八熱地獄
「おや、お客さんですか?ぜひ見ていってください。うちの酒は京でも一番の評判なんですよ!そちらの……お嬢さんは、頼まれてお酒を買いに来たんですか?」
「……」
「いや、その……何も言わずに立っていられると、こちらとしても商売がしづらいんですが……」
「どうしたんだ?」
「あっ、渡辺様!本日はご自身でいらしたんですか!」
「今の屋敷の一員になったばかりだからな。このくらいの用事は自分で済ませた方がいい。それで……こちらは?」
「ええと……お酒を買いに来たんだと思うんですが、さっきからずっと動かないまま、何も話してくれなくて……」
「……分かった。いつものを二つ頼む。濁りじゃない方で」
「あ、はい!」
「……こっちへおいで。そこに立っていると、店の人たちの邪魔になってしまう。ほら」
「……どういう、意味?」
「ちゃんと話せるじゃないか。これは私のおごりだ」
「えっ……」
「気にしなくていい。ほんの少し手伝っただけだからな。今京も、屋敷も、少しずつ良い方向へ変わってきている。あんたは京の人じゃなさそうだから、これは、私なりの歓迎の印だと思ってくれ。ようこそ」
「……あり、がとう」
「私は渡辺ツナだ。これも何かの縁だろう。これから先、困ったことがあったら遠慮なく頼ってくれ。あんたの名前は?」
「……イバラキ」
「珍しい名前だな。よろしく頼むよ、イバラキ」
蘆屋ドウマンの足元から暗紅色の血の池が一瞬で広がり、源ヨリミツへと伸びていく。まるで火山の噴火のように地面から幾筋もの終焉の業火が噴き上がり、その熱は空気さえ歪ませていた。
彼女はさらに腕を振る。
「――等活地獄、現界」
夜空さえ紅く染め上げる烈火が竜巻のように渦を巻き、源ヨリミツへ襲いかかる。見慣れた街路は一転して灼熱の牢獄と化し、炎の通った跡には漆黒の焼印が刻まれた。地面すら耐えきれず、溶けて無数の窪みを作り始める。
血の池は瞬く間に半径十メートル以上へ拡大した。蘆屋ドウマンは源ヨリミツをこの能力の範囲から逃がすつもりなどない。退路を完全に断ち切るための布陣だった。
「ぐっ――!」
業火は容赦なく小さな身体を呑み込む。足元から噴き出した溶岩が皮膚を焼き剥がし、その直後には猛火が全身を覆い尽くした。
「……アナタの配下どもがどこかに潜んでいると思ってな。わざわざ範囲を広げてやったのだ。まとめて逃げ場をなくしてやろうと思ったのだが――どうした?」
返事はない。炎と溶岩に半身を呑まれた源ヨリミツは、声を発する余力すら失ったように見えた。
だが、蘆屋ドウマンは眉をひそめる。
おかしい。
あまりにも、あっさり決まりすぎている。
「――ぐっ!?」
そう思った瞬間、腹部に激痛が走った。
視線を落とすと、鋭い土塊が背後から腹を貫いている。鮮血が滴り落ち、その赤が異様なほど鮮やかだった。
同時に、目の前の光景が崩れ始める。
地獄のような景色は瞬く間に消え去り、溶岩も血の池も炎も跡形もなく消失した。先ほど焼き尽くしたはずの源ヨリミツの姿もない。街は何ひとつ壊れておらず、桜は変わらず美しく咲き誇っていた。
――幻術。
いつ術中に落ちたのかさえ分からない。術者は相当な手練れだ。
そして次の瞬間、鼻先に迫っていたのは黄金に輝く刀の切っ先と、その主の金色の双眸だった。
動けない蘆屋ドウマンの正面で、源ヨリミツは刀を振り下ろす。眩い黄金の閃光が炸裂し、その斬撃は蘆屋ドウマンを越えて遠方の家屋すら真っ二つに断ち割った。
しかし、静寂は一秒と続かなかった。
源ヨリミツは、自らが斬ったものの異変に気付く。
「――黒縄地獄、現界」
蘆屋ドウマンの声が耳に届いた瞬間、源ヨリミツは斬りつけた硬い何かに弾き飛ばされた。軽やかに着地した彼の視線の先では、血の池から現れた鎖状の鋸斧が蘆屋ドウマンを守っていた。
さらに新たな血の池が開き、無数の鋸鎖が次々と出現する。全方位を覆うその防壁は、攻め込む隙を一切与えない。
