迫り来る地獄
蘆屋ドウマンは、その場で完全に呆然としていた。
これまで常に余裕を崩さず、何事にも動じない様子を見せていた彼女が、今はただ虚ろな瞳で立ち尽くしている。まるで魂でも抜け落ちたかのようだった。
これほどの隙を、源ヨリミツが見逃すはずもない。彼は即座に踏み込み、そのまま刀を振り下ろした。だが蘆屋ドウマンは防御も回避も行わない。ただ無防備なまま、その一撃を受ける。
「ぐっ……!」
源ヨリミツは続けざまに三太刀を浴びせた。胸。背中。そして左肩。鮮血が飛び散り、蘆屋ドウマンの口からも大量の血が溢れる。そのまま彼女は力なく地面へ膝をついた。
あまりにも無防備だった。
今の蘆屋ドウマンからは、平安京を未曾有の大災害へ陥れた張本人の面影など微塵も感じられない。むしろ、か弱く無力な女にしか見えなかった。
だが、源ヨリミツに情けをかけるつもりはない。彼は刀を構え直し、今度はその首を狙った。
決定打となる一撃を振り下ろそうとしたが、蘆屋ドウマンの身体から流れ落ちた血が足元へ集まり、一つの血溜まりとなる。そしてそれは突如として四方へ爆発的に広がった。
源ヨリミツの両脚が血池に絡め取られる。あと一歩のところで、必殺の斬撃は届かなかった。
さらに血池は凄まじい勢いで拡大していく。瞬く間に街路を飲み込み、平安京全体へと広がっていった。
「うわっ!?なんだこれ!」
ハルカは足元から迫ってくる血池を見て慌てて飛び退いた。しかし血はあまりにも広範囲に広がっており、避けようがない。
渡辺ツナもイバラキも、何が起きているのか理解できずにいた。
「……ドウマンがシュテンの力を利用し、その上に自分の播磨呪を重ねていたものだ」
安倍セイメイはすぐ気がつく。
「だが、おかしい……」
血池を見つめる目に困惑が浮かぶ。
「これは能力発動しているのではない。むしろ……解除している?」
碓井サダミツもまた、この血池に異変を感じていた。周囲で起きているさらに奇妙な現象にも気づく。
まだ残っていた鬼たちが、血池に触れた途端に次々と力を失い、その場へ倒れ込んでいくのだ。鬼たちは血溜まりの中でもがきながら悲鳴を上げる。しかし二度と立ち上がることはなかった。
「……鬼が、勝手に片付いていく?一体何が起きてるんだ……」
「うっ……!はぁっ……はぁっ……!」
苦しげな呼吸音が耳に届く。
碓井サダミツが振り返る。
「カクシ?おい、どうした!」
カクシは胸元を強く掴みながら、その場へ膝をついていた。顔色は真っ青で、全身が激しく震えている。
「……わからない……」
絞り出すような声だった。
「意識が……引き剥がされるみたいで……っ……苦しい……!」
次に、血池の中から無数の血の手が伸び上がった。それらは一斉にカクシへと絡みつく。
抵抗する間もなかった。血の手はカクシの全身を包み込み、そのまま血池の底へ引きずり込む。
「カクシ!?」
姿は一瞬で消えた。血面だけが静かに波打っている。
「……くそっ!」
碓井サダミツは舌打ちすると、すぐさま京の東方へ視線を向け、迷うことなく地を蹴り、その場から駆け出した。
カクシが無限の闇へ引きずり込まれた後、再び視界を取り戻した時には、無数の血の手に拘束されていた。両腕は手首を掴まれて上へ吊り上げられ、顔や胸、腰、脚にも血の手がまとわりついている。
その目の前には、よろめきながら立ち上がる蘆屋ドウマンの姿があった。源ヨリミツから受けた三度の斬撃は確実に効いているらしく、全身から血を流し続けている。それでも彼女は首をだらりと垂らしたまま、一歩ずつカクシへ歩み寄ってきた。
