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プロジェクト【サハ】  作者: 諸星佑月
【第二章】鬼も地獄も人の内

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破壊の匂い

「どうした、セイメイ?俺とツナに何か用か」

 三人のトランスグレッサーのうち二人が屋敷に滞在して三日目。安倍セイメイは庭の池を静かに見つめながら座っていた。その背後で渡辺ツナが御簾を持ち上げ、源ヨリミツを伴って姿を現す。

「……少し、ヨリミツ様とツナにご相談したいことがあります」

 安倍セイメイは立ち上がり、二人へ向き直った。

「その前に、一つ確認してもよろしいでしょうか。蘆屋ドウマンが再び平安京へ現れたあの日……本当に、ヒロマサの名前を口にしたのですか」

 源ヨリミツと渡辺ツナは顔を見合わせる。

「……ああ。すまない、セイメイ。君に辛いことを思い出させたくなかったんだ。十年前、俺が初めてここを訪ねた頃のセイメイは……見ていられないほど怖かったからな。心配していた」

 安倍セイメイは深く息を吸い、静かに首を振った。

「お気遣いありがとうございます。三日前に、そのことを伝えてくれたのは、あのハルカという少女でした」

「……あの小娘、余計なことを」

 渡辺ツナが不満そうな顔をする。

「構いません。おかげで、とても大切なことを思い出せました」

 そう言うと、安倍セイメイは表情を引き締めた。

「本題です。蘆屋ドウマン再来のことについて相談があります。たとえ三人のトランスグレッサーが協力してくださるとしても、シュテンの力を手にしたドウマンの戦力は底が見えません。それに平安京の民を避難させることも大きな課題です。彼女は私の術を知り尽くしています。私が何をしようとしても、先回りされるでしょう」

 安倍セイメイは一度言葉を切った。

「ですから――愛宕山へ赴き、新たな助力を求めたいのです。京の大結界を維持するため、私はここに残らければ故、どうか、お願いです」

 その言葉に、空気が一変した。特に渡辺ツナは、露骨に眉をひそめる。

「率直に申し上げますが、セイメイ様。愛宕山に味方になり得る者などいません。あの誰も近づけぬ山には、この十年間ずっと鬼が一匹いるだけですが」

「……かつての大江山討伐で、ホシグマという鬼がシュテンの情報を教えてきた。我々はそれを信じ、シュテンの首を討ち取ることには成功したが、疲弊したところを逆にホシグマや大勢の鬼たちに襲われた。俺はツナにシュテンの首を持たせて何とか脱出させたが、ツナもまた、イバラキの襲撃を受け、首を奪われた」

 源ヨリミツは苦く笑う。

「あの討伐以後、大江山の奴らは大人しくなり、平安京には長い間平穏が訪れたが……結果として、俺たちは多くの兵を失い、シュテンも再び蘇った。セイメイ、君は今、この危急存亡の時に、まさか鬼の力を借りようと言うのか」

 安倍セイメイはすぐには答えなかった。池を見つめながら、小柄な将軍の横を通り過ぎる。

「……鬼の多くが蘆屋ドウマンによって加害され、化け物へ変えられた存在であることは理解している。同時に、その化け物である事実を楽しんでいる者が大勢いることも、知ってるはずだろう」

「ええ。ですが――化け物である事実に苦しんでいる者も、大勢いるはずです」

「理屈としては正しい。だが現実は、そんな綺麗事だけでは割り切れないぞ」

「……そうですね」

 安倍セイメイの肩が小さく震え始める。

「……そういえば、まだ話したことがありませんでしたね。私は昔、この屋敷の貴族どもが大嫌いだったんです。藤原も源氏も、人を勝手に上と下に分けて、自分たちだけが偉い顔をして、好き放題に振る舞う――私がこの屋敷へ来た時だってそうです。偉そうな奴らの都合で無理やり連れて来られただけで、私の意思なんて誰一人聞こうともしなかったです。だから私は誰にも笑いかけなかった。誰にも心を開かなかった。屋敷のくそ野郎なんて全員同じだと思っていたんです」

 なのにその声が、かすかに揺れる。

「どうして……どうして私は、あの時彼を信じようとしなかったのでしょう。せめてもっとちゃんと挨拶をしていればよかった。もっと笑いかけていればよかった。もっと優しい言葉をかけていればよかった。もう二度と会えない今になって、ようやく後悔することしかできない……!」

