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プロジェクト【サハ】  作者: 諸星佑月
【第二章】鬼も地獄も人の内

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花と呪

 兵士に乱暴に突き飛ばされた少年は、土埃にまみれたまま地面を転がった。何日も続く高熱で意識は朦朧としており、頭の中まで焼け爛れてしまいそうだった。自分が昼夜を問わず仕えてきた貴族に、まるで汚物でも捨てるように屋敷から放り出された――その事実だけが、断片的に脳裏へ残っている。

 喉は掠れ、全身に力が入らない。それでも屋敷の奥からは、貴族たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる気がした。

「うせろ」

 苛立った兵士がさらに蹴りを入れる。少年の身体は泥水の中へ転がり、咳き込むたび熱い息が漏れた。それでも彼は歯を食いしばり、残った力だけで地面を這う。指先が泥に沈み、爪が剥がれそうになっても止まれなかった。


 澄み切った笛の音が静かに止み、安倍セイメイはゆっくりと目を開けた。向かいには、どこか期待したような顔の源ヒロマサが座っている。

「……はいはい。確かに、良い音色だった」

「だろ?」

 源ヒロマサは得意げに笑う。安倍セイメイは悔しいながらも認めざるを得なかった。雅楽における源ヒロマサの腕前は、宮中でも比肩する者がいない。

「こんな贅沢な演奏を、私ひとりで聞いてしまうのは惜しいくらいだ。すまないが、今日は……」

「また仕事に戻るつもりじゃないだろうな?」

「……ヒロマサ。前にも言ったはずだ。私は平安京が災害に陥る未来を見た。だが、その原因も時期も分からない。今のうちに何とかしなければ――」

「セイメイ」

 源ヒロマサは彼女の肩を軽く叩いた。

「ひとりで焦ったって仕方ないだろ。貴族だって毎日山ほど上奏を聞いてるんだ。……今日こうして笛を聞かせに呼ばなきゃ、あんたまた徹夜するつもりだろ?三日目くらいか?」

 安倍セイメイは答えられない。

「顔色最悪だぞ。そんな状態で考え続けたって、急にその未来の原因が分かるわけじゃない。分かる前にあんたが倒れる」

「……私は……」

「というわけで今日は休め!無理矢理でも気分転換だ。市へ行こう!」

「ちょ、待っ……はぁ……」

 結局、安倍セイメイは半ば強引に屋敷を連れ出されることになった。


 最近の貴族社会では、陰陽師たちはもはや道具同然だった。誰が優れた陰陽師を抱えているかで権勢を競い合い、陰陽術の比べ合いまで始まっている。安倍セイメイほど名高い存在なら、その中心に据えられるのも当然だった。

 源ヒロマサは、そんな扱いに耐えられなかった。

「おお、久しぶりに来たらずいぶん賑やかだな!琴の弦に使えそうな素材も見つかるかもしれない」

 通りには色とりどりの店が軒を連ね、荷車が行き交い、人々が肩をぶつけ合うほどの賑わいを見せていた。そんな中、貴族装束に身を包んだ二人が並んで歩けば、自然と周囲の視線を集める。

 そもそも平安京の貴族たちは、商人という存在をどこか見下していた。金の匂いにまみれた卑しい者たち――そう蔑みながらも、都の外から運ばれてくる布や香、食料には頼らざるを得ない。ゆえに市場へ足を運ぶのは大抵、使い走りの下人ばかりで、貴族本人がこうした場所へ姿を見せることは滅多になかった。

 だが、源ヒロマサは最初からそういう男ではない。下人をひとりも側に置いていない彼は、必要な物はいつも自ら買いに来ていた。

 一方の安倍セイメイは、どこか落ち着かない様子だった。こうした市へ来ること自体、彼女にとって初めてだったのである。もとより人目を引く美貌の持ち主で、貴族たちからも雅とまで囁かれるほどだ。まして庶民の集う市では、その姿はあまりにも目立った。行き交う男たちが、隠そうともせず彼女へ視線を向けてくる。