「……よかった。かつて鬼たちに埋め込んだハタを回収してみれば、ちゃんと知りたかった情報も手に入るものなんだね。少々疲れるけど」
いつも笑みを絶やさなかった蘆屋ドウマンの顔には、今や不気味な影が差していた。
「ねえ、アナタが彼を殺したんでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、カクシは全てを悟った。鬼たちは皆、蘆屋ドウマンのハタによってサハを影響された存在だ。先ほど突然襲われた異変も、自分の体内に残されていた蘆屋ドウマンのハタが強制的に回収されたためだろう。その際、自分の記憶や意識の一部まで彼女に流れ込んだに違いない。
名前こそ口にされなかったが、誰のことを指しているのかは明白だった。
「……ああ」
「そうなんだ……彼はもう、この世界のどこにも、この宇宙のどこにも存在しないんだね?」
「ああ」
しばしの沈黙が流れる。やがて蘆屋ドウマンの口元が歪んだ。
「は……はは……」
小さな笑い声は次第に大きくなり、やがて夜空を切り裂くような狂気じみた高笑いへと変わる。
「ははははははははははっ!!」
その声は聞く者の背筋を凍らせた。蘆屋ドウマンが軽く手を振ると、カクシを拘束していた血の手は一斉に消え去る。そして彼女は呟いた。
「――叫喚地獄、現界」
地面を覆っていた血池が変貌する。深紅の液体は底知れぬ深淵へと姿を変え、瓦礫も石も次々と飲み込んでいった。やがて家屋までも崩れ落ち始め、新たな結界は瞬く間に京の四分の一を覆い尽くす。東南一帯の建物が次々と沈み込み、無限の深淵へ消えていった。
「まずい……!」
しかし誰も間に合わない。フクロもヒヨリも、源ヨリミツたちも、足場そのものが失われた以上どうしようもなかった。全員が深淵へ落ちていき、地上はみるみる遠ざかっていく。
そんな中、カクシだけは静かに目を閉じていた。
風を裂くような音が響いたかと思うと、次の瞬間には全員がどこかの屋根の上へ投げ出されていた。
ヒヨリは慌てて起き上がり、周囲を見回す。頭上には変わらぬ夜空が広がり、家々も残っている。ただ巨大な血池だけがかなり離れた北側に見えていた。
なぜか知らないが、どうやら誰かに一瞬で深淵の範囲外へ移動された。
「な、何が起きたんだ……?」
隣のフクロも同じように困惑している。そこへ一筋の光が走り、源ヨリミツたち三人も現れた。最後にカクシが梁の上へ放り出される。
痛みに顔をしかめながら身を起こしたカクシだったが、目の前に立つ人物を見て動きを止めた。
碓井サダミツが怒りを露わにしていた。
「おい、カクシ。どういうつもりだ。あんた、飛べるだろうが。俺が間に合わなかったら、今頃みんなまとめて死んでたんだぞ!」
「……」
「答えろ!いざという時に戦う気はないのか!?あんたはわざわざ平安京まで死にに来たのか!」
「そうだ」
即答だった。その返事に、今度は碓井サダミツの方が言葉を失う。
「僕は……この手で、自分が一生かけて恩を返すべきだった人を殺した。平安京を本当に変えられたかもしれない人の未来も奪った。僕はとっくに死ぬべきだったんだ。誰かが殺してくれるなら、それでいい」
鈍い音が響いた。
碓井サダミツの拳がカクシの顔面を殴り飛ばし、カクシは梁の上を何度も転がる。だが碓井サダミツはすぐに追いつき、胸ぐらを掴み上げた。
「そうか。だったらあんたを助けた奴は、とんでもない馬鹿だったんだな!」
