雅楽の縁
平安京――その都と周囲に広がる荘園や田畑のほとんどは、貴族たちの支配下にあった。民から納められる租税や米、武装集団の統率、さらには学問や教育に至るまで、あらゆる権限は彼らの手に握られている。
貴族には様々な苗字が存在したが、その中でもひときわ絶大な権勢を誇っていたのが、藤原であった。
中の源氏の者たちは、生まれながらにして優れた身体能力を持つ。多くは武を重んじ、剣や弓に励む一族だったが、源ヒロマサだけは少し違っていた。
暴力や争いを好まぬ彼は、幼い頃から楽の道に魅せられ、笛や和琴に至るまで多くの楽器を自在に奏でることができた。音を紡いでいる時間だけは、煩わしいしがらみを忘れられる。だからこそ、彼は楽を好んでいる。
だが、文官として名を連ねている以上、貴族たちの集まりに顔を出さぬわけにもいかない。この日もまた、退屈極まりない貴族同士の歓談の席へ出向いていた。
「そういえば最近、また腕の立つ女陰陽師が屋敷へ入ったそうではないか。なんでも随分気が強いとか」
その言葉に、源ヒロマサも少し思い当たる節があった。
「藤原ミチナガ様が直々に招き入れた方らしいぞ。占いの腕が非常に確かだとか。安倍セイメイ……と言ったかな」
「腕が立とうが何だろうが、あの態度はいささか無礼すぎる」
「いやいや、私は気に入ったぞ。あれほどの美貌、なかなかお目にかかれるものではない。少々気位が高いくらいがちょうど良い」
「分かる。あの者が来てから屋敷の空気も少しは清められると良いのだがな。最近は下働きの者が疫病にかかって困っておる。穢れが広がる前にとっくに追い出したが、他の者へ移るやもしれぬと思うと落ち着かん」
源ヒロマサはそこで、静かに茶を置いた。
「下人は所詮下人よ、生まれつき穢れておる、防ぎようもないさ。我らのように雅を解する者は、穢れとは無縁だ。……そうだヒロマサ、今日は琴を持ってきておらぬのか?一曲披露してくれ」
やはり来たか、と源ヒロマサは内心でため息をついた。だが顔には出さず、静かに立ち上がって一礼する。
「申し訳ありません。今、新しい曲を考えておりまして。少しそちらへ集中したく、今日は控えさせていただきたく」
「おお、新しい曲とな!」
「それは楽しみだ」
「良いことだな。やはり雅な心を持つ者には福が寄る」
「……では、俺はこれで失礼いたします」
明らかに会話を切り上げるようにして、源ヒロマサはその場を後にした。
新しい曲を作っているというのは事実だった。だが、それを理由に演奏を断ったのは半分方便でもある。あの場で楽を奏でる気分には到底なれなかった。
自室へ戻ると、彼は深く息を吐き、自ら和琴を抱えて庭へ出た。
今日は陽射しが心地良い。こういう日に楽を奏でれば、少しは心も軽くなる。
源ヒロマサは芝へ腰を下ろし、琴を静かに膝へ置いた。六本の弦へ指を添え、琴軋を滑らせる。
柔らかな音色が庭へ溶けていった。風が草を撫で、木々の影が地面へ揺れる。葉擦れの音と琴の音が混ざり合い、その庭園だけが別世界のような静寂に包まれる。
穏やかで、けれど生気を失わない旋律。
源ヒロマサは夢中で音を紡いでいたが、不意にその手を止めた。
「――誰だ?」
気配があった。問いかけると、相手は隠れる気もないらしい。庭の奥から、そのまま姿を現した。
長い紫がかった黒髪。白衣の陰陽師装束。
安倍セイメイだった。
「……これはこれは、ようこそ、安倍セイメイ殿」
源ヒロマサは座ったまま言う。
「今日はどのようなご用件で?」
「別に。誰がそんな暢気に楽など奏でているのか、少し気になった」
どう聞いても褒め言葉ではない。
「武芸も政も苦手な身ですからね。せめて風流くらい楽しみませんと」
安倍セイメイは少し黙ったあと、ふいに口を開いた。
「……その琴、弾かない方がいい」
「は?」
源ヒロマサは眉をひそめた。