「セイメイ、こっち」

 人混みの中で、源ヒロマサが自然に安倍セイメイの手首を取る。彼女は一瞬肩を震わせたが、その手は乱暴ではなく、むしろ不思議な安心感があった。

「……別に、子供じゃないんだけど」

 口ではそう言いながら、振り払わない。

「なあ、ここへ来てみて、どう思う?」

「……皆、忙しそうにして、話して、歩いて……そして、笑っている」

「俺はここへ来るたび思うんだ。この世界って、案外悪くないのかもしれないって」

「……それは、綺麗な部分しか見ていないだけだ」

「そうだな。でも逆に、屋敷の中の醜さだけ見て、世界を決めつけるのも違うだろ?」

 その言葉に、安倍セイメイは返事ができなかった。

 やがて人波を抜けると、視界の先に巨大な桜が現れる。薄桃色の花弁が空を埋め尽くし、風に乗って雨のように舞っていた。

「セイメイ、見ろ!」

 源ヒロマサに促されるまま、その指差す先へ視線を向けた瞬間――安倍セイメイは思わず息を呑んだ。

 空を覆うほどに咲き誇る桜が、青空を淡い桃色へ染め上げている。風が吹くたび、無数の花びらが雨のように舞い落ち、その光景はまるで夢の中の景色のようだった。

 安倍セイメイは呆然としたまま、ゆっくりと手を伸ばす。すると幾枚もの薄紅の花弁が、まるで彼女を迎えるように掌へ舞い降りた。

 ずっと張り詰めていた彼女の眉が、その時ようやく柔らかくほどける。

 安倍セイメイは隣に立つ源ヒロマサへ目を向けた。何か言おうとしたものの、胸の奥に浮かんだ感情をどう言葉にすればいいのか分からない。ただ、微かに頬を染めながら、彼に掴まれていた手首をそっと引き戻し、照れ隠しのように背を向けた。

