それぞれの覚悟
安倍セイメイは渡殿を駆けていた。
息を切らしながら御簾を勢いよく掲げると、その部屋の中央には碓井サダミツが横たわっていた。傍らには卜部スエタケが正座している。安倍セイメイの姿を見るなり、卜部スエタケは立ち上がって一礼した。
碓井サダミツはひと目で激しい戦いを潜り抜けてきたと分かる有様だった。全身の傷にはすでに手当てが施されているものの、目を覚ます気配はない。
安倍セイメイの顔色は青ざめていた。卜部スエタケに礼を返すことすら忘れ、そのまま碓井サダミツの傍へ駆け寄る。
「ご安心ください、セイメイ様。サダミツに命の別状はありません」
安倍セイメイはそっとサダミツの胸元へ手を添えた。淡い光とともに術式が描かれる。しばらくしてようやく彼女の肩から力が抜けた。
「……カクシと戦ったのね。ごめん。私が無理をお願いしたばかりに……」
「どうかご自分を責めないでください。ちなみにサダミツの奴、気を失う前に最後に言った言葉は、セイメイ様に膝枕してもらえるなら本望、だそうです」
「えっ……?」
「今回の愛宕山行きで、あいつも随分と意地になりましてね。どうしてもあの烏天狗と決着をつけたかったようです」
そう言うと、卜部スエタケは懐から一本の淡緑色の竹笛を取り出した。
それを見た瞬間、安倍セイメイの表情が変わる。
「それは……!どうしてあなたが、それを?」
「セイメイ様もご存じなかったのですか、それも巡り合わせでしょう。この笛は十年前からずっとサダミツが持っていました。落とし主を探し続けていたのですが、結局見つからなかったそうです」
彼は竹笛へ視線を落とす。
「今回、もし彼が負ければ笛を持ち主へ返す。もし勝てば、あの烏天狗に平安京へ来て協力してもらう。そういう約束だったんです」
「……」
「ですが二人とも能力の相性が極端でしてね。最後まで決着はつきませんでした」
安倍セイメイは静かに碓井サダミツの寝顔を見つめた。そして、その様子から何が起きたのかを少しずつ察していく。
「……そうですか。それで?」
「引き分けということで折り合いがつきました。大災害の際には力を貸してくれるそうですが、それが終われば笛は返してもらう。二度目はない、と」
安倍セイメイはそっと竹笛を受け取った。懐かしむように指先で撫でて、そこには喜びよりも、深い寂しさの方が色濃く滲んでいた。
やがて彼女は、竹笛を碓井サダミツの枕元へ置く。
「セイメイ様が見た未来の中で、あの烏天狗――カクシの姿をご覧になったのですか」
「ええ」
安倍セイメイは頷く。
「それでも私は、あの子が痛ましくて……きっと、カクシがなぜ愛宕山に自らを閉じ込めたのかを理解できるのは、もうこの世で私だけでしょう。今回の件がなければ、本当は放っておきたかった。これ以上、あの子を苦しめたくないから」
卜部スエタケはしばらく黙り込む。やがてぽつりと尋ねた。
「……それはつまり、放っておく方が、あの人にとって幸せだったということでしょうか」
意外な問いだった。安倍セイメイは碓井サダミツのハタを修復しながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私にも分からない。私がいいと思っていることが、本当にあの子のためになるのか。それは本人と向き合って話してみなければ分からない。今のところは、ただの私の独り善がりかもしれないね」
「……そうですか」
「ともかく、お疲れ様」
安倍セイメイは碓井サダミツの額を撫でた。このチャラ男がもし目を覚ましているのなら、さぞ喜ぶのであろう。
「サダミツは私が責任を持って面倒を見る。できるだけ早く目を覚ませるよう、全力を尽くす」
「ありがとうございます。ところで、大将たちはどちらへ?」
「ヨリミツ様たちなら先に出られた」
安倍セイメイは窓の外へ目を向ける。
「大災害まで残り三日。まだやらなければならないことが残っているから」
「どうして城の外へ出しちゃくれねぇんだ!鬼はまた襲ってくるんだろう!?」
「ですから、城外へ出れば陰陽師様の結界すらありません!どうか落ち着いてください!」
「どうせその結界また破られるんだろうが!騙されるもんか!」
「押すな!命令だ!」
「また鬼が来たらどうするんだよ!」
京の大門は騒然としていた。
