはそれ以上の世界を隔てておっても、神祇契約は主と式神との距離をものともせんのやえ」
「めっちゃすごいじゃないか!」
「せやけどな、どれほどの距離を越えられるか、召喚にどれだけの時間やハタが要るかは、みな根印の強さとハタの量次第なんや。根印が凡庸やったら使役できる式神もせいぜい一体が限度やろし、別世界から呼び出すなんて夢のまた夢やろなぁ」
さらにタマモは続ける。
「根印いうもんも、もとは人の身に宿る器官の一つや。特別な術で精製すれば、その残骸を取り出すこともできる。そして、残骸には元の根印の性質がある程度残るんやえ。生まれつき凡庸な根印しか持たぬ者でも、強者の根印残骸を取り込めば、大きゅう化けることもある。まして安倍セイメイの根印ともなれば別格じゃ。あやつの根印は、まるで神祇契約を結ぶために生まれてきたような代物でな。聞くところによれば、十体を超える式神と契約しておきながら、それでも軽々と使いこなしておったそうや」
ヒヨリは改めて五芒星を見つめた。
「つまり、おぬしたちはセイメイに心底見込まれておったいうことじゃ。この品を闇市に持ち込めば、小さな空間一つ買えるほどの値が付くやもしれぬのう」
二人は言葉を失った。
安倍セイメイが最後に残した応援が、ここまで重い意味を持っていたとは思わなかったのだ。
「だったら大事に使わないとね。セイメイの気持ちなんだから。でも私は根印がないし……使うならヒヨリかフクロかな?」
「うん。フクロと相談してみるよ」
大太刀・天譴は今も鞘に収められたまま、三人の間に静かに横たわっていた。フクロがこの刀を受け取った時と同じように、刀の片側には源ヨリミツと卜部スエタケが座り、反対側にはフクロが座している。
坂田キントキと碓井サダミツの姿はそこにはなかった。二人はといえば、いつの間にかどこかへ消え、タマモがどれほど男心をくすぐる絶世の美女かという、どうしようもない話題に花を咲かせているらしかった。
「どうだ、フクロ。天譴の使い心地は」
「強力だな。長さは別格だが俺には問題ない。本当にこんな残刻器をくれるのか?薄緑まで含めれば随分気前がいい」
源ヨリミツは穏やかに笑った。
「力を貸してもらったんだから、礼をするのは当然だ。それに天譴は、元々源氏の所有物ではない。昔、天国という刀工が打った刀で、かつては平家という……まあ、因縁がある一族が使っていた。言わば戦利品だ。普通の刀と違ってツナにも扱いづらかったし、私にはなおさらだ。もし君たちが本当にドミネーターを討とうというなら、君たちが強くなることは俺たちにとっても望ましい」
フクロは頷いた。
「その言い方の方が安心できる。だが、これまでの残刻器はそちらが勝手に報酬として渡してきたものだ。なら、俺にも俺なりに望む報酬がある」
「ははは!君のその性格じゃ、付き合いづらいと思う奴も多そうだな。だが、俺は別に構わんさ。一方的に贈り物を押し付けたところで、君の気に入るかどうかも分からんからな。さあ、何を望む?」
フクロは自分の頭に手を当てた。
「前も少し話したが、俺は、記憶を失っている。なぜ失ったのか、何を失ったのか知りたい」
それを聞いた卜部スエタケが前へ出る。
「原因の分からぬ記憶喪失ですか。それでしたら、僕がお力になれるかもしれません」
そのとき、卜部スエタケが口を開いた。源ヨリミツに軽く頷きかけると立ち上がり、フクロの傍まで歩み寄って正座する。
「もし構わないのでしたら、一度調べさせていただけませんか」
「ああ。できる範囲でいい」
卜部スエタケは直接戦う力こそ持たないが、先の戦いを見ていたフクロには、彼が並外れた術者であることは十分に分かっていた。
そっとフクロの額に手を当て、静かに目を閉じる。すると紫色のハタがゆるやかに流れ出し、フクロの頭の周囲を巡り始めた。
「ぐっ!」
手が弾かれた。
「どうした?」
「……フクロさん。あなたは記憶を失ったのではない」
卜部スエタケは険しい表情で言う。
「あなたの記憶は、封印されている。それも、異常なほど強力な封印だ」
「それは……具体的にどれほど強力な封印なんだ?」
「自慢するつもりはありませんが、僕はブリットンスの王に選ばれて幻惑使いとなった身です。それなりの実力はあると自負しておりますし、あの蘆屋ドウマンすら欺くことができました。しかし――あなたの脳に施された記憶封印は、僕でも完全には解くことができません……この意味がお分かりですか?」
フクロは黙り込んだ。
その深刻さは理解できた。しかし、まさかそこまで強固なものだとは思ってもいなかった。
「もっとも――」
卜部スエタケはそこで言葉を切り、続ける。
「この封印にはごく小さな綻びがあります。あなたは以前、何らかの衝撃を受けたことで記憶を思い出したことはありませんか?」
「ある。第二空間で、初めて薄緑を抜いた時だ。あの時、断片的にだが記憶が蘇った」
「なるほど……今の薄緑には破壊性の強いハタが染みついていますからね。おそらくそれが作用したのでしょう。でしたら、その綻びを足掛かりに、できる限り封印を崩してみましょう。完全に解くことは難しいでしょうが」
「頼む」
卜部スエタケは再びフクロの額へ手を当てた。固く目を閉じ、精神を集中させながらハタを練り上げていく。
紫のハタは次第に広がり、やがて二人の身体をすっかり包み込んだ。
フクロもまた静かに目を閉じた。
意識の中は、真っ暗だった。
「……け……」
声が聞こえる。そして、ぼんやりと映像が浮かび上がった。次第に鮮明になっていく。
ここは……誰かの家か……?
赤子を抱く女。その後ろには、一人の男。
「――駄目だ」
……今の声は、俺の声か?
「い、嫌です!お願いです……!この子の分まで私が戦います!どうか、お許しください……!」
「――その腕の中のものに生きる価値はない。後ろの男も同じだ。逆らうと、お前も同罪にする」
「どうして……どうしてですか?!この子は生まれたばかりなんです!まだちゃんとこの世界を見ることすらできていないのに……!!」
「お願いだ!全部俺の責任だ!殺すなら俺だけにしてくれ!妻と子だけは見逃してくれ!どんな罰でも受ける!だからせめて――!」
黒い雷。
見慣れている。よく知っている。俺の力だ。
漆黒の雷光が走り、男の首を斬り落とした。
「……あ……あぁ……いや……いやああああああああああっ!!」
女の絶叫は途中で途切れた。
不吉な黒雷が、その首をも奪い去ったからだ。
目を覚ました赤子が泣き始める。
白い布に包まれた、小さくか弱い命。
そして――。
振り下ろされる刃。
赤子の身体は黒く焼き焦げ、炭のようになって動かなくなった。
「よくやった」
背後から、聞き覚えのない男の声が響く。
「まだおよそ三百人残っている。すべて殺せ」
「――承知」
黒雷の轟く音。
耳にこびりつくほど聞き続けた音。
死体で埋め尽くされた道を、俺自身の足が踏みしめている。
……これは。
……俺、なのか……?
両手は血で真っ赤に染まっていた。
止まらない。いつまでも流れ続ける、他人の血だ。