 安倍セイメイは唇を噛み締めた。

「……ヨリミツ様。こんな時に無茶をすべきでないことは分かっています。でも――この世を守ろうとする私たちですら信じることを諦めてしまったら、たとえ平安京を守れても、未来などありません」

「セイメイ……」

「あーっ!もう、大将もツナも何をやってるんですか!」

 場の空気を吹き飛ばすような大声が響く。

 碓井サダミツは、一直線に安倍セイメイのもとへ駆け寄ると、半ば強引に彼女を立たせ、その袖で顔を隠させる。

「美女が泣き顔になっちまってるじゃないですか!こういう時は俺みたいな気の利く男が必要なんですね!――で、何の話っすか?」

 こんな突然の乱入に、源ヨリミツですら少し混乱する。

「えっと……セイメイが、愛宕山の鬼に協力を求めたいと言っていてな」

「へえ?そうですか。なら俺が行きますよ、勝てなくても逃げる自信なら平安京一っす!大将も知ってますよね?」

「……」

「心配ならスエタケも連れて行けばいいですよ!俺たち二人が揃ってもやられてしまったら、その鬼は蘆屋ドウマンより先に討伐しなきゃならない相手と思いますが」

「馬鹿馬鹿しい」

 渡辺ツナは吐き捨てるように言った。

「私はどうあろうと、鬼を信用するつもりはございません。これからもそうである。セイメイ様と大将の判断は尊重します。ですが、鬼に背中を預ける気はありませんので、失礼いたします」

 そう言い残して立ち去る彼に、碓井サダミツは仕方なく肩をすくめた。

「相変わらず石頭だなあ。まあ仕方ありません、あいつは誰より鬼に騙された男でしょうね。で?俺が愛宕山に行くってことで決まりですか?」

 安倍セイメイはゆっくりと息を整えると、碓井サダミツの腕をそっと押し返し、もう大丈夫だと示した。

「……ありがとう。スエタケも協力してくれるなら、本当に助る」

「おう!美女の頼みを断る男じゃないっすからな!大将は?」

「そっちが自分から名乗り出た以上、俺に言えることは一つだけだ」

 源ヨリミツはかすかに微笑むと、表情を引き締めて碓井サダミツへ向き、将として正式に命を下した。

「スエタケの意思を確認しな。もし同行するなら、君たち二人への命令はただ一つ――必ず生きて帰ってこい」

 碓井サダミツは勢いよく膝をついた。

「――はっ!承知しました、大将!」


 一人その場を離れた渡辺ツナは、誰の目にも分かるほど険しい顔をしていた。

 朝の日差しは穏やかで、渡殿のあいだを数匹の蝶がひらひらと舞っている。人によっては心和む光景だろう。しかし今の渡辺ツナには、ただ鬱陶しい暑さしか感じられなかった。

「……九百八十九……!」

 その時、誰かの声が耳に入った。

 渡辺ツナは眉をひそめ、声のする方へ足を向ける。そこはトランスグレッサーたちに用意された客間のある一角だった。

 気配を隠して覗き込むと、庭の築山の脇でハルカが片手を地面につき、腕立て伏せをしているのが見えた。

「九百九十五、九百九十六……!」

 渡辺ツナは思わず目を見開く。

「千……っ!ふぅ!朝練終了ー!今日はフクロのやつ捕まえて剣の稽古でもするかな!」

 ハルカは満足そうに立ち上がり、肩を回して身体をほぐした。そしてそのまま部屋へ入ろうとして顔を上げた瞬間、いつの間にか立っていた渡辺ツナと目が合う。

「ゲっ。何してんの?覗き見?」

「……根印(ねしるし)も持たないくせに、随分と熱心だな」

「はいはいどうせ無駄な努力だとか言いたいんでしょ?一人も二人も根印(ねしるし)根印(ねしるし)ってうるさいんだよ。持ってなくて何が悪い!放っといてよ!」

 ハルカが噛みつくように言うと、渡辺ツナは逆に一歩近づいた。

「まだ貴様に直接聞いていなかったな。なぜイバラキに肩入れする」

「ヒヨリが言ったんでしょうに、あいつらが私たちを助けてくれたんだから、助け返すのは当たり前でしょ」

「貴様はイバラキの何を知っている。知り合ってどれほど経った?なぜあいつが心から貴様たちに誠実だと言い切れる」

「じゃあ何?人と知り合うたびに胸をかっさばいて、本心を確認しろって?」

 ハルカは腕を組み、鼻を鳴らした。

「世の中に悪い奴なんていくらでもいるに決まってる。人を踏みつける奴も、騙す奴も、暴力を振りかざす奴もね。そういうのをたくさん見てきたからこそ分かるんだ、誰が信じられるかくらい。だから、信じたいやつを信じればいい話だが」

