夢の始まり
「報告」
冷たく、しかし非常に澄んだ機械音が室内に響いた。無機質な金属が、人の声を巧みに模倣している。
「第二空間へ逃走した異常なトランスグレッサーが三名出現。追跡の実施について確認を」
「……いきなり三人?トンネルを開けた人は特定できるか?」
女が妙な声で問いかける。
「現在も第一空間に滞在中のメルリヌス・アンブロシウス様と判明」
女は飽きれたように息をつく。
「またあの人か、相変わらず何がしたいのか全然わからないわね……先ずは放っておいて。第一空間なんて根印も持たない弱者ばかり、向こうに行った途端に死ぬわ」
「確認を。三名の対象を追跡リストから除外するか」
「確認よ」
「了解。次の報告に移行、研究所より定期整備のリクエストあり」
「早いわね、まだ通常の予定日まで時間あるでしょう?」
「説明:近頃の製造プロセスが限界近くに達しており、継続稼働によるミスの発生確率は73.67%。自己解析により、予定を前倒しての整備が必要と判断」
「……まあいいわ、万全を期しておきましょう。行きなさい」
「命令を受領。座標生成。トンネルを開門。目的地:第二空間」
来ないで!
奴はそこだ! 早く捕まえろ!
「やめて……いや……」
こっちに来るな!
「私じゃない!……私、何も……」
見るな! 魔女と目を合わせたら目が潰れるぞ!
松明を持ってこい! 縄で縛って火刑にしろ!
お願いです……どうかこの汚い女を、連れていってください……
今すぐ処刑を始めろ!
「いや、いや!放して!誰か……誰か!」
返してよ、魔女め! 私の子を返して!あんたが、あんたが殺したからだ!
落ち着け! お前まで呪われるぞ! 離れろ!
火をつけろ! 早く火を!
神よ、この魔女に裁判を!
魔女に裁きを!
ヒヨリはハッと目を開いた。
悪夢だった。炎の熱と息苦しさ、そして全身の痛みがあまりにも生々しく、思わず大きく息を吸い込んだ。
「起きた?」
聞き覚えのある声に、ヒヨリは慌てて上体を起こした。
枯れ草さえほとんどない剥き出しの地面に寝ていて、周囲には黒い葉をつけた背丈ほどの枯れ木が立ち並んでいる。木々の黒い葉が何重にも重なって、昼の光さえわずかしか差し込んでこない。
そのすぐ前には、幹にもたれたフクロとハルカの姿があった。
「あんたも、あの夢を見たんだろう?」
「もって……二人とも見たの?あの……」
返ってくるのは沈黙だけ。まるで自分の身に起きたかのような、恐ろしくリアルな夢。耳鳴りがするほどの呪詛、思い出すのも怖い断片。三人とも、それを口に出すことを無意識に避けていた。
「……わからないことが多すぎる。誰の記憶なのか、その者の生死すらわからない」
フクロは立ち上がり、冷静に言った。
「今は考えても仕方ない。まずはここが別の世界か確認しよう」
「あ、そうだな!ヒヨリ、立って! 森を抜けてみよう!」
ハルカはすぐに歩き出した。ヒヨリは少しためらったが、無理にでも考えるのをやめるしかなかった。恐ろしい光景を脳の隅に追いやって、二人の後について立ち上がった。
振り返ると、目覚めた場所には一本の巨大な木があった。その幹には血のような赤い文様が浮かび上がっており、黒ずんだ枝と合わせて不気味さを一層際立たせていた。
森を抜けるのは難しくなかった。明らかに一方向だけ木がなく、開けた空き地があった。まずは視界の開けた場所に出るのが、位置の把握には一番だ。
ハルカは興奮して先頭に立ち駆けていった。
フクロは周囲を観察しながら歩く。視界の中に生き物の気配が一切ないことに、彼は強い違和感を覚えていた。
植物があれば、少なくとも鳥か虫の一匹くらいいるはずなのに、目覚めてから今まで、一度もそれを見ていない。そして、さっきから周囲に蠢くような何かの「気配」がずっとある。それが妙に居心地を悪くさせていた。
「うっ」
周囲に注意を払っていたフクロは、空き地に出たことに気づかず、ヒヨリの背中に思いきりぶつかった。
いつもならうるさいはずのハルカの声が聞こえない。二人とも口を開け、空を見上げている。フクロも視線をそちらに向けた。
それは、高空に浮かぶ、巨大な漆黒の鉄の円盤だった。
