白蓮の舞
「アアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
化け物の咆哮とともに、燎原の炎が大地を呑み込んだ。燃え盛る業火は京の半分を覆い尽くし、その異常な熱量があらゆるものを焼き尽くしていく。砕けた木片も瓦礫も次々と火を帯び、暴虐な炎はさらに勢いを増していた。
常軌を逸している。先ほどの蘆屋ドウマンでさえ、これほど広範囲に結界を展開してはいなかった。
「全員こっちへ来い!虹の守護者――樹界展開!」
ハルカが叫ぶと、白い粒子が収束して銀色の金属製のカイトシールドとなり、地面へ叩き込まれた。その瞬間、盾の中央から光が枝のように四方へ伸び、瞬く間に天を衝く巨樹へと成長する。大樹は壁となって狂乱する炎を押し返したが、それでも盾の向こうから押し寄せる熱気は肌を焼くほどだった。
「ちっ……ヒヨリのやつ、本当にとんでもねえな……!」
ハルカは歯を食いしばりながら出力を緩めない。イバラキもまた信じられない顔だった。
「なんというハタだ……まさかここまで膨れ上がるとは……」
その時、坂田キントキが怪童丸を地面へ叩きつけた。ヒヨリの足元の大地が瞬時に泥濘へと変わり、巨大な沼となって彼の身体を呑み込もうとする。不意を突かれて体勢を崩したヒヨリは、一瞬だけ動きを止めた。
「よくやったキントキ!行くぞ!」
源ヨリミツの号令とともに坂田キントキが飛び出し、怪童丸を全力で振り抜く。ヒヨリの身体は吹き飛ばされた。しかし、坂田キントキは斧に薄く張り付いた氷を見て舌打ちする。
「……なるほどな」
ヒヨリは直撃する寸前に清淼を発動し、衝撃の大半を受け流していたのだ。
そこへ碓井サダミツと渡辺ツナが追撃を重ねる。青い雷光を纏った碓氷鎌が振り下ろされ、蒼白い雷撃がヒヨリの身体を撃ち抜いた。その一瞬の硬直を逃さず、渡辺ツナの刀が紅い軌跡を描く。峰打ちとは思えぬほどの衝撃が炸裂し、ヒヨリの身体は京の外の山林まで吹き飛ばされた。遠方で山肌が震え、巨大な岩塊がいくつも崩れ落ちる。
「イバラキ!今だ!」
渡辺ツナが叫んだが、返ってきたのは切迫した警告だった。
「後ろ!!」
反応する間もなかった。何者かに頭を掴まれたと思った瞬間、渡辺ツナの身体は凄まじい勢いで投げ飛ばされる。ヒヨリはすでに山中から戻ってきていた。
さらに右側では碓井サダミツが雷撃を放とうとしていたが、その前にヒヨリが地面を踏み抜く。瞬間、凍気の波が大地を駆け抜けた。氷は雷よりも早く碓井サダミツへ到達し、彼は即座に瞬間移動で回避したものの、着地した時には片脚が膝下まで凍り付いていた。
その直後、紫色の矢が幾筋も空を裂く。卜部スエタケの放った幻術の矢だった。なのにヒヨリは微動だにしない。遠方で弓を構えたまま、卜部スエタケは苦々しく呟いた。
「……幻術が効かない。五感そのものを使っていない……もはや本能だけで動いているのか……」
ヒヨリが僅かによろめいた。その足元では再び泥沼が現れ、身体を引きずり込もうとしている。坂田キントキが巨大な斧を振り上げると、周囲の土砂が生き物のように蠢き、人の掌のような形となってヒヨリを包み込んだ。幾重にも重なる土塊は巨大な牢獄となり、ついにその動きを封じ込めたかに見えた。
だが、天を衝く炎が土牢を内側から粉砕する。爆炎の中心で、ヒヨリは静かに右手を掲げていた。その掌の上には巨大な火球が浮かんでいる。
いや、巨大などという言葉では足りない。火球はなおも膨張を続けていた。まるで空そのものを覆い尽くそうとする第二の太陽のように、その影が京全域へ落ちていく。
誰も言葉を失った。
「……」
アルテミスの震える声だけが響く。
【こ……これは……ヒヨリ、一体どれだけのハタを持っているの……どうしてこんな存在が、第一空間なんかにいるの……?】
ハルカは渡辺ツナたちのもとへ駆け寄ろうとしたが、間に合わない。
逃げ場はなかった。
逃げ切る力もなかった。