「俺が何をしようと、陰陽師殿には関係ないだろう」
「……」
「先に言っておきますが、あんたが妙な術で名声を得ようと地位を得ようと、俺にはどうでもいい。二度と俺を巻き込むのは――」
次の瞬間。
ビシッ――という鋭い破裂音が響いた。
「っ……!」
源ヒロマサの左手に激痛が走る。
見れば、切れた琴弦が指を深く裂いていた。鮮やかな血がぽたぽたと芝へ落ちていく。
「だから言ったのに……!」
安倍セイメイは慌てて駆け寄り、源ヒロマサの手首を掴んだ。
「誰か!手当てを――!誰か!」
しかし返事はない。
源ヒロマサは痛みに顔をしかめながら苦笑した。
「……うちには侍女も従者も置いてないよ。道具なら隣に……」
「まったく……大人しく座っていろ!」
安倍セイメイはすぐ隣の部屋へ駆け込み、何やら激しく探し回る音を立てたあと、薬箱を抱えて戻ってきた。
源ヒロマサは少し驚いていた。
世には医術に長けた陰陽師もいると聞くが、大半は口先だけの似非ばかりだ。だが安倍セイメイの手つきには一切の迷いがない。血を止め、薬を塗り、布を巻き付け、その上へ指先でさらさらと術式を書き込んでいく。
気づけば三本の指が丁寧に布で覆われていた。
「……大事には至らぬ。しばらく安静にしていろ」
源ヒロマサは包帯を眺め、それから安倍セイメイを見上げた。
「あんたまさか、最初から琴弦が切れると分かっていたのか?」
安倍セイメイは隠す様子もなく頷いた。
「源氏の者なら、根印くらい知っていると思ったが」
「いや、知らない」
「……本当に?」
呆れたように息を吐き、安倍セイメイは視線を逸らした。
「まあいい。藤原ミチナガ様が、私の力を見込んでこの屋敷へ招いたという話は聞いているだろう。私の能力は――五芒栻と名付けている。私は、未来に起こるあらゆる不幸を、事前に見ることができる」
「未来の不幸……?」
「人も物も、その未来が見えるが、私には災厄と悲劇しか見えない。そして見えたとしても、今まで私が何をしようと、それは必ず起こってしまう」
源ヒロマサはそこでようやく理解した。
彼女は先ほど、自分が怪我をする未来を見ていたのだ。止めても意味がないと分かっていながら、それでも口にせずにはいられなかった。
「……ありがとう」
安倍セイメイは少々その礼に驚いたようだ。
「別に」
「いや、でも助けてもらったし。俺一人じゃ、手当てなんて全然わかんないからさ。……それより、どうしてこんなところに?この後は何か用事でもあるか?」
「いえ。通りすがりで、ただ、誰が琴を弾いているのか気になっただけだ」
「へえ?じゃあ、少なくともうるさいっではなかったってことかな」
「……さあ」
「嫌なら、人の庭まで入って来たりしないだろう。つまり、気に入ったんだな!俺の演奏!」
「あなた……!本当に厚かましい男。源ヒロマサは変わり者だと聞いていたが、まさに噂通りだ」
「ははは!そっちこそだよ。安倍セイメイは人を寄せ付けないって有名だけど、なるほど本当だったんだな!」
源ヒロマサは、自分が陰陽師と親しくなる日など来るとは思ってもいなかった。
彼の中で陰陽師というものは、胡散臭い術を振りかざし、いかにも意味ありげな顔で怪しげな言葉を並べ立てる存在だった。中には本当に力を持つ者もいるのだろうが、多くは大した実力も無いまま貴族に取り入り、高い俸禄を得て暮らしている――そんな印象しかなかったのである。
だが、安倍セイメイは違った。
気付けばこの数日、源ヒロマサは彼女と顔を合わせることが増えていた。話を重ねるうちに、彼は今までまったく知らなかった数々の事柄を知っていく。
陰陽術の正体。根印持つ者たちの存在。そして、ハタと呼ばれる不可思議な力。
「浄瑠璃姫くらいは知っているだろう?」
縁側へ腰掛けた安倍セイメイがそう言った。