荷を抱えた者、荷車を引く者、老若男女が門前へ押し寄せている。ただでさえ不安に満ちていたところへ厳しい外出禁止令が出されたのだ。人々の焦燥は限界に達していた。
「出してくれ!ここで死ぬのを待つなんて御免だ!」
「お願いです!せめてこの子だけでも外へ……!まだこんなに小さいんです!」
兵たちは必死に群衆を押し留めていた。しかし相手は守るべき民である。力ずくで鎮圧することもできず、人々はなおも前へ前へと押し寄せる。
防衛線が崩れかけた、その時。
「静に!!」
怒声が背後から響いた。
人々が振り返り、そこにいたのは、それぞれの残刻器を携えた渡辺ツナと坂田キントキだった。
「源氏の配下……」
「渡辺様と坂田様だ……!」
二人の名声は京中に知れ渡っている。それだけで群衆の勢いは目に見えて弱まり、門を守る兵たちもようやく安堵の息を吐いた。
民衆の一番前に、渡辺ツナは一歩出る。
「我々は既に申し上げたはずです、皆様」
低く、よく通る声だった。
「我らは京と運命を共にします。これ以上、一人たりとも傷つけさせないために。どうか大将のお言葉に従ってください」
群衆の間にざわめきが広がる。だが、その視線には疑念が色濃く残っていた。
「前も同じことを言ったじゃないか!」
誰かがそう叫んだ。
「何を守れたっていうんだ!?あの時だって大勢死んだ!俺の妻も子供も鬼に殺されたんだぞ!」
「うちの夫だってそうだ!」
「源ヨリミツなんか俺たちを守れやしない!」
「大将だっていうのに、一度だって俺たちの前に姿を見せようとしないじゃないか?!」
「怖くなってとっくに逃げたんだろ!今頃どこかへ隠れてるに違いない!」
その言葉に、坂田キントキの額に青筋が浮かぶ。
「……今、何て言った?」
低い唸り声で、彼の怒気に当てられた人々は思わず後退る。
「オマエらに何が分かる?!大将のことを何も知らねぇくせに!大将は――」
「キントキ」
小さな声が彼を止めた。
振り返ったら、いつの間にか小さな手が袖を掴んでいた。その主は静かに首を横へ振った。坂田キントキも唇を噛み、怒りを押し込める。
そしてその人物は二人の前へと歩み出た。
「子供?」
「誰だ、あれは……」
ざわめきが起こる。だが源ヨリミツは群衆を真っ直ぐ見据えた。疑念も不満も恐怖も、その全てを受け止めるように深く息を吸い、声を張り上げた。
「平安京の皆!源ヨリミツは――ここにいる。どこへも行かない」
次に、当然のように群衆は更なる混乱になった。
「えっ?」
「嘘だろ……?」
「はああ?」
「源ヨリミツって……あの源ヨリミツか?」
「馬鹿な!貴族の支配を覆して、大江山を討った将軍が……子供だと!?」
「待て、俺こいつ知ってるぞ!祭の日に見た!花火見物に来てた子供だ!」
「俺も覚えてる!屋台に飛び込んできて、かくれんぼしてるとか言ってた!」
「じゃあ……?」
「何なんだよ一体!?」
「静に!」
今度はまた渡辺ツナの怒声が響いた。
「大将がお話になっている!黙りなさい!」
源ヨリミツは予想していたかのように踵を返し、坂田キントキの前へ歩み寄る。
「お願い」
「はっ」
差し出された坂田キントキは左腕に、源ヨリミツは軽やかに跳び乗る。そのまま坂田キントキは片腕で源ヨリミツを高々と持ち上げた。
並外れた巨躯の坂田キントキの肩より高く掲げられたことで、後方の人々にまで源ヨリミツの姿が見えるようになる。
各所から驚愕の声が上がった。
「……皆にこうして姿を見せなかったこと、まずは謝罪だ」
源ヨリミツの声はよく通った。
「俺にも事情があった。京の大将がこのような姿だと知れば、不安になる者もいるだろうから」
議論の声が少しずつ収まっていく。
源ヨリミツは、刀へ手をかけた。
「だが、人の強さは姿形で決まるものではない」
刀がゆっくりと鞘から抜かれる。陽光を受けた刃が、だれの目から見ても鋭く輝いた。
「貴族から実権を奪った源ヨリミツも、大江山を討った源ヨリミツも、この俺。俺でしかない。なぜなら――この俺こそが、この平安京で最強の侍だからだ!」
小さな身体から発せられたとは思えないほど力強い言葉だった。
人々は息を呑む。