ヒヨリの血のように赤い瞳には、もはや意識の欠片すら残っていない。ただ本能のままに右手を振り下ろす。
天を覆う灼熱の火球が、まるで隕石のように落下を始める。
「――日月同生、千霊重元!」
聞き慣れない声が空に響く。しかし予想していた灼熱は訪れなかった。
ハルカが顔を上げる。そこには小さな人影が浮かんでいた。
黄金の円環を掲げ、その身一つで空を覆う巨大な火球を受け止めている。
「急急如律令!」
黄金の円環が高速で回転を始めた。すると信じられないことに、京を覆っていた巨大な火球が円環へと吸い込まれていく。天を覆う影はみるみる縮小し、やがて完全に消え失せた。本来の陽光が再び大地へ降り注ぎ、人々の身体を照らす。
「あ、あんた……ナタ!?」
空中に立つ少年はハルカに振り返りもしない。
「勘違いするなよ、トランスグレッサー。これは特例だ。今は第三空間が危機に瀕している。だからこそ、このオレが手を貸したに過ぎん」
そう言いながらも、ナタはなお黄金の円環を回し続けていた。
隕石にも等しい巨大な火球が完全に吸い尽くされる。だがヒヨリは止まらなかった。彼はゆっくりと両腕を広げると、そのまま前方へ振り下ろす。
そして、空一面に無数の火球が現れた。
先ほどのものと比べれば小さい。だが、それでも一つ一つの直径は五メートルを優に超えている。灼熱の火球群はヒヨリの意思に従うかのように一斉に降下を始め、流星雨となって京へ襲いかかった。
「ちっ!」
乾坤圏が大きく弧を描いてナタの手元へ戻る。
「おい!オマエたちの仲間はハタが尽きるってことがないのか!?」
火球は凄まじい速度で地上へ迫る。しかし状況は最悪だった。先ほどヒヨリの反撃を受けたことで、全員が互いに離れた場所へ吹き飛ばされている。援護し合うことも難しい。
「くそっ……!」
ハルカは片膝をつきながら盾を構えた。
火球が次々と激突するたびに轟音が響き、爆炎が荒れ狂う。銀色の盾は激しく震え続け、衝撃のたびにハルカの身体は少しずつ地面へ押し込まれていった。それでも彼女は決して盾を下ろさない。
一方、源ヨリミツは真っ先に動いていた。降り注ぐ火球の隙間を縫うように駆け抜け、そのまま一直線にヒヨリへ迫る。金色の刀光が幾度も閃き、肩を、胸を、脇腹を切り裂いた。鮮血が舞う。しかし次の瞬間には裂けた肉が蠢き、傷口は跡形もなく塞がっていた。
シュテンでさえ。蘆屋ドウマンでさえ。決定打を与えられなかった異常な再生能力。暴走した今のヒヨリは、それをさらに上回っていた。
源ヨリミツは振り下ろされた利爪を刀で受け止める。激しい衝撃が走り、空気そのものが震えた。
その様子を見ながら、イバラキは唇を強く噛み締める。本当なら今すぐ動きたかった。だが動けない。今の戦場はあまりにも混乱としている。ここで能力を使えば、ヒヨリだけではなく味方のハタまで巻き込んで消してしまう可能性があった。そうなれば状況はさらに悪化するだけだ。
イバラキは残された左手で、失った右腕の断端を強く握り締めた。
「おい」
不意に声を掛けられる。振り向くと、そこにはナタが立っていた。
まだ二度しか顔を合わせていない、異世界から来た少年だった。
「オマエ、名前は?」
「……イバラキだ」
「そうか。やはり右腕を失った影響は大きいようだな。根印は全身に張り巡らされた器官だ。右腕を失うということは、その分の根印も失うということになる」
「……ボクは、自分のしたことを後悔しているわけじゃない。ただ、自分の無力さが情けないだけだ」
「ほう?自分が無能だったと思うのか。世界が残酷だったとは思わないのか?」
「……この世に、たった一人でもボクに生きていてほしいと思ってくれる奴がいるなら、この世界は残酷なんかじゃない。結局、人が死んだ後に残せるものなんて、自分を知る誰かの記憶くらいなものだろ。母さんが、そうであったように」
やがてナタはふっと笑った。どこか肩の荷が下りたような、晴れやかな笑みだった。
「なるほどな」
