那須野
この突然の襲撃を受け、さすがに一行も少し休息を取ることになった。三人はイバラキの提案に従って休んでいた場所へ戻り、イバラキ自身は一人、山道を下っていく。
片腕で生い茂る枝をかき分けながら進み、やがて巨大な岩の下で足を止めた。イバラキは顔を上げ、岩の上へ向かって声を投げる。
「ホシグマ、降りてこい」
しばらくして、人影がひらりと飛び降りた。
墨色の短髪に、赤茶の浴衣を纏った男。胸元には大きな傷痕が走り、赤みがかった瞳がイバラキを見下ろしている。
「那須野へ行ってくる。すぐ戻るが、一応伝えておこう」
ホシグマは、軽薄そうに両手を頭の後ろへ回した。
「へぇ、こういう時だけ律儀なんだな? シュテンが勝手に他人をここへ連れてきた時は、ずいぶん突然だったじゃねぇか」
「……シュテンのやることに、オマエが口を挟むな」
「はいはい」
ホシグマは肩を竦め、そのまま岩へ飛び乗る。
「なぁイバラキ。お前、一体何のために大江山にいるんだ? 俺も、この山の鬼どもも、本能に従ってシュテンの強さに惹かれて集まった。あいつがその気なら、平安京の結界なんざ簡単にぶち破れる。なのに本人は妙に大人しい上、自分の力まで抑え込んでる……何考えてんだか分かりゃしねぇ」
「何が言いたい」
イバラキの視線に、はっきりと怒気が宿る。
「じゃあはっきり言ってやるよ。俺らのような人の血肉なしじゃ生きられねぇ化け物共が、いつまで待たれると思う?シュテンだって、そんなざまじゃあいつまで正気でいられる?どうせ、いつかは……」
――ゴッ!!
イバラキの拳が岩へ叩き込まれた。
ホシグマの足元から、巨大な亀裂が音を立てて走る。
「ホシグマ。またそんな挑発をやってみろ。次はオマエの頭を吹っ飛ばしてやる。前に大江山が討伐されたこと、オマエが関わっていることくらい知っている」
「……やっぱお前異端だよ。イバラキ」
イバラキは左腕を振り払うように背を向けた。
「もう用はない。余計な真似はするな」
ホシグマは岩の上へ腰を下ろし、林の奥へ消えていくイバラキの背を、冷え切った目でじっと見送っていた。
イバラキが腕を大きく振るうと、空中に橙色の光を帯びた渦が現れた。円形の門のようなそれはゆっくり拡大し、中では乳白色の液体めいた何かが不思議に揺らめいている。
「これって……」
「ボクの能力、羅生門だ。くぐれば、すぐ目的地に辿りつけるから」
「なんだが……縮小版の貫通トンネルじゃん」
ハルカが思わず呟いた。
「貫通トンネル?オマエたちには、そう見えるのか?」
「うーん……まあ、かなり」
イバラキは少し考え込んだが、それ以上は追及せず門の中へ足を踏み入れた。三人も後に続き、やがて羅生門ごと姿が消える。
眩い光に、フクロは一瞬目を閉じた。
次に目を開いた時、彼らは別の山中の空き地へ立っていた。足元には岩が散らばり、細い川の流れる音が響いている。どうやらどこかの山腹らしい。
「おぉ……俺たち、もう別の場所に来たの?同じ山の中だからあんまり実感ないけど……」
ヒヨリが辺りを見回す。
「ここは那須野だ。周りをしっかり見よう、平安京はもうどこにも見当たらないはず。大江山からはかなり離れている」
確かに。フクロの視界に、都の影はどこにもなかった。
「そういえば、イバラキ。これから会わせる相手も、鬼なのか?」
「……会えば分かる」
イバラキはそれだけフクロに答え、さらに山道を進んでいく。
林を抜け、小川を渡り、岩場を越えた先で、彼はようやく立ち止まった。
ヒヨリが周囲を丁寧に観察しようと、その時だった。
――チリン。
鈴のような澄んだ音が響く。
音は次第に近づき、空気に甘ったるい香りが混じり始めた。頭がぼうっとするほど甘美で、骨の奥まで痺れるような香り。
「ふふっ」
艶やかな声が降ってくる。
「久しぶりやなぁ、イバラキちゃん。今日はまた、どないな風の吹き回しどす?」
巨大な岩山の中腹。そこへ、いつの間に現れたのか、ある女が腰掛けていた。
ふわりと風に揺れる浅い橙色の髪。その頭には狐を思わせる大きな耳がぴんと立ち、楽しげに揺れている。瞳は琥珀色に輝き、細めるたびに人を惑わせるような艶やかさを帯びていた。額には紅の紋様が刻まれており、妖しい雰囲気を醸し出している。
