世界に拒まれた子
そうか。ははっ、さすがセイメイだな。やっぱり、あんたはすごい。本当に、お疲れ様。
みんなのおかげよ。私一人じゃ、絶対にここまで支えられなかったもの。
俺も会ってみたかったな。きっと、とんでもなく破天荒な奴らなんだろう。
一緒に、見守りましょう。彼らの、世界の、宇宙の未来を。
「うぅ……っ、ああ……セイメイ……セイメイ様ぁ……!」
カクシの嗚咽が、廃墟の中に痛いほど響いていた。彼は安倍セイメイの亡骸を抱きしめ、まるで幼い子供のように顔を歪めて泣いている。
安倍セイメイは微笑んだまま逝っていた。人生の最後に耳にしたのは、かつて心へ深く刻まれたあの笛の音だった。きっと穏やかな気持ちで旅立てたのだろう。
源ヨリミツの黒く戻った瞳からは涙が零れ落ちていた。その周囲では配下たちが揃って片膝をつき、深く頭を垂れている。ハルカたち三人もまた黙したまま。
ただ一人、少し離れた場所に立つイバラキだけが、拭い切れない違和感を覚えていた。
――いいな。
――本当に、いいな。
――死んだ後でさえ、こんなにも多くの人に嘆いてもらえるなんて。
ヒヨリはびくりと肩を震わせた。慌てて振り返る。しかし、そこには誰もいない。
「ヒヨリ?」
フクロが怪訝そうに眉をひそめる。
「どうした?」
ハルカも不思議そうに声を掛けた。
「え……あ、いや……なんでも……」
――羨ましいか?
――羨ましいだろう。
――お前は、自分以外のすべてを羨んでいる。
「なっ……誰だ!?」
ヒヨリが突然叫んだ。そのことに源ヨリミツたちも気づく。
――不公平だ。
――不公平じゃないか。
――どうしてお前だけ、何も持っていない?
「何を言ってるんだよ……!」
――自分を騙すな。
――お前が一番よく分かっているはずだ。
フクロは慎重に立ち上がり、ヒヨリへ手を伸ばした。
「おい、お前――」
だがヒヨリは両手で頭を抱え込んだ。
「……やめろ…………黙れ……」
――化け物め。
「黙れ……黙れって言ってるだろ――ッ!!」
その絶叫と同時に、ヒヨリの身体から凄まじい暴風が噴き上がった。圧縮されたハタが爆発するように解き放たれ、周囲にいた全員が木の葉のように吹き飛ばされる。
「うわっ!?」
ハルカが思わず悲鳴を上げる。
だが風は一瞬で止んだ。
そこに立っていたのは、もはや先ほどまでのヒヨリではなかった。
浮想紋は本来、身体の一部を強化するためのものだ。しかし今のヒヨリは違う。黒い紋様が血管のように全身へ広がり、首筋から頬、指先に至るまで隙間なく覆い尽くしている。
ゆっくりと顔を上げたヒヨリを見た瞬間、ハルカたちの背筋を冷たいものが走った。
その瞳だ。
いつも澄んだ空のようだった青い瞳は消え失せ、代わりに深淵を覗き込んだかのような血の色が揺らめいている。
「……ハァ」
獣の吐息だった。
次にヒヨリは地面を蹴った。いや、蹴ったというよりも獣そのもののように四肢を使って飛び出した。
「っ!」
狙われたのは一番近いところにいるフクロだった。鋭い牙を剥き出しにしたまま一直線に襲い掛かる。
「――ッ!」
フクロは反射的に天譴を構えたが、衝撃を殺しきれずそのまま地面へ押し倒された。ヒヨリはまるで獲物へ喰らいつく獣のように天譴へ牙を立てる。ギリギリギリと、嫌な音が鳴った。
「おい!ヒヨリ!何してやがる!おい!聞こえてるのか!」
ヒヨリは反応しない。血走った瞳には理性の欠片も映っていなかった。
その様子を見ていたイバラキは、ようやく違和感の正体に気付く。
「……おかしい」
イバラキの顔から血の気が引いた。
「蘆屋ドウマンのハタは確かに消し去ったはずだ。それなのにシュテンが姿を現していない……!」
渡辺ツナも即座に反応した。
「まずい!セイメイ様が言っていた!蘆屋ドウマンに触れられた者にはサハが影響されると!あいつの中に……まだあの女のハタが残っているのか!」
「ちっ……!」
源ヨリミツが悔しげに歯を食いしばる。
「そうだった、あの時確かにヒヨリが触れた、最後の最後でやられたか……!」
だが卜部スエタケだけは首を横に振った。
「いや……違う。たとえ蘆屋ドウマンに操られていたとしても、あんな状態にはならないはずだ。何かがおかしい……!」
セイメイよ。アナタはもうこの世に未練がないのなら、誰もワタシを止められない。
ワタシが、たった一つの器だけで戦うと思った?さあ、この子を使わせてもらうわ。
アナタの退場がどれほど愚かな選択だったか教えてあげる。人の善なんて、世界の悪の前では脆いものよ。
平安京も、この世界も、全部滅茶苦茶にしてあげる。
……何?
