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プロジェクト【サハ】  作者: 諸星佑月
【第二章】鬼も地獄も人の内

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出会いも別れもいつも突然

 激しく降り注いだ血雨は、その勢いのわりに長くは続かなかった。ほんの数分――ただそれだけの時間だった。しかし、その数分がすべてを変えてしまった。

 雨は止んだ。だが、終わったわけではない。

 貴族たちの屋敷の外が混乱に包まれているのは言うまでもなく、屋敷内もまた地獄絵図だった。安倍セイメイは事前に「決して外へ出るな」と警告し、護符まで配っていたが、それを鼻で笑う貴族は少なくなかった。

 「陰陽師が大げさに騒いでいるだけだ」、「我ら高貴な者が、そんな根拠のない話を恐れるものか」、そう言って護符を受け取ることすら拒んだ者もいる。

 その結果、屋敷の守りは著しく手薄になった。今や陰陽師も貴族も兵も関係なく、自ら武器を取り、狂った鬼たちと戦わねばならない。

「はあっ!」

 源ヒロマサが慣れない太刀を振り下ろし、鬼の胸を斬り裂く。だが傷は瞬く間に再生した。この隙間に、源ヒロマサの背後から安倍セイメイの術式が発動する。光が鬼の全身を包み込み、化け物は灰となって消滅した。

「そのまま前を頼む、ヒロマサ!私は術を撃つ!」

「分かった……でもセイメイ、カクシが気になる!あいつなら無茶はしないと思うけど……あんたの力で見られないか?俺の未来でも何でもいい。カクシに関係する光景がないか探してくれるか?」

 安倍セイメイは無言で頷き、彼の肩へ手を置いて能力を発動した。

 だが、しばらくしても何も言わない。

「セイメイ?」

 安倍セイメイは冷や汗を流し、まるで何か恐ろしいものを見たかのような目で彼を見つめていた。

「……もう止まれ、ヒロマサ」

「え?」

「ここから先へ行くな」

 声が震えていた。

「お願いだから……動くな」

 源ヒロマサは首を傾げたが、すぐに察した。


 手を振るだけで空中を飛ぶ刀が軌道を変え、一体の鬼の眼を抉る。悲鳴を上げた鬼が後退した瞬間、もう一体が大口を開けて襲いかかった。カクシが左手を上げると、鬼は見えない何かに殴り飛ばされたように吹き飛び、回廊の柱を粉砕して突っ込む。宙を舞う刀は再び彼の右手へ戻り、黒い翼を広げた少年の姿はもはや人とは思えなかった。

 鬼たちは再生しながら何度でも襲いかかる。しかしカクシは容赦しない。見えない力で鬼を地面へ叩きつけ、踏みつけ、刀を口へ、耳へ、何度も何度も突き立てる。血飛沫が舞い、鬼の悲鳴が庭に響き渡った。

 やがて騒ぎを聞きつけた兵たちが駆けつける。

「いたぞ!ここに三体の鬼が!」

「包囲しろ!」

 カクシは甲冑をまとった兵たちを見上げた。

 一人の兵がその深紅の瞳と目を合わせた瞬間――まるで見えない手に突き飛ばされたかのように、その身体は勢いよく吹き飛び、数間先の壁へ激突した。

「くそっ……!落ち着け!こいつは普通の鬼じゃない!」

 兵たちはたちまち動揺した。

 カクシの足元では、先ほどまで暴れていた二体の鬼がすでに気を失っている。少年は左目から流れ落ちる血を拭い、ゆっくりと背中の黒い翼を広げた。

「き、貴様……化け物め!」

 一人の兵が恐怖に耐えきれなくなったのか、叫びながら刀を振りかざして突進する。

 カクシはただ左手を持ち上げた。兵士の脚はなおも前へ走ろうとしていた。しかしその身体は見えない何かに拘束されたようにその場で止まり、一間にも満たない距離をそれ以上縮めることができない。