肩を大胆に露出した桃色の和装は、胸元が大きく開かれていて、豊満な肢体をこれでもかと強調していた。白い毛皮の縁取りが施された羽織は高級感に溢れているが、その着崩したような装いのせいで、どこか退廃的な色香まで漂わせている。
腰の後ろには、幾重にも広がる巨大な狐の尾。陽光を浴びて金色に輝くその毛並みは柔らかそうで、まるで上等な絹のようだった。彼女が身じろぎするたび、尾がゆったりと波打ち、甘ったるい香のような妖気が周囲に満ちていく。
そして何より印象的なのは、その笑顔だ。
無邪気で愛らしく笑っているはずなのに、視線を合わせた瞬間、体の奥底まで見透かされるような錯覚を覚える。まるで獲物を誘惑する獣そのもの――男であれ女であれ、気づけば彼女から目を離せなくなってしまう。
まさしく、人心を誑かす金毛の妖狐。
「邪魔する、タマモ」
イバラキが前へ進み出る。
「用件だけ言おう。こいつらはトランスグレッサーだ。シュテンに頼まれ、情報を与えてほしいと、連れてきた」
タマモは脚を組み替え、面倒そうに頬杖をついた。
「ほんま、人使いの荒いこと。シュテンも、おぬしもや。妾はてっきり、久方ぶりに貢ぎ物でも持って来たんかと思うたわ。……で?なんで妾が助けなあかんの?」
そこで彼女の金色の瞳が、ハルカたち三人を順番に眺める。
「ごめん、えっと……タマモ、でいいのか?確かに、今の俺たちにはお前に助けてもらえる義理なんて、どこにもないと思う」
それでもヒヨリは真っ直ぐ彼女を見上げた。
「でも、今はなくても……将来は違うかもしれない!もし今、力を貸してくれるなら、俺たちも絶対、いつか全力で恩返しする!」
「……」
「信じてもらえないかも……うわぁっ!?」
誰一人反応する暇もなかった。次の瞬間には、タマモが岩場から飛び降り、そのままヒヨリへ抱きついていたのである。
盛大に押し倒されたヒヨリの上で、タマモは尻尾をふわふわ揺らしながら上機嫌みたいだ。
フクロとハルカは呆然なままだ。
「ちょ、待っ――おい!何すんだ!?」
ヒヨリは慌てて彼女を引き離そうとするが、見た目に反してタマモの力は異様に強い。ぴったり身体を押し付けたまま、まるで離れる気配がない。
しかも彼女はヒヨリの頬を両手でむにっと掴むと、真剣な顔で左右からじろじろ観察し始めた。
「むむ……」
「な、なんだよ……」
しばらく無言で見つめ続けたあと――ぱあっと花が咲くように笑った。
「なんやイバラキちゃん、最初から言わんかいな!こんな妾好みのええ男、よう連れて来てくれたわぁ!」
タマモは満面の笑みでヒヨリへ抱きつき直す。
「ふふ、今日はほんまにええ日やなぁ。さ、お名前聞かせて?妾のお気に入りさん?」
「ヒ、ヒヨリ……」
「うんうん、決めたわ。今日からおぬし、妾のもんや♪」
ヒヨリの顔が、完全にタマモの胸へ埋まっている。
「ぷはっ! あの、ちょっと離れて!」
「おっと、すまんなぁ。あんまり好みど真ん中やったもんで、ついはしゃいでしもうたわ。ほれ、知りたいことがあるんやろ?妾に聞いてみぃ。なんでも教えたるよ?」
「……なんでも教えてくれるって、本当か?」
「ほんまやとも。――せやけど、おぬしがここに残って、妾のものになってくれるなら、なぁ?せっかく見つけた可愛い子が、自分から死地へ向かうなんて、妾は嫌やわ。……なあ、ヒヨリ。ここに残って、ずっと妾のそばにおり?な?」
美女妖狐は、するりとヒヨリの腕へ自らの腕を絡め、そのまま甘えるように胸元へ身を寄せた。花が綻ぶような艶やかな笑みと、鼻腔をくすぐる甘い香り。柔らかな感触までもが容赦なく理性を揺さぶってくる。
――こんなにも蠱惑的な誘いを、果たして拒める者などいるのだろうか。
「……なんでだ」
ヒヨリの低い声に、タマモは少し驚いたようだった。
「まだ俺たちのこと何も知らないのに、どうしてそんなに俺たちが、進めば死ぬって決めつける?」
ぴくり、と獣耳が揺れる。タマモは数歩下がり、背を向けた。
「……そうやなぁ。ほんならまずは、力で教えたげる。立ち止まって生きることこそ、本当の幸せやってことを、な」
――ドォン!!
