大災害
「――ッ!」
三人がシュテンの素顔に呆気に取られていた、その時に、鳥居の奥の林から黒い影が飛び出し、一直線に襲いかかってくる。
「っ!」
ハルカは即座に前へ出た。鋭い蹴りが両腕のガードへ叩き込まれ、その衝撃だけで少女の身体が後方へ弾き飛ばされる。着地しながら三度ほど地面を転がり、それでもすぐ起き上がって反撃に出ようとしたところで――
「待て、イバラキ」
シュテンの声がその人を止めた。ちょうどその時、月を隠していた雲が流れていく。
月光に照らされ、襲撃者の姿が露わになった。
淡い蜜色の長髪は高い位置で結い上げられ、流れるようなポニーテールが腰近くまで伸びていた。髪飾りが揺れるたび、さらりと細い髪が光を弾く。
白磁みたいに整った顔立ち。少し吊り気味の橙色の瞳には凛とした強さが宿っている。涼しげな美貌なのに、どこか近寄りがたい空気があった。
肩を大胆に露出した衣装は、鮮やかな黄色の羽織と黒を基調にした軽装。むき出しになった脚は、白い足袋と高下駄がさらにその姿を妖しく際立たせていた。右の太腿には、どこか文字にも見える奇妙な紋様が刻まれていた。
そして、何故か右腕の方振袖が切られていて、よく見ると、その人はなんと、右腕がない。
最初に見た瞬間、誰もが綺麗な女だと思うだろう、が――
「……こいつらは敵ではないのか、シュテン」
声を聞いた瞬間にわかる。この者は男性だ。
地面に片膝をついていたハルカの動きが完全に止まった。
「珍しいトランスグレッサーだ。しばらくこの辺にいるだろ。お前ら、細かいことはイバラキに聞け、俺ァ酒飲んでくる」
シュテンは面倒くさそうに説明しながら手をひらひら振った。そう言い残し、本当にそのまま森の奥へ消えていく。
残された四人の間に、微妙な沈黙が落ちた。
「……ハルカ?おーい?」
ヒヨリがしゃがみ込み、固まったままの少女の肩を揺する。
するとハルカは突然ガバッと起き上がり、勢いよくヒヨリの肩を掴んだ。
「ヒヨリ……!私、冒険に出てよかったよぉ……!こんなに、こんなに素晴らしい男が目の前に!!今日だけで幸せすぎる!世界よありがとう!宇宙よありがとう!」
さすがのヒヨリも呆れ顔になる。
イバラキは露骨に引いた顔をした。
「……オマエたち、何者だ」
「私はハルカ!あんたはイバラキっていうんでしょ!?よろしくね!」
「っ……」
今度はイバラキが更に一歩引いた。
「えっと、気にしないでくれ……」
ヒヨリが苦笑しながら間に入る。
「俺はヒヨリで、こっちがフクロだ。えっと、さっきシュテンが言ってた鬼って……何なんだ?」
その質問に、イバラキは本気で怪訝そうな顔をした。
「……それも知らない?」
「うん……」
「じゃあ何でシュテンについて来た」
「それは……」
「そっちの好みの男を見ると理性が吹っ飛ぶ変態痴女が勝手について来たせいだ」
フクロが心底不機嫌そうに吐き捨てる。
三人のやり取りを見ながら、イバラキはしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「……まあいい、シュテンが許したなら。場所変えよう」
そう言って鳥居の脇道へ歩き出した。
三人が後を追うと、木々を抜けた先には小さな空き地が広がっていた。岩場の隙間からは細い湧き水が流れている。
「適当に座れ。この大江山の山頂なら、シュテンがいるから基本誰も来ないよ。山頂以外は全部鬼の巣だが」
「おお!ここ大江山って言うのか!」
イバラキの警告は全く耳に入っていないようで、ハルカは堂々と芝生に座った。
「いや、俺はいい」
