蘆屋ドウマン
光柱に呑み込まれた瞬間、シュテンの姿は完全に掻き消えた。
黒赤い光の中から八つの巨大な蛇の幻影が噴き出すように現れる。天へ届かんばかりの禍々しい巨影は、それぞれが咆哮するように口を開き、境内を震わせた。
だが、その異様な光景も、瞬きをする間に霧散し、まるで最初から存在しなかったかのように消えていった。
暴風が吹き荒れ、境内の桜が激しく揺れた。太い幹を持つ巨木ですら軋むようにしなり、花弁が嵐のように舞い上がる。ヒヨリは思わず目を閉じ、腕で顔を庇いながら踏み堪えた。吹き飛ばされそうなほどの圧力だった。
数秒後、ようやく風が収まる。
静まり返った空気の中、ヒヨリは真っ先にシュテンのいた場所へ目を向けた。
そこに立っていたのは、もうシュテンではなかった。
むしろあれは――全くの別人の女性だ。
艶のある黒髪を腰まで伸ばした女性。毛先にかけて深緑へと変わる髪は、夜の森を思わせる静かな色合いをしている。前髪の隙間から覗く双眸は翡翠色で、柔らかな笑みを浮かべていても、どこか相手の本心を見透かすような鋭さを宿していた。
身体つきはかなりグラマラスで、細く引き締まった腰に対して胸元は豊か。黒を基調とした狩衣は身体のラインを強調しており、落ち着いた雰囲気とは裏腹に妙な色気が漂っている。深緑の外套は袖が大きく広がっていて、歩くたびに裾と長い髪がゆったり揺れた。
袖や腰に細い金具付きの装飾紐が絡み、術師みたいな雰囲気を醸し出している。一見すると穏やかで理知的な美女だが、その纏う空気には人ではない妖しさがあった。笑顔のまま相手を追い詰めるような危うさがあり、静かに立っているだけでも周囲へ不思議な威圧感を与える。
ハルカもフクロも言葉を失う。イバラキですら目を見開いたまま、その場で固まっていた。
源氏の面々も同様に驚いていたが、その視線には先程まで以上の警戒と殺意が滲んでいる。
女はそんな空気など意に介した様子もなく、ゆっくり肩を回し、指を一本ずつ動かしていく。その態度には焦りの欠片もなかった。
「……実に久しいな、平安京よ。この桜も、懐かしい。何年過ぎたでしょうね」
舞い落ちる花弁を眺めながら、女は目を細める。
「おや?そこにいるのは、源氏の小童じゃないか?」
その言葉に、源ヨリミツの瞳へ鋭い殺気が宿った。まだ誰も動いていないというのに、空気だけが重苦しく沈んでいく。
「しつこい亡霊め、よくもまあ平然の顔をしている……!地獄へ送り返してやる――蘆屋ドウマン!」
「はは、戻った途端に名を呼ばれるとは光栄だな」
蘆屋ドウマンと呼ばれた女は愉快そうに笑った。
そして、空から無数の紫色の光矢が降り注ぐ。卜部スエタケの放った矢が、一つ残らず蘆屋ドウマンへ突き刺さった。同時に、源ヨリミツ、渡辺ツナ、坂田キントキ、碓井サダミツが一斉に飛び出す。
命令も合図もない。それでも連携は完璧だったが。
「はぁ……ワタシとしては、血気盛んな連中は嫌いじゃないんだが」
蘆屋ドウマンがため息混じりに呟いた瞬間、四人の足元から大量の血の手が噴き出した。
赤黒い腕が地面を突き破り、脚を、腕を掴む。
「なっ――!」
坂田キントキが力任せに振り払おうとするが、血の手は際限なく増殖していく。さらに地面一帯がどろりとした血溜まりへ変わり、その中から血肉塗れの死体が這い出してきた。腐臭を撒き散らしながら蠢く死体たちは、虫のように四人へ絡み付き、そのまま宙へ吊り上げる。
「これは……シュテンの能力か……!」
