百鬼夜行
カクシが源ヒロマサに救われ、今ではその傍で仕えるようになったことは、あっという間に屋敷中へ広まった。もちろん、源ヒロマサがたかが下人に雅楽を教え始めたという話も大きな噂となり、貴族たちはこぞって彼の振る舞いを軽率で品位に欠けるものだと非難した。
その中でも最も憤っていたのは、かつてカクシの主人だった貴族である。自分が捨てた下人を源ヒロマサが拾い上げたことが、まるで自分への当てつけのように思えてならなかった。しかし源ヒロマサは安倍セイメイと親しく、その安倍セイメイは藤原ミチナガの庇護を受けている。表立って文句を言うこともできず、鬱憤だけが募っていった。
その怒りの矛先は侍従たちへ向けられた。彼らは何日も殴られ、罵られ、ろくな食事も与えられない。遠くからカクシの様子を見ていた侍従たちは、誰もが心のどこかで嫉妬していた。
なぜあいつだけが救われたのだ。なぜ自分たちがあいつのせいで苦しまなければならないのだ。身分が低く生まれたというだけで、こんな扱いを受けるのが当然なのか。
虫の息になった彼らの前へ、主人は一本の短刀を放り投げた。
「やれよ、思う存分に」
その夜、平安京の空には黒々とした雨雲が垂れ込めていた。
大雨が近いことは誰の目にも明らかだった。貴族の屋敷では下人たちが渡殿を走り回り、蔀を下ろし、御簾を片付け、濡れては困る品々を運び込む。源ヒロマサの住まいには普段から下人がおらず、そうした備えは大雑把なものだったが、数多くの楽器だけは湿気を避けなければならない。そのためカクシが進んで作業を引き受けていた。
元々、「最近災害が来るかもしれないから、外には出るなよ」と源ヒロマサにも注意された。カクシにとってこれも気晴らしだ。
この日も源ヒロマサは安倍セイメイのもとへ出向いたまま戻っていない。カクシは一人で忙しく動き回り、周囲の気配に気づく余裕もなかった。
ぱきり、と枝の折れる音がした。
振り返った瞬間、二人の男がかかってくる。カクシはまともに体当たりを受け、庭へ叩きつけられた。
「っ……お前ら……!」
目の前にいたのは、かつて同じ主人に仕えていた侍従たちだった。以前は主人のお気に入りだった男たち。しかし今の彼らは飢えで頬がこけ、全身にあざを作り、まるで別人のようだった。そのうち一人は震える手で、短刀を握り締めている。
その姿を見ただけで、カクシは全てを察した。
雷鳴が轟き、重苦しい空気をさらに押し潰す。
「……恨むなよ……恨むなよ……!」
男は震える声で言った。それはカクシへ向けた言葉ではなく、自分自身への言い訳のようでもあった。
「やっぱりな。あの器の小さい貴族が、僕を放っておくわけがない」
カクシは懐にしまった竹笛へ手を伸ばした。それが勇気を与えてくれるかのように。
「恨むなら源ヒロマサを恨め!あいつがお前なんか助けたからだ!お前があの日、大人しく死んでいれば、俺たちは苦しまなくて済んだ!今日だって――お前を殺さなくて済んだんだ!」
「ヒロマサ様を……侮辱するな……!」
言い終わる前に男が斬りかかった。額を狙った刃を辛うじて避けたものの、左目が深く裂ける。
「ぁぁあああっ!」
鮮血を押さえながら、カクシは逃げ出した。男たちも執念深く追いかけてくる。
「待て、ガキ!」
「今日こそここで死ね!」
――彼らは、なぜそんな選択をしたのだろうか。
たとえ今日ここでカクシを殺せたとしても、その後に源ヒロマサや安倍セイメイが追及すれば、主人がたかが二人の下人を庇うはずもない。身を守るため、真っ先に切り捨てられるのは彼ら自身だっただろう。
それでも彼らは刃を取った。
その先に救いなどないと知っていたのか、それとも考える余裕すらなかったのか。
理由が何であれ、彼らはなお、自ら悪を選んだのである。
ざあああああああっ――。
平安京に、豪雨が降り始めた。
だが誰も気づいていなかった。その雨が、血のように赤く染まっていたことに。
本来なら、誰だって悪を望みはしないはずだ。武器を手に取り、人を傷つけるのは、きっと世界の理に敗れた結果なのだろう。
「愚かであろうと、害を加えていい理由にはならない……か。害なんて決めつけるのは早計だよ、セイメイ」
蘆屋ドウマンは地面へ最後の朱印を描き終えた。巨大な血色の陣が足元で生き物のように脈打つ。