「陰陽寮に残されていた最古の記録には、この宇宙について多く記されていた。源氏と浄瑠璃姫の関係についてもな。ただ、大半が特殊な術式文字で書かれていて、解読は容易ではなかったが」
「へえ……なるほど、セイメイが妙に物知りなのはそのことか。浄瑠璃姫の話なら、俺も幼い頃に聞いたことはある。でも、てっきり物語か何かだと思ってたよ。源氏も長い年月で色々な派閥に分かれてしまって、昔のことなんて随分失われてるからな」
そう言って、彼は空を見上げた。
眩しいほど青い空の向こうに、本当に別の世界が存在しているのだろうか――そんなことを言われても、源ヒロマサにはまだ実感が湧かない。
「この世界の外に、さらに広い世界がある……か。なんだか不思議な話だな。俺なんて、自分の周りのことで精一杯だというのに。……ところでセイメイ、あんたって、本当は貴族が嫌いなんだろ?」
安倍セイメイは隠す気もなく、淡々と頷いた。
「では何故、藤原ミチナガ様の誘いを受けて屋敷へ来た?」
「……以前、私の暮らしていた場所の近くには、多くの農民がいた。皆、決して裕福ではなかった。日々の暮らしに追われ、それでも笑って生きていた。私は、そういう者たちと話す時間が好きで、時折手伝いもしていた」
彼女の横顔に、どこか柔らかなものが差す。
「だが近年、税が酷くなる一方でね」
「ああ……その話なら俺も聞いている。米だけじゃない。布も、労役も取られる。国司が取り、荘園主が取り、地方の豪族まで取り立てる」
「……ミチナガ様は、私の力を見て随分気に入ったらしい。そして条件を出した。屋敷へ来るなら、あの人たちの税を免除してやる、と。逆に断れば、倍にすると」
源ヒロマサは言葉を失った。安倍セイメイほどの女が、そんな理由でこの屋敷へ来たなど想像もしなかった。
「……でも、今は、ここへ来たことを少しだけ良かったと思っている」
「ん?」
「あなたのような人が、この場所にもいたからだ」
「買い被りすぎだよ。見ての通り、俺には何も出来ない。物事が悪くなっていくのを、ただ見ているしかない。どうして人は、他人を追い詰めておきながら平然としていられるんだろうな。誰かを死に追いやっておいて、その直後に琴を奏でろっなんて言える」
彼の声には、抑え切れない苦さが滲んでいた。
「この屋敷の下人たちを見ていると、辛くなるよ。殴られて、ろくに食事も与えられなくても、それでも笑って頭を下げる。あれが当たり前みたいに扱われているのが、俺はどうにも耐えられない」
「……だから、あなたの住まいには誰も置いていないのか」
「せめてそれくらいは、ってだけさ。本当は、貴族のためじゃなく、もっと色んな人の前で楽を奏でたい。身分なんて関係なく、皆に聞いてほしいんだ。でも……結局、俺は無力だよ」
そこまで聞いた安倍セイメイが、ふ、と袖で口元を隠して笑った。
「な、なんだよ。変なこと言ったか?」
「いえ……随分と大きな志を持っているのだなと思ってな。天下のヒロマサ様が、武人顔負けの理想を抱いているとは」
「絶対馬鹿にしてるだろ!」
安倍セイメイは堪え切れず、くすくすと笑う。
源ヒロマサは不満そうに眉を寄せたが、美しい麗人が楽しそうに笑う姿というのは、それだけで妙に絵になってしまう。結局、強く言い返すことは出来なかった。
だが、その笑みは長く続かなかった。安倍セイメイはふいに表情を曇らせると、ゆっくり袖を下ろした。
「……ヒロマサ」
「ん?」
「一つ、聞いてくれるか」
「もちろん。俺で良ければ」
普段は誰よりも気高く、冷たいほど毅然としている彼女が、今だけはひどく弱々しく見えた。
「私がこの屋敷へ来た理由は、先ほど話したことだけではない」
「……?」
安倍セイメイの瞳が、わずかに揺れる。
「私が見た未来で――平安京は、血に染まる百鬼夜行に、呑まれてしまうんだ」