源ヨリミツが眉を歪めた。
「驚いたかい?本来なら、ワタシはもっと早く目覚める予定だが――」
蘆屋ドウマンの視線が、傷だらけのイバラキへ向けられる。
「キミがいつも邪魔してくれたせいで、随分と時間が掛かったよ。まあ、それでも礼は言おう。この体を必死に守ってくれたからこそ、ワタシはこうして戻れたのだから」
「……オマエ……!」
イバラキはふらつきながらも立ち上がり、憎悪を込めて睨み返す。
「シュテンを返せ、蘆屋ドウマン!」
「それは困るな、ようやく見つけた完璧な器なんだ。簡単に返すわけには――」
そこで、不意に彼女の表情が止まった。蘆屋ドウマン自身の右腕が、勝手に小さく震えている。
「……ほう?流石に、この体のハタは強いな。慣れるまでまだ時間が必要でしょうっ……」
「――一閃!」
黒雷が奔る。
凄まじい雷光が血の手と死体を一瞬で断ち切り、拘束されていた四人を解放した。源ヨリミツたちはすぐさま残刻器を支えに着地し、血池から距離を取る。
蘆屋ドウマンは、雷を放ったフクロを興味深そうに眺めた。
「キミたち、いつからトランスグレッサーと手を組むようになった?……ん?」
三人を眺めているところに、蘆屋ドウマンの視線がヒヨリで止まった。違和感に気付いたように、呼吸の間に、彼女はもうヒヨリの隣へ立っていた。
「っ!?」
あまりにも速い。
ヒヨリの肩へ伸びた蘆屋ドウマンの左手を、彼は咄嗟に払い除ける。ハルカもすぐ前へ出て、警戒するように矛を構えた。
「何すんだ!」
だが蘆屋ドウマンは敵意を向けられても気にした様子がない。ただ面白そうに笑うだけだった。
「面白い。実に面白い……!」
意味深な言葉を残し、彼女はゆっくり踵を返す。
「今日はここまでにしておこうか」
「ふざけるな!逃がすか!」
坂田キントキが地面を砕く勢いで踏み込もうとする。しかし源ヨリミツが鋭く制した。
「待てキントキ!今のあいつは以前と違う!あのシュテンの能力まで使っているんだぞ!」
その間にも、蘆屋ドウマンの足元から黒赤い腕が無数に伸び、その身体を包み込んでいく。
「その通り、源氏の小童……いや、今は多分大将でしょうね」
闇へ沈みながら、蘆屋ドウマンは口元を歪めた。
「安心して。すぐまた会いに来てやるよ」
そして最後に、細く笑って言い残す。
「――ヒロマサ様に、ついでにセイメイにも、よろしく伝えて」
何もかもが、あまりにも突然だった。
御神木の前からは、つい先程まで渦巻いていた黒紅の光も、シュテンの姿も、蘆屋ドウマンの気配すら完全に消え去っている。砕けた石畳や散乱した瓦礫だけが、あの凄絶な戦いが現実だったことを辛うじて物語っていた。まるで悪夢でも見せられていたかのような静けさだった。
しかし、イバラキに立ち止まる余裕はない。背後から突き刺さるような殺気を感じた瞬間、赤い斬光が空気を裂いた。
「っ――!」
鋭い刀身が右肩を深く斬り裂き、鮮血が飛び散る。イバラキは咄嗟に残った左手で傷口を押さえ、そのまま後方へ跳んだ。
だが、渡辺ツナは追撃の手を緩めない。赤い光を纏った刃が次々と振るわれる。無駄を一切削ぎ落とした剣筋は凄まじく、すでに満身創痍のイバラキへ呼吸を整える暇すら与えなかった。
「カンッ!!」
金色の斬光が横から割り込み、渡辺ツナの太刀を真正面から受け止める。
ハルカだった。
いつの間にか残刻器は煌めく勝利の剣になっている。彼女はイバラキを庇うように前へ立ち、渡辺ツナと真正面から斬り結んだ。細身の太刀と長剣が激しく火花を散らし、鋭い金属音が辺りへ響く。