フクロが立ったままイバラキを見据える。
「また鬼の話か。シュテンもお前も鬼なのか?鬼って一体何だ」
「……簡単に言えば――体内のハタが暴走してしまい、人を殺してさらに喰らう化け物だ」
「えっ」
ヒヨリとハルカは、その説明を聞いた瞬間、揃って表情を曇らせた。
「この平安京には、根印持つ者が少なくない。昔から、ハタを制御できなかった者……あるいは、意図的に暴走へ導かれた者は、額に角を生やし、牙を剥き、人の血肉を求める化け物になる。それが、鬼だ」
「……でも、シュテンもイバラキも、そうは見えないけど?」
ヒヨリが素直に疑問を口にすると、イバラキの顔色がわずかに沈む。
「そんな風に思うなんて、本物のトランスグレッサーだな」
そう言い残し、彼は視線を逸らした。
「今日はもう遅い、話はまた今度だ。林の奥に温泉がある、体を洗いたいなら好きに使え」
それだけ告げて立ち去ろうとした瞬間――両肩が同時に掴まれた。
「……何だ」
振り返ったイバラキの目には、露骨な警戒が宿る。
「いやいや違う違う!」
ヒヨリが慌てて両手を振った。
「ちょっと頼みたいことがあって……」
「そっちの変態痴女を見張って。俺たちが温泉入ってる間に覗きに来ないように」
フクロが即座にハルカへ指差す。
「はぁ!?ケチすぎない!?心外なんだけど!?」
「覗く気満々かお前!」
その夜は、少し騒がしくも穏やかに過ぎていった。
翌朝、イバラキは湿った土を踏みしめながら、山林の奥へ向かっていた。朝霧が濃く立ち込め、木々から零れた露が肩へ落ちる。ふと見上げた常緑樹に、彼の瞳がわずかに懐かしさを宿した。
ここへ来た頃には、もうこの木はあった気がする。十数年という時間を思い返しながら歩いていると、足先が硬いものに当たる。
軽い音を立てて転がったのは、暗紅色の酒盃だった。
イバラキはしゃがみ込み、一つずつ拾い集めて近くの岩へ置いていく。そして周囲を見渡し、ようやくその人物を見つけた。
シュテンは木にもたれかかったまま寝ている。周囲には酒瓶と瓢箪が散乱し、一つは倒れたまま中身を地面へぶち撒けていた。
「……ん゛」
イバラキが瓢箪へ手を伸ばした瞬間、シュテンが眉をひそめながら目を開ける。
「……何だよ。まだいたのか」
「ボクはどこにも行かないから」
「はぁ……話通じねぇ奴」
のそのそと立ち上がり、シュテンは近くの石座へ向かう。
「そういや昨日、誰か連れて帰った気がするな……彼奴らどこだ?」
「向こう側に。食料を買いに行くと言っていた。ハルカ……あの女の子がもう下山した」
「は?」
シュテンの目が一気に覚める。
「待て。女の子が?そいつだけ根印無き者だろ?一人で鬼だらけの大江山を降りたのか?」
「ボクも止めたが問題ないと言われて。他の二人も普通に送り出した」
「どけどけぇぇぇっ!!」
山道を、一陣の風みたいな速度で少女が爆走していた。
藪から急に、髪乱れの鬼が飛び出す。血走った目と大口を開けたそのモノが、一瞬でハルカへ迫る。
「グルァァァ!」
「おりゃっ!」
彼女の蹴りが鬼の顔面へ炸裂した。化け物は吹き飛び、木々の鳥たちが一斉に空へ舞い上がる。
「うわっ、もう何回目?この山ほんと鬼だらけじゃん!?昨夜全然いなかったのに!」
【恐らく、シュテンが強すぎるからね。今日出てきた鬼にとって、シュテンがいる所には近寄れないんでしょう】
久々に響いたアルテミスの声に、ハルカは目を輝かせた。
「おっ、アルテミス!そういえばあんた、先の世界から逃げてきたならここ知ってるんじゃないの?」