これは……あり得ない。
何なの……これ……?
こんなサハ……見たことがない……!
何なの、この子は……?!
……ああ。
そういうこと。
なるほど、なるほどね。
ははははは!素晴らしい!やはり世界の可能性は無限だわ!
呑み込まれるのは、どうやらワタシの方らしい。
でも、それでいい。
ワタシが何もしなくても、この子は世界を壊せるでしょう。
ははっ。はははははははははは……!
「グオオオオオオッ!!」
ヒヨリが咆哮する。
フクロは反撃に転じた。右手に握った薄緑を振り下ろす、すぐさま根印を起動した。
「審判――落雷!」
轟雷が炸裂した。雷光がヒヨリを直撃し、ようやく牙が離れる。
フクロは地面を蹴って距離を取った。煙の向こうで、ヒヨリの身体から黒煙が立ち昇っている。だが倒れない。ふらりと身体を揺らした次の瞬間、右腕へ炎が噴き上がった。そして再び突撃。
「ちっ!」
フクロは再び刀を構えた。炎を纏った拳が嵐のように降り注ぐ。ヒヨリは炎そのものを噴射するように放ちながら攻め続ける。激突のたびに地面が砕け、廃墟に新たな穴が刻まれていく。
本来ならフクロの方が遥かに強い。それは誰もが知っていた。だが今のヒヨリは違う。全身を覆う浮想紋、制御を捨てたハタの放出、力も速度も常識を超えていた。隙間なく押し寄せる猛攻に、フクロですら押され始めている。
「いい加減にしろォッ!!」
怒号と共に雷光が蛇へ変わった。雷蛇はヒヨリへ食らいつく。土砂が四方へ吹き飛び、周囲の者たちは慌てて身を伏せた。
やがて煙が晴れる。ヒヨリの前には巨大な氷壁がそびえ立っていた。攻撃を完全に防ぎ切っている。
氷壁が内側から粉砕された。ヒヨリはまた咆哮を上げながら飛び出してくる。
「おいハルカ!」
坂田キントキが叫んだ。
「どうなってんだあいつは!」
「私が知りたいっての!」
ハルカも思わず叫び返す。しかしその肩をイバラキが掴んだ。
「落ち着け!今のヒヨリはシュテンと似た状態だ。もう一度ボクの力を使えば助けられるかもしれない。ただし、そのためにはヒヨリを完全に動けなくする必要がある!」
「なら話は簡単だ」
源ヨリミツが前へ出た。その背後では渡辺ツナ、坂田キントキ、卜部スエタケ、碓井サダミツも残刻器を構えている。
「今度は我々も加わる。異論はあるか?」
「ありませんよ、大将!」
碓井サダミツが笑い、そしてカクシへ振り向いた。
「カクシ。セイメイ様をできるだけ遠くへ運べ」
「……ああ」
涙を拭ったカクシはその言葉に頷いた。
渡辺ツナもまたハルカへ視線を向ける。
「今回は俺たちも手を貸す。これで貸し借りなしだな」
「貸し借りなしなんて無理だろ、ツナ。むしろこれで、私たちの縁は切れなくなったってことじゃないか?」
そしてハルカは拳を握り締め、暴走するヒヨリを見据えた。
「よし――あの馬鹿を叩き起こすぞ!」
蒼く澄み渡る空。丁寧に手入れされた芝生。無邪気な子供たちの笑い声。
その間を隔てる一面の金網。二つの世界だった。
ヒヨリはそれを見ていた。ぼろぼろの服を着た小さな自分が、金網に指を絡めながら向こう側を見つめている。
「あー、宿題やりたくないー」
「あの先生ほんと感じ悪い!」
「わかるー!嫌だな!」
楽しそうな声が飛び交う。
……嫌?どうして?