「皆が恐れていることは分かっている。鬼は多くのものを奪った。家族を。自由を。安らぎを。この場にいる誰もが、大切な何かを失っているのでろう。俺も何度も考えた。もし大人の身体を持てていたなら、皆をもっと安心させられたのではないか、と。けれど、それは叶わない。この身体は、もう二度と成長できない。それでも俺は今日、皆の前に立っている。もう同胞に対して隠し立てはない。この小さな身体であろうと、俺は京を守り抜く、命に代えても――」
「――だって俺は、この京が好きだ。唯一の故郷で、花火は美しく、屋台の料理は美味い、祭の日に聞こえる皆の笑い声は、何よりも愛おしい。だから祭の夜には、帰る時間も忘れて遊び回ってしまった。あの夜、普通の子供として過ごせなかった時間を、取り戻すかのように」
トランスグレッサーの三人が平安京へ来た最初の夜。あれほどの兵たちが源ヨリミツを探し回っていたのは、どうやらこういう事情だったらしい。
彼は刀を鞘へ納めた。
「これが俺の覚悟だ。本来なら力で皆を従わせることもできるが、あえて俺はここに姿をさらした。どうか理解し、そして、どうか力を貸してください」
源ヨリミツは深々と頭を下げた。
「……なかなかやるじゃないか、あの小さな将軍は」
その演説を、物陰に身を潜めながら、人知れず見届けていた者がいた。
「本来なら士気を下げかねない要素を、逆に武器に変えてしまうとはね。あんな小さな子供が命懸けで自分たちを守ろうとしている姿を見せられたら、さすがに騒ぎ続けるのも気が引けるでしょう」
「けっ。気が引けたところで死なねぇ保証にはならねぇだろ」
背後から別の声が響く。
振り返れば、墨色の短髪に赤茶の浴衣を纏った鬼――ホシグマが立っていた。片手を腰に当て、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「どうだい、ホシグマ」
蘆屋ドウマンは振り返り、愉快そうに笑った。
「ワタシの言った通りだったでしょう?この力があれば、鬼も結界を無視して京へ入り込める」
「まぁな」
ホシグマは肩を竦める。
「その過程が死ぬほど気持ち悪かったがな。ったく、シュテンの野郎め。こんなことまで隠してやがったとは、気に食わねぇ」
「それで?先日のお話、前向きに考えてもらえそうかな?」
ホシグマは呆れたようにため息を吐いた。
「今さら俺に聞く必要あるか?シュテンにやったみたいに、その気になれば俺だって好きに操れるんだろ。つーか、お前が本気になれば世界中の鬼を従わせられるんじゃねぇのか?何しろ、鬼たちを生み出した張本人なんだからな」
「ワタシは暴力が嫌いなんだ。平和的に解決できるなら、その方が素晴らしいでしょう」
――お前が言うかい。
ホシグマは心の中だけで吐き捨てた。
「まぁ、俺は構わねぇよ。好きなだけ暴れられるならな。鬼どもは俺が集めてやる。結界の前まで連れてくるから、中へ送るのはお前がやれ」
「では、協力関係成立ということで」
「へっ。せいぜい派手な殺し合いになるといいな」
そう言い残し、そのまま背を向けた。
好き勝手にどこかへ行こうとした、その様子だったが。
「ええ。怒涛の総攻撃になることを期待しているよ――それと」
ぱちん。
蘆屋ドウマンが指を鳴らした。
「がっ……!?」
ホシグマの身体が大きく揺れた。心臓を鷲掴みにされたかのような激痛。息が詰まり、膝が崩れる。大量の冷や汗が額から流れ落ちた。
「っ……お前……!」
地面へ片膝をついたホシグマを見下ろしながら、蘆屋ドウマンは相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「すまないが、今はまだ大人しくどこも行かないて結界の外へ帰ってほしい。今で民を襲われては困るからね」
「……ちっ」
ホシグマは苦々しく舌打ちする。
図星だった。どこかで適当な人を見つけて殺してやろうと考えていたのを、あっさり見抜かれていたのである。
やがて地面がどろりと溶ける。血のように赤黒い無数の手が現れ、ホシグマの身体へ絡みついた。
「マジで趣味の悪ぃ能力だな……」
ホシグマは冷笑し、抵抗する気はない。どうせ無駄だと知っている。
無数の血の手に引きずられながら、その身体はゆっくりと闇の底へ沈んでいく。やがて姿は完全に消え失せた。
一人残された蘆屋ドウマンは、再び京の方角へ視線を向ける。
門前では、まだ源ヨリミツの演説の余韻が残っていた。その様子を見つめながら、彼女は愉しげに目を細める。
「さて、平安京はどんな世界になったのか、見せてもらおう」