「……市は広い。別々に回ろう。陰陽術に使えそうな物を探したい」

「ああ、じゃあ夕方ここで落ち合おう」

 彼女は小さく頷き、人混みの中へ消えていった。

 源ヒロマサも別方向へ歩き出そうとした時、不意に誰かとぶつかる。

「きゃっ」

「あ、すまない!っと……」

 ぶつかった相手の声が女性のものだと分かった瞬間、源ヒロマサは反射的に手を伸ばしていた。倒れそうになった身体を素早く支え、そのまま片腕で背をしっかり受け止める。

 目の前にいたのは、黒髪の先が淡く緑へ移ろう、美しい女だった。翡翠色の瞳はどこか儚げで、深い色合いの狩衣を纏っていても、隠しきれないほど艶やかな体が分かる。

 源ヒロマサはその近さに気づくと、慌てて身を引いた。

「す、すまない。怪我はないか?」

「……はい。こちらこそ、不注意でした、ヒロマサ様」

「え?俺を知ってるのか?」

 源ヒロマサは首を傾げたが、すぐ彼女の装束へ目を留める。

「……その格好、もしかして屋敷の者か?」

 女は少し気まずそうに目を伏せ、静かに礼をした。

「蘆屋ドウマンと申します。ワタシは、藤原アキミツ様に仕える陰陽師でございます」

 その名を聞いて、源ヒロマサもようやく思い出す。近頃、藤原ミチナガに対抗するように各家が優秀な陰陽師を集めているという話は耳にしていた。

「あんたも陰陽師なのか。今日は術具でも買いに来たのか?」

「いえ……本日は、アキミツ様に命じられてお香を買いに……」

「香?それって使い走りじゃないか。陰陽師なのに?」

 源ヒロマサは呆れたように言いかけ、ふと視線を止めた。

 先ほど支えた拍子に捲れた袖の隙間から、細い腕にいくつもの青あざが見えていたのだ。

 蘆屋ドウマンははっとして袖を引き下ろした。

「……ドウマンって言うんだな。何があった?」

「い、いえ……。ワタシが未熟で、アキミツ様のご期待に応えられなかっただけです。これは当然の――」

「そんなわけあるか!ちっ……」

 思わず強い口調になる。しかし同時に、他家の事情へ軽々しく踏み込めないことも理解していた。

 それでも、見て見ぬ振りはできなかった。

 源ヒロマサは彼女を連れて市の別の通りへ向かい、薬草や治療道具を売るところを探す。薬と布を買い込むと、人目につきにくい場所へ移動した。

「少しだけじっとしててくれ。セイメイに教わった甲斐があるな……」

 以前、安倍セイメイから教わった手当の知識を思い出しながら、源ヒロマサは慎重に薬を塗り、青あざの残る腕へ布を巻いていく。

「痛かったら言ってくれよ」

「……いいえ。ヒロマサ様は、とてもお優しいですから」

 源ヒロマサは真剣に包帯を巻くことへ集中していて、彼女がどんな眼差しで自分を見ているのか、まるで気づいていなかった。

「ヒロマサ様……以前から、遠くで何度かお見かけしていました。やはり、他の方とは違いますね」

「はは、変わり者ならよく言われるよ」

「違います……!そうではなくて……ワタシは昔から、人と関わるのが苦手です。どうして皆、あんなにも平然と酷いことが出来るのでしょう」

 源ヒロマサは少しだけ考え込み、それから苦笑した。

「……さあな。でも、人は山ほどいるよ。まだ会ってないだけかもしれないだろ?本当に会うべき相手に」

「……ヒロマサ様は、もう出会えたのですか?」

「うーん……大口叩いた手前あれだけど、俺もまだ分からない。でもさ、自分は誰とも分かり合えないって決めつけるのだけは駄目だと思うんだ。そんなの、永遠に夜の中へ閉じこもるようなものだろ」

 布を巻き終え、源ヒロマサはようやく顔を上げた。

「よし。これで大丈夫だ。薬は三日くらい塗り続けた方がいい。何か困ったことがあったら、遠慮なく来てくれ」

 蘆屋ドウマンはしばらく呆然と彼を見つめていたが、やがて深く頭を下げる。

「……ありがとうございます、ヒロマサ様」

「気にするな」

 彼女はもう一度丁寧に礼をすると、数歩下がり、そのまま人混みの中へゆっくり消えていった。

 蘆屋ドウマンの姿が人混みの中へ消えていくのを見届け、源ヒロマサはようやく小さく息を吐いた。

 これで少しは力になれただろうか――そんなことを考えながら、彼も再び市場を歩こうとした、その時だった。

「あっ――!」

 不意に誰かが勢いよく胸元へぶつかってくる。

「……セイメイ?」

 今度は安倍セイメイだった。つい先ほど別れたばかりだというのに、彼女はもう戻って来ている。それも、先ほど桜を見て少しだけ和らいでいた表情は消え失せ、再び深い憂いに覆われていた。

「どうしたんだ?もう買い物は終わったのか?」

「ヒロマサ、私はすぐ屋敷へ戻らないといけない」

「え?ちょっと待てよ。今日は休めって言ったばかりだろ!」

「さっき、新しい術具で占じてみたの。……ミチナガ様の周囲に、呪詛が掛けられている」

 源ヒロマサの表情も一変した。

「呪詛……?」

「詳しく調べなければ分からない。でも急がないと。ごめんなさい、ヒロマサ。今日はこれで――」

 そう言い残すや否や、安倍セイメイは踵を返して駆け出していく。

 人混みを掻き分けながら遠ざかっていくその背中を、源ヒロマサはしばらく呆然と見つめていた。やがて、悔しそうに奥歯を噛み締める。拳を強く握りしめ、彼もまた彼女の後を追って走り出した。

 ――たった一日すら、あいつは休むことができないのか。



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