淡い日差しを遮り、三人の頭上にそびえるそれは、直径数百メートルにも及ぶ影を地上に落としている。上には複雑な継ぎ目が見え、まるで幾何学模様のように輝いていた。さらに、そこから細長い構造物が何本も伸びており、空の彼方に浮かぶ他の三つの円盤と繋がっている。少し角度を変えると、それらの上に立ち並ぶ巨大なビル群の影が、まるで雲の上の山のように薄いヴェールに覆われて見えた。
地上にそれを支える構造は一切なく、本当に空に浮かんでいる。
ハルカが興奮した声で叫んだ。
「すごい……これ、本物の空中都市じゃないか!」
もう、ここが異世界だと疑う余地はない。
ヒヨリも不思議なこの建物に目を奪われ、顔を上げたまま思わず後ずさった。
「本当に浮いてるなんて……上に人が住んでるのか?」
二人はもうあちこち跳ね回っていた。
フクロはまだ二人と同行して間もないのに、こんな妙に高いテンションにすでに疲れていた。
「パキッ」
背後から、枝が折れる音がした。
フクロは即座に振り返る。
あの「気配」が、いつの間にかごく近くに迫っていた。
さっきまで歩いてきた森の中で、何かが動いている。うごめく影、それは数を把握できないほどの不定形の生き物の群れ。
ハルカとヒヨリも流石にはしゃぐのを止め、その時にあれらを見かけた。
ついに、奴らが光の下に現れた。
かつて人だったであろう彼らの肌は、乾ききったセメントのように硬く、あちこちに痕や汚れのような斑点がある。肉が裂け、骨が露出し、顔と呼べるものは皺くちゃに崩れて鋭い牙だけが剥き出しになっている。服も布切れになり、血で染まっていた。奇妙なうめき声を上げながら、一斉にこちらへと襲いかかってきた。
「……逃げろ!」
三人は即座に走り出した。
フクロはようやく理解した。周囲に他の生物がいなかったのは、すべてがこいつらに喰い尽くされたからだろう。
「なんだよあれらは!?」
「知らない!知らないけど絶対危ない!」
森を抜けた空き地を突っ切り、再び森へと駆け込む。後方では怪物たちが木を薙ぎ倒しながら突進してくる、まったく速度が落ちる気配はない。
「このまま走り続けるのか!?」
ハルカが真っ先に叫んだ。
「無理だ、こっちの体力が尽きる」
フクロは眉をひそめ、後ろの怪物を睨んだ。
隠れる場所はない。巨大都市にも今は登れない。
じゃあ、戦うしかないだろう。
「先に行け!」
突如、フクロが横に飛び出し、右足を軸に体を高速移動から停止、さらにそのまま怪物の群れに突進した。
「おい、フクロ!」
ヒヨリが止まりかけたが、ハルカが彼を引っ張った。
「いいって、いいって!あいつにはまだ奥の手があるんでしょう、忘れた?」
迫り来る怪物の群れに、フクロは左手の五本指を開き、タイミングを見計らって腕を前に突き出した。
世界が確かに違った。
ここでは、力がもっとうまく使える。
目の前の怪物は数知らない。しかし、フクロにはわかっていた。
ここなら、倒すのは容易いのだ。
「ドォォン!」
雷鳴のような轟音とともに、森の一角が黒い閃光に包まれた。まるで空から落雷が落ちたように、木々も怪物も灰となって燃え尽きた。彼の左手はまだ上げられており、手の前方に残ったのは焼け焦げた空き地と、燃え残る枝葉。
まるで体の奥底に眠っていた感覚がようやく覚醒したのように、フクロは、無意識にその言葉を口にしていた。
「審判」
一撃だけとはいえ、その効果は抜群だった。だが、残念なことに、相手はそんな攻撃に怯むような存在ではなかった。フクロの攻撃で数十体の怪物が倒れ、さらに遠くの生き残りも衝撃で吹き飛ばされたというのに、まるで何事もなかったかのようにまた立ち上がり、低く唸りながらこちらへと突進してきた。
幸いなことに、奴らが再び立ち上がった時には、フクロたちはすでに大きく距離を取っていた。
「……ふぅ」
フクロはほっとした。あと少しでハルカやヒヨリに追いつける。こうなれば、後方の怪物群も大した脅威ではないだろう。振り返って念のため確認を入れ、前を向き直ろうとしたその瞬間――
「フクロ!」
