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プロジェクト【サハ】  作者: 諸星佑月
【第二章】鬼も地獄も人の内

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託された未来

 絶景――今この瞬間を表すなら、それ以上に相応しい言葉はなかった。

 チヨは呆然とその光景を見つめていた。愛宕山のあちこちから上がる歓声も、驚愕の叫びも、もう耳には入ってこない。彼女の瞳に映るのは、夜空を舞う無数の氷の欠片だけだった。煌めく氷晶が散りばめられ、その中心を貫くように鮮烈な炎が天へと駆け上がる。さらに赤と青、二色の雷光が蒼穹へ到達し、厚く垂れ込めていた雲をことごとく吹き飛ばしていく。

 まるで自らの存在を世界そのものへ叩きつけるように。

 その光景はあまりにも眩しく、あまりにも力強かった。


 濃密な土煙の中、ハルカは真っ先にヒヨリとフクロの位置を確認した。二人もまた蘆屋ドウマンの様子を把握できていないらしく、全身の神経を研ぎ澄ませたまま戦闘態勢を崩していない。やがて、一陣の風が吹き抜ける。まるで狙い澄ましたかのような風に砂塵が一気に吹き払われ、その向こうに立つ人影が露わになった。

 ――蘆屋ドウマン。

 彼女はなお、その場に立っていた。

「嘘だろ……。あれをまともに食らって、まだピンピンしてるのかよ!?」

 ハルカが思わず声を上げる。しかしヒヨリは目を細め、蘆屋ドウマンの周囲を漂うハタを観察する。

「……いや。ヨリミツ大将の斬撃は確実に効いてる。それに、ここまで戦ってきたせいでハタもかなり薄くなってる。ただ、まだ余裕があるように見せてるだけだ」

「おそらくな」

 フクロもそれに続ける。

「もう限界は近い。あと一度、本気で畳み掛ければ仕留められる」

 三人が再び身構えた、その時。

「トランスグレッサー」

 不意に、蘆屋ドウマンが口を開く。その声には先ほどまでの狂気も敵意もなく、どこか虚ろな響きだけが残されていた。

「アナタたちは……どこへ向かって歩いているの?なぜ、前へ進もうとするの?」

 予想外の問いにヒヨリとフクロは一瞬だけ顔を見合わせる。しかしハルカは迷わなかった。

「そんなの決まってるだろ!宇宙がどれだけ広いのか見てみたいからだ!外にはまだ知らないものが数え切れない。そんなのを放っといて、同じ場所に閉じこもって一生終えるなんてごめんだからな!」

 蘆屋ドウマンはその答えを聞くと、ゆっくり夜空を見上げた。空虚な瞳だった。そこには怒りも憎しみもなく、ただ深い喪失だけが残されているように見える。

「……そうね。宇宙は無限なのでしょう。人も無数にいる。探し続ければ、自分の理想とする生き方も、人生で最も出会うべき人も、きっと見つかるのだと思う」

 そう呟いた後、彼女は自嘲するように微かに笑った。

「でも、それが何だというの?どんな理想も、どんな情熱も、どんな縁も、いつか必ず終わる。何を成し遂げても、誰と出会っても、思い出は砂のように零れ落ちていく。辿り着きたかった場所も……手を伸ばし続けた願いも……手に入れたとしても、結局あの世までは届かない」

「……なんで、そんなことを言い切れるんだよ」

 その言葉を遮ったのはヒヨリだった。金髪の少年は一歩前へ出る。その瞳には真っ直ぐな怒りと、譲れない意志が宿っていた。

「俺は前まで、世界は変わらないものだと思ってた。理不尽で、冷酷で、どう足掻いても覆せないものだってな。でも違った。ある日、俺の世界は変わったんだ。絶対にあり得ないと思ってたことが、本当に起きた。この宇宙には、どんな可能性だってある。どうして、あの世まで届く何かが存在しないって言い切れるんだ」