直後、雷鳴が天地を揺らした。
稲妻が空を裂き、いつの間にか頭上には黒雲が渦巻いている。白い雷光が雲の奥で脈打ち、今にも三人へ襲いかかろうとしていた。
【これは……!】
「どうした、アルテミス?」
【……思い出した。彼女は、かつてブリットンスの協定騎士の一人、元召喚使いよ。それに名前だけだが、ずっと前から聞いたこともある……間違いなく、とんでもなく強い!】
「ちっ」
フクロは露骨にヒヨリを睨みつけると、即座に刀を抜いた。
「ほんと、厄介事ばっか連れてきやがる」
その直後――白く眩い光が天から降り注いだ。厚い黒雲の中から三条の雷が一直線に落ち、轟音と共に地面を爆ぜさせる。焼け焦げた黒煙がゆっくり晴れていく。
「ーーサプレッション・ロック!」
その奥で、黄金の光子円盤を盾のように構えていたのは、純白の装甲を纏ったハルカだった。だが彼女の後ろに、ヒヨリとフクロの姿はない。
「――っ!」
タマモが咄嗟に身を翻した瞬間、燃え盛る拳が彼女のすぐ脇を叩き抜いた。背後の岩肌が轟音と共に砕け散り、黒く焦げた痕が刻まれる。
「わぁ……ヒヨリはん、美女の扱いが雑やなぁ」
「裂炎!」
ヒヨリは答えもせず、そのまま一直線に突っ込んだ。
「メギドフレア!」
四方八方から巨大な火球が殺到する。至近距離にいたタマモは、一瞬で爆炎の渦に呑み込まれ、その姿すら見えなくなった。
――だが。
唐突に吹き荒れた暴風が、炎そのものを巻き返す。
「っ、ぐ……!?」
ヒヨリは自らの炎をまともに浴び、そのまま猛烈な風圧に吹き飛ばされて地面へ叩きつけられた。
相手の能力のはずだ。だが、何だこの能力は――。
ゆるりと歩み出たタマモが、ふと目を細める。咄嗟に、彼女は地を蹴って前へ滑った。わずかに遅れて、足元を黒雷が焼き裂く。
「審判」
「雷極」
空気を切り裂く鋭い刀鳴り。
しかしタマモは袖を払っただけだった。彼女の傍らに突如現れた鏡面から、白い雷光が奔流のように溢れ出す。
白と黒。二つの雷は空中で激突し、互いを喰らい合うように弾け散った。
【アーマーアクセス――アレース】
【嗜血の無敗矛!】
タマモがフクロへ対処していた、その隙。彼女の額すれすれを、赤の矛が唸りを上げて突き抜けた。遠方からそれを投擲したハルカが、敵意に満ちた瞳でタマモを睨み据える。
「……洪水、招来」
またしても鏡。
そこから噴き出した激流が矛を呑み込み、そのまま放電していた鏡がフクロへ激突する。勢いのままハルカとヒヨリまで巻き込み、三人まとめて空地へ叩き落とした。
「どうや?」
タマモは高い岩上から見下ろす。
「自分らが、どれほど未熟かよう分かったやろ?」
「まだだッ!まだ負けていない!」
ハルカは落ちかけた矛を掴み、そのまま前転して立ち上がる。
「……ほんま、妾がいっとう苦手な手合いやわぁ」
タマモが呆れたようにため息をついた、その時にぞわり、と背筋を凍らせる殺気が空気を裂いた。
「平地轟雷!」
地面から噴き上がった黒雷が檻のように彼女を囲み、その隙を縫ってフクロの斬撃が走る。