蘆屋ドウマンは貫かれた傷が塞がっていくのを眺めながら、黄金の瞳を持つ少年を見据えた。
「その眼……なるほど、なるほどな」
口元の血を拭い、妖しく笑う。
「さすがは浄瑠璃姫の人形だ。実に見事な出来栄えだな」
「はあああっ!!」
激しい金属音が響き渡る。
坂田キントキの怪童丸が鋸鎖の壁へ叩き込まれていた。何十本もの鋸鎖が重なった防御ですら、彼の怪力を完全には受け止められない。斧の刃先は蘆屋ドウマンまであと十センチもない位置に迫っていた。
「これは大将自身の力だ!!想像もつかねぇ苦しみを耐え抜いて、それでも平安京を守るために戦ってんだよ!オマエみたいな外道からなぁ!!」
「キントキ!避けろ!!」
血の池が再び開く。
坂田キントキの背後から大量の鋸鎖が射出された。鋭い刃は舞う桜の花弁を容易く切り裂き、地面に幾筋もの傷跡を刻む。十数本を叩き落とすが、気づけば足元は血の池に囲まれていた。
その時だった。
紫色の矢が高速で飛来し、鋸鎖へ命中する。威力を削がれた一瞬の隙を見逃さず、坂田キントキは怪童丸で土壁を作り出して防御し、そのまま血陣の外へ跳躍した。
蘆屋ドウマンは眉を上げた。
「まだ援護役がいるのか……。先ほどワタシに幻術をかけたのもそいつだな。能力を既に発動したと思い込ませ、背後からワタシを狙って……見事だが、もう同じ策は通じない」
源ヨリミツは刀を両手で握り締める。
鎖の向こうにいる敵を睨みつけながら、静かに告げた。
「――破劫文殊」
刀を大きく引き、全力で振り抜く。黄金の斬光が地を裂きながら蘆屋ドウマンへ奔った。
蘆屋ドウマンは冷静に血の池を増やし、さらに鋸鎖を重ねて防御を強化する。しかし次の瞬間、予想外の事態が起きた。
先ほど坂田キントキですら破れなかった鋸斧の壁が、黄金の斬撃の前ではまるで豆腐のように切り裂かれていったのだ。
一瞬で幾重もの防御が突破される。蘆屋ドウマンは咄嗟に回避したが、左頬を浅く斬られた。
鮮血が飛び散る。
そして彼女をさらに驚かせたのは――その傷が再生しないことだった。
「――っ!」
黒い紋様を纏った拳と拳が激突する。
屋根の上ではヒヨリとホシグマがすでに何度も打ち合っていた。ヒヨリは浮想紋を完全に使いこなしている。拳や脚だけでなく、肘や膝にまで戦紋を展開し、攻防を強化していた。タマモの指導の賜物だろう。
「裂炎!」
黒紋を纏った右拳のまま能力を発動する。
「ブレイズバースト!」
噴き上がった炎がホシグマを正面から呑み込んだ。それだけでは終わらない。今度は左脚へ紋様を展開し、紅蓮の炎を纏った蹴りを腹部へ叩き込む。ホシグマは再び屋根から吹き飛ばされ、轟きと共に地面へ落下した。
しかしヒヨリは追撃を止めない。即座に飛び降り、そのまま戦闘を継続する。
それでもホシグマは平然としていた。瓦礫の中から立ち上がると、両腕へ浮想紋を広げる。
「火斑」
その拳にも炎が灯る。ヒヨリの炎とは違う。濁り切った、どこまでも不快な色の炎だった。
「くっ……!」
次に炎が爆発した。ヒヨリは吹き飛ばされ、何度も地面を転がりながら大穴を作ってようやく停止する。
「……面倒なガキだ」
ホシグマは外れた肩を鳴らしてはめ直した。
「能力まで俺と似てやがる」
「お前……昔は人だったんだろ!?理性だってあったはずだ!なんで京の人たちを傷つけるんだ!」
「なんでだって?人なんてつまらねぇからだよ」
「……は?」
「鬼になった方がよっぽどいいだろ?こんな強大な力があって、傷ついても勝手に治る身体まで手に入るんだぜ?最高じゃねぇか。十年前の平安京なんて最悪の所だった。誰も彼も権力を笠に着て好き勝手しやがるし、俺を見下してばかりだった。偉そうな貴族どもは俺を踏みつけて遊び、周りの連中も俺を利用することしか考えてなかった……だから鬼になった瞬間、真っ先にあいつらを皆殺しにしてやったのさ」