 蘆屋ドウマンの瞳がわずかに揺れた。

「……アナタ……」

 だが、その続きは別の声によって遮られた。

「もっとも――あなたという女がやったことだけは、あの世にまで伝わらない方がいいだろうがな」

 そこには一人の人物が立っていた。わずか十メートルほど先。

 蘆屋ドウマンの指先が震える。肩が震える。呼吸が乱れる。抑えきれない感情に全身が揺さぶられていた。猩紅の瞳は大きく見開かれ、ただ一人だけを捉える。

「……よくもまあ、自分から姿を見せられたものね――」

 憎悪とも怒りともつかない声だった。対する相手は表情を変えない。ただ静かに蘆屋ドウマンを見つめ返している。

 そして蘆屋ドウマンは、その名を叫んだ。

「――セイメイ!!」

 その姿を見た瞬間、誰もが息を呑んだ。純白の狩衣を纏った安倍セイメイは、瓦礫に埋もれた廃墟の只中にあってもなお、揺るぎない気高さを失っていない。

「セイメイ……様!?」

 屋根の上に身を伏せていたカクシが思わず声を漏らす。驚きと不安が入り混じった視線が安倍セイメイへ向けられた。しかし源ヨリミツたちは、まるで彼女が現れることを最初から知っていたかのように静かに様子を見守っている。

 安倍セイメイは深く息を吐き、改めて蘆屋ドウマンと向き合う。十年越しの因縁。互いに背負ってきたものの重さを知る者同士の視線が静かに交差した。

「最初から、あなたの前に現れるつもりだった。私はあなたと決着をつけなければならない。蘆屋ドウマン」

 その声は穏やかだったが、決意だけは少しも揺らいでいなかった。

「ただ、あなたのハタはもう残り少ない。そして私は、この十年間ずっと結界を維持し続けてきたせいで、根印(ねしるし)をほとんど使い果たしている」

 そこで一度言葉を切ると、安倍セイメイはかすかに微笑んだ。疲労を隠し切れない、それでもどこか晴れやかな笑みだった。

「私たちは二人とも、もう限界なのよ」

「決着をつける?何のために?」

 蘆屋ドウマンはかすかに首を傾げた。その瞳には嘲りと諦めが入り混じっている。

「アナタは彼一人すら守れなかったのよ。それで平安京を守れるとでも思っているの?セイメイ。アナタは必ず訪れる未来を見ていた。それなのに、何ひとつ変えられなかった。本当に――救いようがないほど無能だわ」

 その言葉は、どんな刃よりも鋭く安倍セイメイの胸を抉った。彼女は静かに目を閉じる。長い沈黙の後、ようやく口を開いた。

「……そうね。私が彼を守れなかったのは事実よ。でも、あなたがあんな残酷なことをしなければ、彼が命を落とすこともなかった。私こそ聞きたい。なぜ、この世にこんな悲劇をもたらしたの?」

「悲劇?」

 蘆屋ドウマンは小さく笑った。その笑みはどこまでも空虚だった。

「ワタシがやったことが悲劇だと?じゃあ、この世は元々美しいのかしら?」

「……それは詭弁よ。結局あなたは、人がより良い未来へ進めることを信じなかっただけ。あなたは善なる人間というものを知らなかった。だから善意によって変わっていく世界を想像できなかったのよ」

 その言葉に対して蘆屋ドウマンは力なく笑った。

「いたわよ。善くで……信じるに値する人間は。でも、もうどこにもいない」

 そう呟くと、彼女はゆっくり頭を垂れた。両手で顔を覆い、震える肩を隠すように。

「もういい。全部終ろう。ここまで来たら、この世界ごと壊れてしまえばいい。もう救えないというのなら――最初から何も存在しなかったことにした方が、よほど綺麗でしょう」

 その瞬間、彼女の身体に残されていた最後のハタが爆発するように溢れ出した。足元から無数の血の手が生まれ、狂ったように地面を這いながら平安京全体を呑み込もうと四方八方へ伸びていく。