渡辺ツナの剣速は圧倒的だった。ハルカも押され気味ではある。それでも彼女は一歩も退かなかった。斬撃を受け流し、無理矢理弾き返し、真正面から食らいつく。
そして最後に、二つの残刻器が激突した。衝撃が広がり、周囲の桜が一斉に花弁を散らす。
渡辺ツナは目の前の少女を睨みつけた。ここまで自分と斬り合えることへの驚きは確かにある。だが、それ以上に胸を満たしていたのは怒りだった。
「やはり貴様らは鬼の味方か……!」
さらに力を込め、ハルカを押し潰そうとする。
「退け!イバラキは、私が討つ!」
「イバラキ!」
ハルカは後ろへ叫んだ。
「早く行け!」
イバラキは肩を押さえたまま、その表情には苦痛と混乱が滲んでいる。だがやがて、彼は苦しげに唇を噛み締めると踵を返した。
奥の通りへ駆け込み、角を曲がった瞬間、その姿は見えなくなる。
ハルカはそこでようやく渡辺ツナとの鍔迫り合いを解き、大きく後退してヒヨリとフクロの隣へ戻った。渡辺ツナも舌打ち混じりに距離を取り、源ヨリミツたちの側へ戻る。ちょうどその頃、卜部スエタケも屋根から静かに飛び降りてきた。
「いい度胸だ、トランスグレッサー……先に貴様らをここで始末してやる!」
「そっちこそ理不尽すぎるだろ!うちのフクロがさっき助けてやったぞ!?何よ、シュテンの方がよっぽど義理堅かったぞ!」
その一言は完全に渡辺ツナの逆鱗へ触れた。彼は今にも斬りかかろうと踏み込む。だが、その腕を源ヨリミツが強く掴んだ。
「ツナ。やめろ」
低く鋭い声だった。
渡辺ツナは悔しげに歯を噛みながらも、すぐ頭を下げる。
「……すみません、大将」
源ヨリミツは静かに三人の方へ歩み寄ってくる。
小柄な体だが、その一歩一歩には周囲の空気を支配するような威圧感があった。ヒヨリたちも自然と警戒を強める。
「俺は、平安京の将兵を率いる者――源ヨリミツだ。君らが京を救うため動いたこと、その助力には礼を言おう。だが話は別だ。トランスグレッサー、君らの立場を示せ、何故こんな時に京に来た。騙す気か隠す気があれば、この場で斬る」
「俺たちは蘆屋ドウマンなんて知らない!」
ヒヨリがすぐ言い返した。
「俺たちはシュテンを助けたかっただけだ!あいつ、俺たちを助けてくれたんだよ!なのに急に消えて、代わりにあんな奴が出てきて……!」
「……シュテンが、君らを助けた?俺が知る大江山の鬼王・シュテンは、人を喰らうことを愉しむ悪鬼だ。イバラキもまた、その最悪の片腕。京では何百という民が、大江山の鬼に殺された。今日も、そうだった。そんな化け物が、見知らぬ相手を助ける、お優しい存在だとでも言うつもりか?」
「本当のことだ!信じないなら、それ以上はもう話せることもない!」
しばし沈黙が落ち、やがて源ヨリミツは静かに目を伏せ、そのまま背を向けた。
「キントキ」
「はっ!」
「こいつらを屋敷へ連れて来い。縄は必要ない」
「はっ! ……って、え?」
坂田キントキがぽかんと口を開ける。
ヒヨリたちも意味が分からず顔を見合わせた。なのに源ヨリミツは振り返らないまま、淡々と言った。
「数日前、源氏の屋敷に忍び込んで衣装を三着くすねたコソ泥がいてな。……随分と似合っているじゃないか」
「……あ」
ヒヨリとフクロが同時にハルカを見た。
ハルカは視線を逸らしながら、気まずそうに頭を掻いた。
「コソ泥くらい、大した者じゃないから縛る必要ないだろう。さあ、戻ろう、セイメイも待っている」