「……黙れ。ヒロマサ様を侮辱するな!」
「侮辱だと?救った奴がこんな情けない奴だったんだ。意志を継ぐ覚悟すらない腰抜けだったんだぞ!俺は何か間違ったことを言ったか?!」
「継ぐ……?僕なんかが、あの方と並べるはずがないだろう!ヒロマサ様が目指したのは、身分も出自も関係なく、誰もが肩を並べて歩ける世界だ!そんな理想に、僕なんか届くわけがない!!」
「やりもしないで、どうして無理だと決めつけられる!このまま何も残せずあの世へ行って、そいつに土下座して詫びるのか!それとも持てる力のすべてを振り絞って生き抜き、そいつのやりたいことを代わりに成し遂げるのか!どっちか選べ!!」
首に掛けた数珠が激しく鳴る。
カクシは返す言葉もなくと碓井サダミツを見つめ、やがて力なく視線を落とした。
一方でフクロは深く呼吸を整えながら地上へ目を向ける。
「……血の池が縮み始めてるぞ」
確かにその通りだった。巨大な血池は目に見える速度で急速に小さくなっている。しかしその跡には何も残っていなかった。街路も家屋も消え失せ、木片一つ、石ころ一つ残されていない。本当に全てが消滅していた。
「叫喚地獄、か」
卜部スエタケが冷静に分析する。
「一定範囲内の地表に存在するものを丸ごと消し去る能力らしい。発動は極めて速いが、長時間は維持できないようだな」
「くそっ……!」
ヒヨリは悔しそうに拳を握る。
「一体あと何種類隠してるんだよ。フクロ、もう一回行くぞ!」
「待て」
卜部スエタケがそれを制した。
「あなたたちは少し回復しろ。今は焦る必要はない」
そう言って彼は、なおも縮小を続ける血の深淵を静かに見つめていた。
叫喚地獄が収縮を始めた頃には、さすがの蘆屋ドウマンも余裕を失い始めていた。
数里四方を更地に変えるほどの結界だ。その威力は絶大だが、消費するハタの量も常軌を逸している。何より今の肉体はあくまで無理やり奪った器に過ぎない。根印の運用も、本来の持ち主であるシュテンほど巧みに扱えるわけではなかった。
「……セイメイめ」
蘆屋ドウマンは低く唸る。
「あの無能な女、まだどこかに隠れている……」
暗赤色の刀光が閃いた。蘆屋ドウマンは反射的に身を翻して回避する。いつの間にか渡辺ツナが接近しており、いきなり刀を振るってきたのだ。
「キントキ、行け!」
渡辺ツナが叫ぶのとほぼ同時に、足元の地面が激しく盛り上がった。振り向けば、いつの間にか背後へ回っていた坂田キントキが周囲の地形をねじ曲げながら包囲網を築いている。
「ようやく来たな、ツナ!俱利伽羅――土囚関!」
視界が一気に暗転する。地面そのものが蘆屋ドウマンを包み込み、巨大な土球となって彼女を閉じ込めた。
源ヨリミツは渡辺ツナの傍へ駆け寄る。
「ツナ、なぜ一人で来た。セイメイはどうした」
「……セイメイ様は無事です。結界もまだ維持されています。もうすぐ――」
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
「――大叫喚地獄、現界」
足元から巨大な鉄屋が獣の顎のように出現し、一行へ食らいつく。源ヨリミツたちは慌てて残刻器で受け止めながら空中へ飛び退いた。しかし上空にまで血池は広がっており、そこから無数の灼熱の鉄柱が現れる。
「ぐあっ!」
鉄柱は容赦なく彼らを叩き落とし、そのまま身体へ巻き付いた。灼熱の鎖と鉄柱が皮膚を焼き、肉を締め上げる。見るも無惨な有様だった。
やがて土牢を破って現れた蘆屋ドウマンが、ゆっくりと歩み寄る。
「もうすぐ、なにが?」