「うわっ!?」

 視界が一瞬で血の手に埋め尽くされ、ハルカが思わず叫ぶ。源ヨリミツたちも突風に煽られ、踏み留まるので精一杯だった。屋根の上にいた碓井サダミツたちも瓦を掴みながら必死に耐える。

 だが、その混乱の中で安倍セイメイだけは動じなかった。

 両手が素早く印を結ぶ。次に、これまで平安京全体を覆っていた巨大な結界が急激に収縮を始めた。光の壁が街を横断し、源ヨリミツたちの体を通り抜け、血の手を強引に押し返しながら範囲を縮めていく。そして最後には、安倍セイメイと蘆屋ドウマンの二人だけを閉じ込めるほどの大きさとなった。

 血の手は透明な壁へ激突する。しかし一歩たりとも外へ出られない。まるで見えない硝子に阻まれているかのようだった。

「っ……!」

 安倍セイメイの口から鮮血がこぼれる。それでも印を結ぶ手は決して緩まない。。

「……本気なのね。ワタシと相討ちするつもり?」

「はっ……」

 安倍セイメイは血を吐きながら笑う。

「そんなの、あなたにはもったいなさすぎるわ」

「イバラキ!!」

 突然、渡辺ツナの怒号が響き渡る。

「今回失敗してみろ!地の果てまで追いかけてでも叩き斬ってやるからな!!」

 あまりにも渡辺ツナらしい叫びに、その場の誰もが一瞬だけ動きを止めた。蘆屋ドウマンも思わずそちらを見る。その刹那、眩い白光が足元から噴き上がった。見たこともない紋様と言葉が二人を取り囲み、幾重にも重なっていく。

「――羅生門(ラショウモン)!」

 少し離れた場所で、蜜色の髪を揺らしながら片腕だけで術を維持する鬼、いや、人がいた。低く響く鐘の音にも似た音とともに、古の神域を思わせる門はゆっくりと降り立ち、二人の頭上を覆うように降り立つ。

「イバラキ……だと」

 蘆屋ドウマンは呆然と呟いた。

「どうしてアナタたちが、イバラキと手を組めるの……?敵同士だったはずでしょう……!」

「もう、変わり始めているのよ」

 苦痛に顔を歪めながらも、安倍セイメイは答えた。

「この世界も……ここに生きる人たちも。貴族と陰陽師。人と鬼。善と悪。いつか、本当に互いを理解できる日が来る。私はそう信じているわ」

「セイメイ様……!セイメイ様!!」

 カクシが叫びながら翼を広げる。必死に二人のもとへ飛ぼうとするが、すでに遅かった。安倍セイメイの身体は限界を迎えている。

「……ソルス宇宙。きっと……これも……宇宙がソルスによって繋がれている意味だったのね……嗚呼、ようやく分かった」

 呼吸が乱れながらも、安倍セイメイは微笑んだ。その顔に悔いはない。むしろどこか穏やかですらあった。

「この世界を……本当に変えられる人たちに、託そう」

 蘆屋ドウマンは何も言えず。ただ目を閉じる。

 城門が崩れ、白い竜巻へと変わった。それは二人を包み込み、そのまま夜空へ向かって一気に駆け上がる。眩い光が天を貫き、やがてすべてが静寂に包まれた。

「はぁ……はぁ……」

 イバラキは膝をついた。さすがに限界だった。それでも顔を上げる。

 結界は消えていた。もう蘆屋ドウマンの姿はない。

 残されていたのは――廃墟の中に倒れ込む安倍セイメイただ一人だった。

「セイメイ様!」

 カクシはほとんど飛び込むように駆け寄った。膝をつき、その身体を抱き起こす。源ヨリミツたちも慌てて集まり、皆が安倍セイメイを囲んだ。

「……ああ、カクシ……」

 安倍セイメイはゆっくりと目を開く。

「ようやく、会えたわね……」

 その優しい声を聞いた瞬間、カクシの感情は決壊した。

「……全部、僕のせいです!僕がちゃんと戦うつもりでいたら……!もっと早く立ち直れていたら……!こんなやり方であいつを止める必要なんてなかったかもしれないのに!僕はまた……また……!」