そう呟くと、彼はイバラキの前まで歩み寄る。そして何の躊躇いもなく右手を伸ばし、その右肩へそっと置いた。
「いい答えだ、後輩」
少年の口元が不敵に吊り上がる。
「ならば――このオレが手を貸してやろうじゃないか」
どうやら蘆屋ドウマンとの戦いで力を使い果たしていたらしい。源ヨリミツの瞳からはいつの間にか黄金の輝きが消え失せていた。もはや暴走したヒヨリの猛攻を正面から受け止め続けることはできない。
雷光が閃く。碓井サダミツは咄嗟に源ヨリミツを抱えるようにして戦線から引き離し、そのままハルカの盾の後方へと退避させた。
ヒヨリの赤い瞳がそれを追う。無数の氷刃が空中に展開された。それらは雨のようにハルカへ降り注ぐ。氷刃はハルカの防御へ突き刺さり、砕け散り、また新たな氷刃が襲いかかる。そのほとんどは防がれていたが、数があまりにも多すぎた。
「ハルカ!」
叫んだのはフクロだった。
しかしハルカは苦しそうに息を吐きながらも無理やり笑った。
「大丈夫だって……!ヒヨリに本当に誰かを傷つけさせるわけにはいかないだろ……!もし取り返しのつかないことをさせたら……あいつ、もう二度と自分のやりたいことをできなくなるじゃないか……!」
盾が軋む。地面が砕ける。
それでもハルカは最後まで立ち続けた。全ての攻撃を受け切った頃には肩で荒く息をしていたが、それでも盾を下ろそうとはしない。
ヒヨリは血のように赤い瞳でハルカを見つめ、そしてゆっくりと、一歩を踏み出した。
【ハルカ!もう十分だ!限界だよ!】
アルテミスの悲鳴にも似た声が響く。
【何度言わせるの!?無茶は駄目だって!】
「でも……!」
ハルカが言い返そうとした、その時だった。
「もういい、トランスグレッサー!」
背後からナタの声が響く。
ハルカは振り返り、そこでその光景に気付く。
いつの間にかナタは半ば膝をついていたイバラキから距離を取っていた。そして先ほどまでナタの右腕に浮かんでいた淡い桃色の紋様が消えている。代わりにイバラキの右脚に浮かぶ紋様が強く輝いていた。
それだけではない。失われていたはずの右腕が、再びイバラキの肩から伸びていた。
もちろん肉体ではない。無数の白い粒子が集まり、腕の形を作っている。まるで光そのものが新たな右腕として結晶したかのようだった。
イバラキはゆっくりと立ち上がる。周囲には白い光の粒が舞い、淡黄色の振袖と長い髪が風に揺れた。どこからともなく鈴の音が聞こえてくる。その澄んだ音色は、荒れ狂う戦場の中ではあまりにも神聖だった。
「人世と彼世を繋ぐもの――我が祈りを聞き届けよ」
イバラキは、舞い始めた。
流れるように袖を翻し、静かに足を運ぶ。その所作はあまりにも優美で、見る者の視線を自然と奪う。男とも女ともつかぬ整った容貌は、その舞をさらに幻想的なものへ変えていた。
人と鬼が絡み合い続ける平安京に、人でありながら鬼の名を持ち、鬼でありながら人の心を持つ。どちらにも属しながら、どちらにも属しきれなかった存在。その狭間を歩き続けた者が、今この瞬間、自らの在り方を世界へ示していた。
「遠つ神の御代より流れし理よ、今ここにその姿を現したまえ」
「地に伏す穢れを祓い、天に満つ災いを鎮めたまえ」
「閉ざされし門を開き、忘れ去られし声を導きたまえ」
「留まるものは留まり、去るべきものは彼方へ還りたまえ」
「清きは清きへ、濁れるは濁れるへ、そのあるべき姿へ帰したまえ」
「境を越えしものを裁き、理を乱すものを飲み込みたまえ」
「我が身を依り代とし、我が魂を媒介とし、自ら原初に生まれし裁定の杵よ、ここに顕れ、あらゆる穢れを連れ去れ!」
「絶命――」
「――撲朔迷離・鬼神殤」
ヒヨリの足元から無数の白蓮が咲き始めた。
どこまでも広がる白い花々。戦場であることを忘れさせるほど幻想的な光景だった。白蓮は風もないのに静かに揺れ、まるで現世そのものが浄土へ変わっていくかのように広がっていく。
さすがのヒヨリも動きを止めた。赤い瞳を揺らしながら周囲を見回す。