「真に強く賢い人間にとっては、これはただの試練に過ぎない。ワタシ自身のハタは限られているが、術式で自然の霊脈のハタを借り、さらにサハを雨雲へ溶け込ませれば、平安京全体を能力の影響下へ置くことができる。これを乗り越えた者だけが残れば、京はもっと良い都になるはずだ」
彼女は短刀を握り締め、深く息を吸う。
「……ヒロマサ様、また必ずお会いします。新しい体を見つけたら、必ず。その時も変わらず、ワタシを褒めてくださると嬉しいのですが」
刃先が自らの胸へ向けられる。
「善を成すには悪を乗り越えねばならない。ならばワタシが悪役を務めましょう。どうか皆様、ワタシを打ち破り――善き人間に、なってください」
轟雷が鳴り響いた。
源ヒロマサは驚いて縁側へ目を向ける。外では豪雨が地面を叩き、木々さえ押し曲げていた。
「酷い雨だ……ん?」
縁へ歩み寄り、外へ手を伸ばしかけたその時。
「ヒロマサ!」
突然安倍セイメイが、その手首を強く掴んだ。
「うわっ!?セイメイ!?」
「緊急事態だ。絶対に外へ出るな」
安倍セイメイの表情は凍り付くほど真剣だった。
「もう京は混乱している。この雨は……まさに私が未来で見たものと同じだ」
彼女は赤い雨を見つめる。
「浴びた者を鬼へ変える――血雨だ。そしてこのハタ、間違えなく……蘆屋ドウマンだ」
「……え?」
もし地獄が存在するのなら、その夜の平安京こそがそうだった。
化け物の咆哮。絶え間ない悲鳴。子供たちの泣き声。飛び散る鮮血。原形を失った屍の山。血色の豪雨は京を巨大な血の池へ変え、化け物たちの温床となっていた。
「後ろだ!」
護符に守られた兵たちが鬼の群れと必死に戦う。鬼の爪は刀を砕き、牙は喉を噛み千切る。本来なら陰陽師が相手取るべき存在を、今は兵たちが食い止めていた。
安倍セイメイの予知は正しかった。だからこそ事前に大量の護符を用意できた。しかし、それでもなお異形の化け物を前に冷静でいられる者は少ない。
「セイメイ様の護符がなければ、とっくにやられていた……」
「また来るぞ!」
鬼は増え続ける。血雨を浴びた人々は膝をつき、泡を吹き、身体を震わせながら何かに抗う。しかし多くは敗れた。額には角が生え、口には牙が伸び、膨張した肉体が人の形を失っていく。
十五歳の渡辺ツナは、その光景を目の当たりにした。人だったものが人を喰らう。肉を裂き、血を啜る。
渡辺ツナは歯を食いしばり、屍を吞み込んでいる鬼へ斬りかかった。鬼の牙が刀身を受け止め、刀は牙に挟まれ、膠着した。
「ツナ!」
「……根絶してやる」
少年の瞳は決意に燃えていた。
「こんな悪の化身を生かしておけるか!こいつらがいる限り、平安京の悪夢は終わらない!」
渾身の一撃が振り下ろされ、鬼の頭部が彼の刀に断ち割られた。
「な……何なんだ……これ……?」
カクシを追っていた二人の男たち、その身体が風船のように膨れ上がり、短刀が泥へ落ちる。額から角が突き出し、体躯は人の限界を超えて巨大化していく。
「グオオオオオオオッ!!」
「な、なんだよ……」
カクシは泥の中を這いながら後退る、立ち上がる余力すらない。
「来るな……来るな……!」
鬼たちは咆哮し、血走った目で襲いかかってきた。恐怖で足をもつれさせたカクシ、残された右目が赤い光に染めた。
「――来るなぁっ!!」
その叫びと同時に、二体の鬼が突然吹き飛んだ。轟音と共に石壁へ叩きつけられ、巨大な穴を穿つ。
周囲には誰もいない。何が起きたのか分からなかった。
だが次の瞬間、カクシの身体を引き裂くような激痛が襲う。
「ぐっ……あああああああっ!!」
血雨の中、カクシの身体を引き裂くような激痛が襲う。少年は、頭を抱えて地面に跪く。
「コロス……コロシテヤル……」
鬼たちはまだ生きていた。唸りながら再び迫ってくる。
その時、カクシは顔を上げ、瞳に鬼の姿を映す。
直後――泥の中へ落ちていた短刀が、独りでに宙を舞った。
ざしゅっと、鮮血が飛び散る。短刀は鬼の腕へ突き刺さり、そのまま丸太のような腕を切断した。切り落とされた腕が泥へ沈む。
「ヒロマサ様を……僕を救ってくれた男を侮辱するお前らのようなやつ……!」
荒い息を吐きながら、カクシは鬼を睨みつける。
「お前らこそ、ここで死ぬべきやつだ!」
その背中が大きく裂けた。血を撒き散らしながら現れたのは、漆黒の翼。人ならざる黒い羽根が血雨の中で大きく広がる。
少年はゆっくりと立ち上がった。全身に力が満ちていく。赤い雨の下、黒翼は力強く羽ばたいた。
それはまるで、一人の少年の終わりと、新たな存在の誕生を告げる凶兆のようだった。