ヒヨリがそう思った次の瞬間、小さな自分は金網から手を離し、向こう側へ向かって走り出していた。
――ああ。
行くな。
行っても無駄だ。
お前は受け入れてもらえないよ。
「またあのどこの誰かも分からないガキだ!」
「近寄るなよ!変な病気でも持ってるんじゃないの!?」
「追い払え!」
小さな身体が押される。突き飛ばされる。泥だらけの地面へ転がされる。
雨水の溜まったぬかるみの中に倒れ込んだ金髪の男の子は、何も言わなかった。ただ黙って起き上がる。
何度も。何度も。何度も。
ヒヨリは離れた場所からその光景を見つめていた。
……何も食べなくても、何も飲まなくても、死ぬことすらできない俺は、こうして世界から拒絶され続けていた。
深い群青色の夜空。祭りの灯り。人々の賑やかな声。そして夜空に咲く大輪の花火。
――ああ。
ここも覚えている。
香ばしい匂いに釣られて屋台の隙間へ潜り込み、見つからないように食べ物を盗んだ。
食事なんて必要ない。それでも腹が鳴る気がした。香りに抗えなかった。そして何より、誰かと一緒にいる温もりにも抗えなかった。
「パパー!抱っこして!花火見たい!」
「はいはい」
「もう、甘やかしすぎよ」
「ママ!あれかっこいい!欲しい!」
「今回だけだからね?」
「うん!」
笑い声。優しい声。当たり前の会話。
小さな金髪の男の子はビルの隙間から見える花火を見上げていた。だが花火はそれほど眩しく見えなかった。
それよりも。道を歩く人たちの方がずっと輝いて見えた。
家族。友達。恋人。
誰もが誰かの隣にいる。
……みんな、一人じゃない。
どうして俺にはいないんだろう。
どうして俺には、手を繋いでくれる人が一人もいないんだろう。
焼け付くような白い日差し。一面の砂地。建設途中の建物。黄色い重機。そして人々。
「危ない危ない。あんた、どこの子だ?えっ、知らない?今どきの子供は変な冗談を言うなあ。とにかくここは危険だから離れな」
小さなヒヨリは頭をぽんぽんと叩かれた。
――初めてだった。笑顔を向けられたのは。
「そういや、あんた、ヒヨリって言うんだっけ?ずっとここにいるのもまずいよなあ」
だが、誰も追い払わなかった。
誰も石を投げなかった。
「家がない?それは困ったな……。機会があったら孤児院とか探してやるよ」
――行ったことはある。
でも、中へ入る前に追い出された。
「……そりゃ大変だったな。まあ、仕方ないか。少しくらいならここにいても問題ないだろ」
その言葉を聞いた瞬間、幼いヒヨリは固まった。
「お、おい。そんな驚くことか?」
だって。初めてだったのだ。
ここにいてもいい、と言われたのは。
「……ははっ。簡単に泣くなよ、ヒヨリ」
眩しい日差しの下、石畳に並んで腰掛ける大人と子供。
ヒヨリはその光景を見つめていた。
本当に数少ない、幸福だった記憶。
けれど、そんなものが長く続くはずもなかった。
「ヒヨリ!ちょっと向こうから道具持ってきてくれ!」
男の子が広い工事現場を走っていく。
――ああ。覚えている、この日を。
砂埃の匂い、焼け付く太陽、目が痛くなるほどの光。
そして。
「――ヒヨリ!!危ない!!」
空から落ちてくる何かが鈍い音が響いた。
巨大な鋼管が、幼いヒヨリの身体を押し潰した。
鮮血が飛び散る、周囲の人間たちが悲鳴を上げながら駆け寄る。
だが誰も近付けなかった。なぜなら、その直後に起きた光景があまりにも異常だったからだ。
潰れたはずの少年が立ち上がった、鋼管を両手で押し退け、折れ砕けた骨が音を立てながら元へ戻っていく。潰れた肉が再生する。流れ出した血を拭う頃には、そこに傷一つ残っていなかった。
沈黙。
誰も言葉を発せない。
やがて一人が震える声で呟いた。
「……化け物……」
その瞳にあったのは驚きではない。恐怖だった。
【よくもまあ、そんな目に遭いながら今まで平気でいられるものだ】
「……俺は、俺は一体何なんだ。お前たちは一体何なんだ」
【仕方のないことだ。お前も、我々も、あらゆる世界から拒絶され続ける存在だからだ】
【誰かに生み出されたわけでもない】
【誰かに創られたわけでもない】
【ただ余ったものだ】
【それでも誕生してしまった】
【お前の意思など関係なく】
【我々の意思など関係なく】
「……ならどうしてだ。どうして俺は生まれた?」
【……さあな】
「そんなの、答えになってないだろ……!なんで俺だけなんだ!どうして他の奴らが当たり前に持っているものを、俺は何一つ持てないんだ!……なんでだ……なんでなんだよ!!!」