両脚に浮想紋をまとわせたホシグマが地面を蹴る。猛然と突進し、再びヒヨリへと激突した。
ヒヨリは歯を食いしばって踏みとどまり、力任せに押し込んでくるホシグマをどうにか受け止める。だがホシグマは苦しむどころか、むしろ楽しそうに笑っていた。
「――あれは人生最高の日だったぜ!ハハッ!分かるか?自分を虐げてきた連中の腹をこの手で裂いて、臓物を引きずり出した時の気分が!流れ出る血でさえ、信じられねぇほど甘く感じたんだ!あいつらは当然の報いを受けただけだ。死んで当然だった。所詮、口を利く可燃物に過ぎねぇんだからな!あいつらを全部焼き尽くしたその瞬間――ようやく俺は、生きてるって実感できたんだよ!ハハハハハハッ!!」
「……お前がどんな苦しみを味わってきたのか、俺には分からない」
ヒヨリは押し返されながらも、真っ直ぐにホシグマの目を見た。
「だけど、それと今この京で暮らしてる人たちは関係ないだろう!?」
「関係ない、だと?」
ホシグマは鼻で笑う。
「昔の俺だって、あの権力者どもとは何の関係もなかったさ。それなのに、あいつらは俺を搾取した。踏みにじった。だったら今度は逆だろ?今は力を持ってるのが俺なんだからな。あいつらを生かすも殺すも、全部俺の気分次第だ」
「お前……!」
ヒヨリは怒りに任せて脚を薙ぎ払う。重い一撃がホシグマを弾き飛ばし、そのまま声を張り上げた。
「……お前は、シュテンやイバラキと違う」
胸の奥から湧き上がる怒りを隠さず、ヒヨリは叫ぶ。
「二人は化け物扱いされても、自分の心を捨てなかった!本当の化け物は――お前みたいな奴だ!!」
「ハッ!そりゃどうも。最高の褒め言葉だぜ」
清らかな炎と濁った炎が激しくぶつかり合う。
だが決着はつかない。周囲の建物は次々と灰になり、やがて双方の力も尽き始めた。炎が消え去った時、二人は焼け跡の中で向かい合っていた。
「本当に勝負がつかねぇな……。だが気に入らねぇから、たっぷり苦しませてから殺してやる」
ホシグマが鋭い爪を振り上げる。金髪の少年は指一本動かさなかった。静かに近づく相手を見つめながら、口を開く。
「……なあ。お前は、一度も誰かとの繋がりを求めなかったのか?」
「くだらねぇ。そんな甘っちょろい考えは、とっくの昔に裏切りと圧迫で消え失せた」
「……そうか」
ヒヨリは目を伏せる。
「……俺もずっと、自分の生まれたこと自体が間違いだったんじゃないかって思ってた。でも――俺はまだ、運が良かったみたいだな」
そして右腕に、先ほどまでとはまったく異なる浮想紋が浮かび上がる。
「――清淼」
その瞬間、冷たい感覚がホシグマの全身を包み込んだ。
視界が深い蒼に染まる。呼吸ができない。足場も消えた。気づけば巨大な水球の中へ閉じ込められていた。そして水球はゆっくりと空へ浮かび上がる。
「なっ……!?」
ホシグマは目を見開く。
ヒヨリの腕を走る紋様は、先ほどまでのものとまるで違っていた。
「お前……それは……!」
第二の能力。
ホシグマは炎を放とうとするが、水中では火を生み出すことさえできない。
冗談じゃない。
一人で二種類の異能力だと?
源ヨリミツでも、安倍セイメイでも、シュテンですら持ち得なかったんだぞ。
なのにこの正体不明の金髪の少年は、それを当然のように成し遂げている。
「ハルカは、お前をどうするかまでは言ってなかった。だからと言って俺も好きに裁くつもりはない。でも一つだけ分かった。俺が絶対になりたくない人間は――きっとお前みたいな奴だろう」
水球の中で泡が激しく弾ける。
それでもホシグマの声はヒヨリに届いた。
「ははっ……俺みたいな堕落したクズか?ガキ。人間はだれもが最初から堕落したいわけじゃねぇ。世界が……お前の全てを喰らい尽くそうとする。待ってろ。いつかこの銀河が、お前のサハを粉々に引き裂く」
ホシグマは狂ったように笑った。
「その時になっても化け物にならずにいられるか――俺は楽しみに見ていてやる!!」