 涙が止まらない。握り締めた安倍セイメイの手も、自分の身体も震え続ける。

 安倍セイメイはそんな彼を見上げ、小さく微笑んだ。

「……そんなことないよ。私が、ヨリミツ様と、こう約束したんだから。ごめんね、カクシ。ヒロマサに、あなたを頼まれていたのに……私は何ひとつ果たせなかった……」

「違う……!」

 カクシは何度も首を振った。

「違います……全部、僕が悪かったんです……!もっと早く、セイメイ様の助力になれたなら……!」

 言葉はそこで途切れる。その先を口にすることができなかった。ただ涙だけが、止まることなく頬を伝い続けていた。

「セイメイ!」

 ハルカたちが慌てて駆け寄る。

「しっかりしろ!今すぐ私が――」

「いい」

 その言葉に、ハルカは思わず息を呑んだ。

「……何言ってるんだよ……!」

 安倍セイメイは静かに首を横へ振る。その表情は不思議なほど穏やかだった。

「もう十分よ、ハルカ。これは傷なんかじゃない。私は、とっくに死んでいてもおかしくなかった人なの。ここまで無理やり生き延びてきたけれど……この身体も、もう限界みたい」

 かすれた声でそう言いながらも、その顔にはどこか安堵の色さえ浮かんでいた。

「ただ、一つだけ心残りがあるとすれば……カクシのことね。でも、サダミツがいるなら、もう私が心配する必要もないかしら」

「……はい」

 碓井サダミツは片膝をつき、深く頭を下げた。

 その返事に安倍セイメイは満足そうに微笑む。源ヨリミツも静かに歩み寄り、その後ろには坂田キントキ、渡辺ツナ、卜部スエタケ、そしてヒヨリとフクロの姿もあった。

 安倍セイメイはゆっくりとハルカたち三人へ目を向けた。

「……あなたたちに話があるの。屋敷に残してあるものは、あなたたちが持っていってちょうだい」

「セイメイ……?」

「この先も、あなたたちはきっと険しい道を歩くのでしょうね。でも私は信じている。だから――心から応援しているわ」

 ヒヨリは黙ったままハルカとフクロを見る。二人もまた、重々しく頷いた。

「ヨリミツ様も、私の、わがままを聞いてくれて、ありがとうございます」

「……」

 源ヨリミツは何も言えなかった。ただ、下唇を強く噛み締めている。

 しばらくして、安倍セイメイは再びカクシへ視線を向ける。

「カクシ……笛を、吹いてくれないかしら」

 カクシは、隣の碓井サダミツを見る。碓井サダミツは何も言わず頷き、懐からあの竹笛を取り出して差し出した。

 込み上げてくる涙を飲み込みながら、カクシは震える手でそれを受け取った。

「……はい。もちろんです」

 その答えを聞いた安倍セイメイは、どこか懐かしむように目を細めた。

「よかった……。あの日以来、一度も聞けなかったのよ。あの頃と同じ笛の音を。最後の最後に聞けるなんて……本当に、幸運ね……」

 やがて、笛の音が響き始めた。

 澄み切った音色だった。広大な廃墟と化した平安京の上を静かに流れ、風に乗ってどこまでも広がっていく。優しく、どこか切なく、それでいて温かな旋律は、人々の胸に眠る記憶を一つずつ呼び覚ましていくようだった。

 空へ昇る音色に誘われるように雲がゆっくりと流れ、風が応えるように吹き抜ける。尽きることのない想いと記憶を乗せた旋律は、どこまでも高く、どこまでも遠くへと響いていった。天地の間に残されたのは、ただその笛の音だけだった。

 ――まるで、あの日に戻ったかのようだった。

 外から差し込む柔らかな陽射し。穏やかな昼下がり。二人で語り合った何気ない時間。話題は尽きることなく、気づけば何時間も過ぎていた。あの頃はただ心地よかった。ただ隣にいるだけでよかった。

 人生のどれほど長い時を重ねても、決して忘れられないほど、かけがえのない幸せだった。


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