「……誰だって、目の前の人は善なる者だと信じたいものだ」

 渡辺ツナがぽつりと漏らした言葉に、ハルカは少しだけ首を傾げた。

「この平安京で、一度の誤信がどれだけの人を葬ったと思う。トランスグレッサー――貴様の世界は、さぞ気楽なのだろうな」

 ハルカはその言葉にすぐ答えなかった。赤髪の侍の脇を通って、渡殿へ出ると辺りを見回す。

「ねえ、あんたたちの屋敷って手合わせできる場所あるでしょう?今ちょうどフクロが見当たらないんだよね。だからさ、私と一戦やろうよ。あんたいい稽古相手になれそうだし」

「……話が見えんな、小娘」

「私の世界が気楽だって?そんな世界だったら、私みたいなの育たないって」

 朝風に揺れる二つ結びがふわりと踊る。少女は彼を見据え、どこか挑発的な笑みを浮かべた。

「そんなにモヤモヤしてるならさ、一回思いっきりぶつけてみなよ。案外、暴れ終わったら答えが見つかるかもしれないよ?」


 安倍セイメイのもとを離れた源ヨリミツは、屋敷の屋根瓦の上に腰を下ろしていた。

 ――そう、文字通り屋根の上である。

 幼い子供のような姿をしたこの将軍は、考え事をするとき、昔からこうして高い場所に登る癖があった。視界を遮るものがなく、平安京の景色を一望できるからだ。

 やがて瓦を踏む軽い音が近づいてくる。

「おっ、大将!こんなところにいたのか!」

 坂田キントキだった。

 大柄な体格に似合わず器用に力を加減しながら、源ヨリミツの隣へしゃがみ込む。

「やっぱり蘆屋ドウマンのこと考えてたのか?大丈夫だって!オレたち今までどんな修羅場だって乗り越えてきたじゃねえか。今回だって絶対勝てる!」

「ありがとう、キントキ。ただ……ずっと気になっていることがあるんだ。鬼を討つ力を得るのみならず、不作為に甘んじていた貴族たちを退け、京の実権をその手中に収めるために、俺がこの体に潜んでいる人形の機能を完全に解放したことは、覚えているだろう?」

「ああ、もちろん!オレが初めて大将に会ったのって八年か、七年前くらいだったよな?あの頃の大将、本当に恐ろしいぜ。まるで糸で吊られた人形そのものだった」

「はは……」

 源ヨリミツは苦笑した。昔の話をされるたび、自分でも複雑な気分になる。いったい当時の自分は周囲にどう映っていたのだろう。

「でも、セイメイの話では、その後俺を今の状態まで戻したのはキントキだと。……本当に何も覚えていないのか?」

「うーん……悪いけど、そこは何度聞かれても分かんねえな」

 源ヨリミツは視線を京の街並みへ向けた。

「人形になった時点で、私の体は血肉を失っているはずだ。そのせいでサハも傷ついた。だからこそ、君たちが言う七年前の俺になったのだろう。サハの損傷によって人ならざるモノになる――形は違えど、鬼も同じ理屈だ。サハを癒すには、本来なら相応の血肉を代償として捧げるしかない」

 そこまで言うと、源ヨリミツはゆっくり坂田キントキをじっと見た。その表情は、先ほどまでとは比べものにならないほど真剣だった。

「……キントキ」

「ん?」

「シュテンのハタはどういう感じなんだ?」

「は?なんだよ急に。そりゃあ決まってるだろ。ものすごく濃い破壊の匂いだろう?」

「……俺は、一度もそんなのを感じたことがない」

「え?いやいや、そんなはずねえだろ?あれだけ分かりやすいのに!」

 源ヨリミツは立ち上がった。何かが繋がりかけている。断片だった違和感が、一つの形になろうとしていた。

「行くぞ、キントキ。セイメイに確認しなければならないことがある」

「えっ!?ちょ、大将!待てって!」



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