技を放て、刀も確かに斬った。
だが次の瞬間、フクロは違和感に眉をひそめた。斬れたのは尾だった。大きな狐尾が、即座に再生する。
「ブレイズバースト!」
今度はヒヨリの爆炎。岩山ごと焼き尽くす勢いの火柱が炸裂する。だが再び暴風が巻き起こり、炎を吹き飛ばした。
その中心で、タマモは何事もなかったように尾を揺らしている。
「無駄どすえ」
ひらり、と袖が翻る。
空中に巨大な水流が現れ、濁流となって三人へ襲いかかった。
「よーし、これを待ってた!行くぞ、アルテミス!」
ハルカが笑って、矛を抱えたまま激流へ飛び込んだ。
【アーマーアクセス――ポセイドン!】
【世を司る巨神の三叉槍!】
白銀の穂先が深海のような蒼光を迸らせる。
刹那、一本矛だったそれは三つの刃を持つ神威の武器へと姿を変え、荒れ狂う濁流の中心へ鋭く切っ先を向けた。
「海神!」
タマモの洪水が、まるで意思を持ったように軌道を変えた。ハルカを避け、そのまま槍の示す先――タマモ自身へ牙を剥く。
「へぇ……!」
タマモも即座に新たな濁流を呼び出した。二つの大水流が正面衝突し、凄まじい水飛沫が辺り一面を呑み込む。岩山も空地も、一瞬で水浸しになった。
ハルカは着地した瞬間、膝をついた。
「はぁ……っ、はぁ……!」
恐らくまた無理矢理残刻器を使った反動だが、それでも彼女は強がりで顔を上げる。
タマモは濡れた振袖を軽く払った。
「……なるほどなぁ。シュテンが気に入るのも、よう分かるわ。せやけど――」
タマモは再び岩上へ腰掛け、もう戦いたくないようだ。あるいは、飽きたかもしれない。
「全体的にゃ、まだまだ弱い。いうより、おぬしら三人、まるで噛み合うてへん。誰一人、仲間と息が合っとらんのや。青二才にも程があるえ」
「だから前に進むんだ!」
ハルカが叫んだ。
「成長しようとしなかったら、それこそ一生変われない!」
「……イバラキちゃん。この子ら、自分らの宇宙が今どうなっとるか、ちゃんと分かっとるん?」
それまで静かに戦いを見守っていたイバラキが、重々しく一歩前へ踏み出した。
「詳しくは話してない。だが……ドミネーターについては知らないみたいだな」
その言葉に、フクロが即座に反応する。
「ドミネーター……?お前ら、知ってるのか?」
「はぁ……」
タマモは深々とため息をついた。
「ほんま、なんも知らへんのやなぁ」
彼女は高い岩へ座り直し、指先で髪をくるくる弄びながら考え込む。
「どうしたもんやろなぁ……。まぁ妾としては、ヒヨリは帰したないんやけど。イバラキちゃん、おぬしは先に戻り。こいつらは妾が預かるえ」
「……分かった。本当に妙なことはするなよ?」
「ふふ、シュテンの顔くらいは立てたげるわ。あの男、妾もわりと気に入っとるしなぁ。……ああ、もちろんイバラキちゃんのことも好いとるえ?」
その台詞に、ヒヨリとフクロが同時にハルカを振り返った。
「……何?」
「いや」
フクロが淡々と言う。
「お前みたいな痴女が他にもいるんだなって思っただけだ」
「失礼だな――!」