ハルカの叫び声に顔を上げた瞬間、目の前に広がったのは巨大な血塗れの口。
見誤った。
怪物たちは群れでしか動かないものと思い込んでいたのだ。一匹だけ、あろうことか側面から回り込んで襲いかかってきたのだ――まさに彼が後ろを振り返った瞬間を狙って。
もう間に合わない。フクロは反応する間もなく、あの審判を再び使う余裕もなかった。灰色の鋭い牙が、容赦なく彼の顔面へと突き刺さろうとしていた。
「――ぐちゃっ!」
フクロは思わず目を閉じた。牙が肉を貫く音は確かに聞こえた。しかし、不思議なことに痛みが来ない。
おそるおそる目を開けると、そこには自分の前に立ち塞がったヒヨリの背中があった。
ヒヨリの右腕が、怪物の牙に深々と食い込まれている。痙攣する腕で必死にその化け物を押さえつけている。傷口からは血が噴き出し、歯が食い込んだ皮膚の周囲には不気味な黒い文様が浮かび上がり始めていた。
「チッ!」
ハルカが即座に動いた。全力の蹴りがその怪物を吹き飛ばし、森へ消し飛ばす。
「くっ……!」
「ヒヨリ!」
ハルカは膝をついたヒヨリに駆け寄った。
噛まれた人が何かが感染するかどうかは分からない。しかし傷口から広がるこの黒い文様――どう見てもただ事ではない。
ようやくフクロも事態を理解した。ヒヨリは地面に片膝をつき、右腕を抱えて呻いている。だがフクロが言葉を発する前に、後方から再び怪物の唸り声が迫ってきた。
異世界に来て早々、最悪な状況と出くわした。
「咲血」
――その声は穏やかで、力強い。
同時に、空から血の雨が降ったかのように、無数の血色の槍が怪物たちの頭上へ降り注ぎ、正確無比に突き刺さる。全身を貫かれた怪物たちは痙攣しながらもがき、やがて動かなくなった。
「だ……誰?」
戸惑う間もなく、別方向から数体の怪物がまた姿を現す。今度はハルカとヒヨリを狙っている。
ハルカが立ち上がろうとしたその瞬間、彼女の前に別の影が割り込む。両手には血のように赤くて長い針のような武器。鋭い動きで怪物を二体、真っ二つに斬り伏せた。切断面は鏡のように滑らかだった。
「まったく……何者か知らないけど、命知らずってのは間違いなさそうね」
そう言って振り返ったのは、金髪を波のように揺らす長身の女性、赤い瞳がこちらをじっと見つめている。黒いジャケットを身に、両手の武器はいつの間にか消えており、乱れた髪を左手でかき上げていた。
「エリィ、あまり脅すなよ」
その背後から現れたのは、落ち着いた声を持つ青年。
声でわかる、この青年こそ先ほどの血の槍の使い手だ。二十代ほどに見える青年は、女性と似たような黒い装い、青黒い短髪と血紅の瞳の持ち主だ。
さらに、その後ろからひょっこり現れたのは、銀髪の青年。見た目は優しげで、やはり赤い瞳をしている。
銀髪の青年からにこやかに話しかけてきた。
「こんにちは。驚かせてしまったね――君たちは何者?」
ハルカが口を開きかけたが、それより早くフクロが叫んだ。
「……その前に、こいつを助けてくれ!」
その叫びは、ハルカをも驚かせた。だがそれも束の間、何せヒヨリの右腕に浮かぶ黒い紋様はじわじわと広がっており、本人も必死に痛みをこらえている、今にも倒れそうだ。
「私もお願いだ!質問はあとで駄目なのか?今は、ヒヨリを助けてください!」
向こうの三人は明らかに胡散臭いと疑っているようだ。躊躇って、そのまま動じていない。
しかし、あの槍の使い手は素早く、上着のポケットから赤い液体の注射器を取り出す、ヒヨリの腕に素早く刺し、液体を全て注入した。
直後、ヒヨリは意識を失い、地面に這い蹲った。
「俺はヴラド。後ろの二人は、カインとエリザベスだ」
ヴラドと名乗った青年が、冷静に立ち上がり自己紹介までもした。
「これは応急処置だ。普通ならすぐにグール化するのに、ここまで耐えたとは大したものだ。ウイルスを完全に排除したければ、我々と来るんだが」
「行くに決まってる!」
ハルカは即答し、フクロも倒れたヒヨリを支えながらうなずいた。
ヴラドは迷いなく踵を返し、そのまま先導に回った。
「ならば、来るがいい――この世界に残された最後の種族、我々ブルーハー血族の拠点へ」