首を傾げ、穏やかな笑みを浮かべながら問いかける。
「ワタシが知っているのはね。アナタたちがもうすぐ、本当に地獄へ落ちるってことだけなんだけど」
「はぁ……情けないなぁ……」
奇妙な髪型をした男の子が、炎を纏う不思議な金属輪を足元に浮かべながら、夜空をゆっくりと京へ向かって飛んでいた。
「鬼王に邪悪な陰陽師、それにオレの後任までいるなんてなぁ……第三空間もなかなか大変だ」
ナタは独り言を漏らす。
「やっぱりどこの世界も苦労ばかりだ。さっさとあの三人のトランスグレッサーを連れ戻して、昊天のじじいの機嫌が良ければ、楊ゼンも――」
轟きが夜空を揺らした。
「うわっ!?」
ナタは思わず身構え、識転で変化させていた火尖槍を即座に手元へ戻す。爆発の方向へ目を向けた彼は息を呑んだ。
「あれは……京?」
眼前には、半分近くが崩壊した巨大な都が広がっていた。
「どうなってるんだ……鬼の襲撃か?いや、それにしても……一体何が起きてるんだ……」
大叫喚地獄の鉄鎖は、一度狙った獲物を決して逃さない。たとえ最初の一撃を避けても、最終的には必ず捕らえられる。
だが次の瞬間、源ヨリミツたちの姿は忽然と消え去った。残されたのは空の鉄牢だけ。
「ちっ……また幻術か」
蘆屋ドウマンは舌打ちする。本当に厄介だ。こうなるなら真っ先に卜部スエタケを始末しておくべきだった。
「俱利伽羅――渦輪沼沢!」
怪童丸と呼ばれる巨大な斧が地面へ叩き込まれる。すると蘆屋ドウマンの足元に泥沼が広がり、両脚を飲み込んだ。沈下は止まらず、あっという間に腰の高さまで呑み込まれていく。
「さすがに舐めすぎだろう、蘆屋ドウマン!この日のために、こっちは何もかも想定してきた!」
「……アナタも大概普通じゃないね」
蘆屋ドウマンは目を細めた。
「ある意味では、この身体にとって天敵かもしれない――ん?」
坂田キントキの姿が揺らぎ、幻のように消え去る。
また幻術だ。しかもハタの気配までも完全に偽装されている。卜部スエタケとは、一体何者なのか。
蘆屋ドウマンが次の幻覚を警戒したその時、遠方からエンジン音が急速に近づいてきた。
【アーマーアクセス:アレース】
【嗜血の無敗矛!】
「衆軍の長!!」
ハルカだった。
全身を覆っていた金属装甲が突進と同時に分解され、一振りの赤の矛へ収束する。穂先から噴き出す暗紅色の炎が尾を引き、そのまま一直線に蘆屋ドウマンへ襲いかかった。
だが蘆屋ドウマンは浮想紋で強化された腕で、燃え盛る穂先を正面から掴み取る。二人はその場で拮抗した。
「……トランスグレッサー。急所を狙っていないね。そんな甘さでよく今日まで生きてこられたものだ」
「ふん」
ハルカは逆に得意げな笑みを浮かべた。
「勘違いするなよ。最初から急所なんて狙ってない!」
その言葉と同時に、蘆屋ドウマンの表情が変わる。何故なら、矛が大量のハタを吸い上げていたのだ。
「っ――!」
慌てて矛を弾き飛ばし、数歩後退する。
まずい。
八熱地獄は結界を開くほど膨大なハタを必要とする。この消耗は致命的だった。
さらに蘆屋ドウマンは足元に異変を感じる。見下ろすと、両脚が分厚い氷に完全に封じられていた。
「審判――」
「清淼――」
「衆軍の長――」
三方向から同時に声が響く。
何もかも破壊するような雷光。
凍てつく円錐状の氷槍。
そして終末を思わせる暗紅の業火。
三人の攻撃が、一斉に蘆屋ドウマンへ向けて放たれた。
「――晴天霹靂!」
「――寒天円舞!」
「――カタストロフィ!」