 次に、兵士の身体は横殴りに吹き飛ばされ、柱へ叩きつけられた。

 さらに見えない力によって宙へ引き戻される。今度は庭の巨石へ。再び引き寄せられる。そして石畳へ。

 轟音が何度も何度も響き渡った。

 ドンッ。

 ガンッ。

 ズンッ。

 兵たちは呆然と立ち尽くした。目の前で起きている光景を理解できなかったのか、それとも恐怖で身体が動かなかったのか。

 蹂躙され続けた兵士は、すでに意識を失っている。だがカクシは止まらない。最後にもう一度、その身体を自分の方へ引き寄せた。

 右手の刀は、すでにそこに構えられていた。あとは兵士の身体が、自ら刃へ飛び込むのを待つだけだった。

 ――ぶしゅっ。

 鮮血が弾け、カクシの頬を赤く染める。

 そのすべては、ほんの一瞬の出来事だった。


「カクシは将来、何かやりたいことはあるのか?」

「うーん……考えたことないです。こうしてヒロマサ様のお側にいられるだけで、もう十分ですから……」

「ははっ。まさか一生そのままのつもりか?もし俺がいなくなったらどうするんだ?」

「そんなことありません!ヒロマサ様にはこれから先、まだまだ長い時間があります!僕にはまだ、ヒロマサ様に教えていただきたいことがたくさんありますから!」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけどな……。でも、人との出会いが突然訪れるように、別れもまた突然やって来るものなんだよ」


 ……あれ。

 何が起きたんだろう。

 そうだ。僕はあの二人に襲われて――。

 それから、言い争いになって。その後は……。

「カクシ」

 不意に名前を呼ばれ、少年ははっと顔を上げた。

 そこには、すぐ目の前に見慣れた人の姿があった。

「ヒロマサ様!」

 カクシは泣き出しそうな顔で叫んだ。

「来てくださったんですね……!よかった……あれ……?」

 どうして。

 どうしてヒロマサ様の胸に刀が突き刺さっているのだろう。

 どうして自分の手が、その柄を握っているのだろう。

 どうして自分の体は、ヒロマサ様の血で濡れているのだろう。

「……そっか、血肉と魂は切り離せないって、こういうことか。鬼にサハ()を元に戻させるには……十分な血を捧げるしか方法がないみたいだ」

 源ヒロマサは申し訳なさそうに微笑んだ。深紅の血が口元から流れ落ちる。

「……何を言ってるんですか、ヒロマサ様……?鬼って……」

 そこで初めて、カクシは自分自身の異変に気付いた。

 背中に広がる漆黒の翼。人ではあり得ない姿。

 震えながら振り返り、その翼を見つめる。

「な、何だよ……これは……?!僕は……僕は一体、何になってしまったんですか……!?」

「カクシ!」

 源ヒロマサは残された力で両手を伸ばし、少年の頬を挟んだ。

「逃げろ」

「え……?」

「平安京は、もうあんたを受け入れないだろうが、それでも生きろ、カクシ。何があっても生き延びて、自分が本当にやりたいことを見つけるんだ!」

「嫌です!置いていけるわけないじゃないですか!僕は……僕は……!」

 涙が止まらない。もともと片目は見えないのに、溢れる涙で視界はさらに滲んでいく。

 源ヒロマサはそんなカクシを強く突き飛ばした。

「セイメイ!」

 遠くで安倍セイメイが印を結ぶ。

「――天空、来たれ」

 その瞬間、銀色の大鳥が疾風を裂いて飛来した。

 回廊の外へ押し出されたカクシの衣を嘴で咥えると、力強く翼を羽ばたかせる。巻き起こった風に兵たちが足を取られた次の瞬間には、鳥はすでに空高く舞い上がっていた。

「ヒロマサ様――――ッ!!」

 少年の悲痛な叫びだけが空へ消えていく。

 残された兵たちは呆然と立ち尽くしたが、やがて我に返ると負傷者の救護に向かい始めた。

「ヒロマサ!」

 安倍セイメイは駆け寄り、倒れかけた源ヒロマサを抱き留める。彼女の腕の中で、源ヒロマサはカクシが消えていった空を見つめながら疲れたように笑った。

「ヒロマサ様!」

 兵の一人が慌てて声を上げる。

「すぐに人を呼んできます!」

「……下がれ」

 安倍セイメイは俯いたまま答えた。

「え?ですが――」

「下がれ。あの二体の鬼を確実に拘束しろ」

「……はっ」

 兵たちは従うしかなかった。

 カクシによって叩き伏せられた鬼たちは意識を失ったまま動かない。兵たちは苦労しながら巨大な身体を運び、幾重もの枷と鎖でその身を縛り上げていく。

 彼らが十分離れたのを確認してから、安倍セイメイはようやく源ヒロマサへ顔を向けた。必死に自分のハタを源ヒロマサへ、術式を書き込んで、これで少しでも彼を助けられるんじゃないかと。なのにカクシの意識を連れ戻すための代償に、源ヒロマサの血液だけでなく、内臓まで持っていかれた。