そして、天より巨大な白き神杵が降臨し、ヒヨリの身体を貫く。
誰もが息を呑んだ。
だが血は流れない。肉も裂けない。神杵には実体が存在していなかった。
それでも効果は明らかだった。ヒヨリの身体を取り巻いていた膨大なハタが、目に見えて流出していく。まるで底の抜けた器から水が溢れ続けるように。
「……成功だ!」
イバラキの表情には確かな手応えがあった。
「後は意識を失わせればいい!」
ヒヨリの身体が大きくよろめく。誰もが終わりを期待した。だが暴走する化け物は再び地面を蹴った。
一瞬でハルカの眼前まで迫るが、その前に立ちはだかった影があった。
フクロだった。
彼は刀でヒヨリの攻撃を受け止める。だがヒヨリは刃など意に介さない。素手のまま刀身を掴み、そのまま力任せに押し込んでいく。掌から血が流れても構わず、獣のような膂力でフクロを後退させていく。
それでもフクロは視線を逸らさなかった。
「……お前なあ」
怒りとも悲しみともつかない声が漏れる。
「いい加減目を覚ませよ、この馬鹿が!」
フクロは、頭から突っ込んだ。
額と額が激突する。
鈍い衝撃音が響き、ヒヨリは思わず刀を離して数歩後退した。額を押さえるヒヨリに向かって、フクロは堰を切ったように怒鳴る。
「お前の覚悟はそんなものだったのかよ、ヒヨリ!お前のそのお人好しは全部嘘だったのか!?俺みたいな、お前に何の関係もなかった奴ですら放っておけなくて、助けるために必死になってたくせに!結局それも全部口だけだったっていうのかよ!!」
そう叫ぶや否や、フクロは左手から天譴を放し、そのまま拳を振り抜いた。
拳はヒヨリの顔面に叩き込まれる。鈍い音が響くが、ヒヨリも即座に反撃した。
拳がフクロの胸へ深くめり込み、その身体を大きく揺らす。それでもフクロは退かなかった。真っ直ぐヒヨリを睨み据えたまま、苦しげに息を吐きながら叫ぶ。
「……聞こえてるんだろ」
そして魂を叩きつけるように声を張り上げた。
「さっさと目を覚ませ!軟弱者が!!」
ヒヨリはビックリして後ろを見た。
「フクロ……?」
【あいつがそんなことを言うとはな。珍しいこともあるものだ】
その声を聞きながら、ヒヨリは静かに視線を落とした。
「……違う」
【何がだ?】
「俺はもう、昔の俺と違う。今の俺には、たくさんのものがあるんだ」
ハルカの顔が浮かぶ。
フクロの顔が浮かぶ。
旅の途中で出会った人々の顔が浮かぶ。
楽しいことばかりではなかった。失ったものもあった。悲しいことも苦しいことも数え切れないほどあった。それでも気がつけば、自分の周りには大切なものがたくさん増えていた。
【そうか。だが、その程度の繋がりなど簡単に切れるぞ。永遠に続くと思っているのか?別れは必ず来る、お前がどれほど願おうとな】
「来ないなんて思ってない。でも、切らせない。俺は、悲しい別れを止める、何があっても」
【……お前がそう思っていても、相手が同じ気持ちとは限らない。期待すればするほど苦しくなるぞ、傷つくのはお前だ】
「そんなこと、分からないだろ。少なくとも今は、一緒に痛みを背負ってくれる奴らがいる。一人じゃないんだ。それだけで十分だよ」
【……ふん】
フクロの拳がヒヨリの顔へ届く寸前で止まる。
いや、止められていた。ヒヨリがその拳をしっかりと握っていたのだ。あれほど禍々しく染まっていた瞳が、いつの間にか元の青色へ戻っていることに。
「……うるさいんだよ」
掠れた声だった。
「ほんと……お前らしく……ねぇな……」
それだけ言うと、ヒヨリの身体から一気に力が抜けた。膝が崩れ、上体が傾き、そのまま後方へ倒れていく。誰も手を伸ばす暇はなかった。大きな音を立てながら、ヒヨリは自らが戦いの中で穿った巨大な土坑の中へ落ちていく。
「ヒヨリ?」
呆然としたフクロの声が響く。
次にはハルカも駆け出していた。
「ヒヨリ!」
二人の呼び声が重なる。
その声だけは、闇の中へ沈んでいく最後の最後まで、確かにヒヨリの耳へ届いていた。