「神祇契約って……本当にすごい力だな」

 源ヒロマサは血を吐きながらも笑う。

「こんな時になって思うよ。もっと誰かを助けられる力があったらって」

 その言葉に、安倍セイメイの瞳から涙が零れ落ちた。

「私……私は未来を知っていたのに!あなたが死ぬことも、どう死ぬかも、誰に殺されるかも知っていたのに!それなのに何一つ変えられなかった……!結局私は、無力のままだ!」

 彼女は源ヒロマサを強く抱き締めた。

 初めてだった。そして最後でもあった。安倍セイメイが彼の前で、こんなにも取り乱して泣いたのは。

「セイメイのせいじゃないよ……俺が放っておけなかっただけだ。人は、身分も生まれも関係なく、分かり合えるって信じたかった。ようやく、自分として生きられるようになったカクシが、あんな風に化け物になってしまったのに……見捨てられるわけないだろ」

「馬鹿……!ヒロマサ、あなたは大馬鹿だ!自分の命すら大切にできない大馬鹿者だ!あなたがいなくなったら、私は……私はどうすればいいんだ……!」

「……ごめんな、セイメイ」

 源ヒロマサは最後の力を振り絞り、彼女の手を握る。

「蘆屋ドウマンがこんなことをしたのは……きっと根本的に、善なる人間というものを分からなかったからだ。セイメイ……俺からあんたへ伝えられるのも、これしか……うっ」

「ヒロマサ……嫌だ……ヒロマサ……!行かないで、行かないで!」

 分かっていた。

 源ヒロマサが今日死ぬことは、変えられない未来なのだと。

 それでも安倍セイメイは願った。

 祈った。

 抗った。

 ただ大切な人に生きていてほしい。それだけの願いすら、この世界は踏みにじろうとする。

「……もっと早く、あんたと出会えていたらよかったな、セイメイ」

 源ヒロマサの声は次第に弱くなっていく。

「最初から偏見なんか持たずに、あんたと向き合えていたなら……もっと長い時間を、一緒に過ごせたのかもしれない」

「ヒロマサ……」

「セイメイ……俺たち……友達、だったよな……?」

 安倍セイメイは涙を流しながら何度も頷いた。

「何を言ってるんだ……!当たり前じゃないか!あなたは私にとって、この生涯でただ一人の、かけがえのない人だ!」

 源ヒロマサは安堵したように目を細めた。

「……そうか。ありがとう」

 そして最後に、いつものような、穏やかな笑みを浮かべた。


 都からはかなり離れた山中で、笠をかぶり山伏姿に身を包んだ少年――すなわち十年前の碓井サダミツは、都の方角を見つめながら首を傾げていた。

「妙なハタだな……。さっきの不気味な雨雲はいったい何だったんだ?……うわぁっ!?」

 どこからともなく飛来した銀色の大鳥が、勢いよく彼にぶつかった。碓井サダミツは盛大に転倒し、地面を転がる。

「いてててて……」

 その拍子に、一本の竹笛がころりと彼の手元へ転がってきた。

 碓井サダミツは訳も分からぬままそれを拾い上げる。そして顔を上げた時には、銀の大鳥はすでに遥か彼方へ飛び去っていた。

「おーい!落とし物だけどー!」

 叫んでみたものの、当然返事はない。

 碓井サダミツは竹笛を手にしたまま、遠ざかる鳥影を見つめた。

「……っていうか、何なんだよ、あれ。あんなでかい鳥のくちばしに、人がぶら下がってたような気が……人、だよな……」

 ぽかんと口を開けたまま、都の方角へ視線を向ける。

「京でいったい、何が起きてるんだ……?」


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