【……いえ。逃げることばかり考えていて詳しく調べる余裕は無かった。ただ、鬼の話は聞いたことがある。確かあの時に……どこの鬼討伐の成功で、都中が騒いでいたはず……】
「到着ーっ!」
ハルカは勢いよく山を飛び出し、都城へ駆け込んだ。
「さて!ご飯買って、ついでにいい男探してナンパでもしよ!」
【……あなたね……いつもそうやって男に近づくのか?】
「話しかけるくらいいいだろう?」
そんな会話をしながら街を歩いていると、見覚えのある甘味処が目に入った。
店先にはチヨと、もう一人の女性が立っている。
白地に赤をあしらった着物。艶やかな金髪を簪で美しく結い上げた長身の女性だった。
「チヨー!」
「あっ、昨日のお侍さんの……」
「どうしたの?」
近づいたハルカは、そこで初めて金髪の女性の顔を見た。
――まるで芸術品そのもののような美貌だった。
光を溶かしたみたいな金髪は艶やかに結い上げられ、簪の隙間から零れる髪が首筋を美しく彩っている。穏やかな翡翠色の瞳はどこまでも柔らかく、それでいて吸い込まれそうなほど深い。長い睫毛、通った鼻筋、薄く微笑む唇――整いすぎた顔立ちは、一目見ただけで思わず息を呑んでしまうほどだった。
しかも、その魅力は顔だけではない。上品に着込んだ着物の上からでも分かるほど、体つきが美しいのだ。細い腰からなだらかに広がる曲線、帯越しにも隠し切れない豊かな胸元、歩くたび妙に艶っぽい。
見知らぬ金髪女性はハルカを見て、少し驚いたように目を瞬かせた。
「お恥ずかしい話ですが……前にこの方からご依頼頂いた和菓子を、二箱多く作ってしまいまして……本当にすみませんでした!」
チヨが申し訳なさそうに頭を下げる。
「構わない。こんなに美味しいもの、幾つあっても困らない」
金髪の女性は柔らかく微笑んだ。
ただ、両腕いっぱいの箱はかなり重そうだ。彼女は少し考えたあと、ハルカへ話かけた。
「……そうだ。せっかくなので、もし良ければ、こっちのお嬢さんに、余った分を差し上げましょうか?」
「えっ!?タダで!?」
「その代わり――道中、少しお話の相手と荷物持ちをお願いしても?」
箱の中には、ありとあらゆる和菓子が詰め込まれていた。水羊羹に桜餅、大福まで入っている。ハルカはさすがに我慢できず、片手に何箱も抱えながら、もう片方の手で次々と菓子を口へ放り込んでいた。
「ん〜!どれもめちゃくちゃ美味しい!ありがとう!」
「とんでもない。……お嬢さん、平安京の人じゃないよね?」
「うん、ただの……通りすがりだよ!そっちもあんまりこの辺の人っぽくないよね?なんか雰囲気が特別っていうか」
「……ええ。私も今日は知人に会いに来ただけなので。でも平安京のことなら多少は詳しいよ。何か気になることでも?」
「んー……気になるのは鬼かな。外にはあんなにいるのに、なんで都には全然入って来ないの?」
「ああ、それなら、平安京の誰でも知っているよ。強い陰陽師が、結界を張っているおかげで、この都は守られている」
「陰陽師?何それ、初めて聞いた」
金髪の女性は少し表情を曇らせた。
「……陰陽師を知らないなら、十年前に平安京を襲った大災害も知らないでしょうね。本来、鬼は昔から存在していたが、数はそこまで多くなかった。しかし十年前、ある外道の陰陽師が自らを生贄にし、この世界へ緋色の血雨を降らせた。雨に触れた人々は、全部鬼へ変えられてしまった」
「えぇ……?」
ハルカは思わず目を丸くする。
「だが幸い、今の将軍と、結界を張ってくれた陰陽師が長年に渡って鬼を討ち続けている。将軍の傍には名高い猛者たちもおり、都の外には鬼が溢れていても、都城へ攻込めない。だからこそ、人々は昨夜のような祭りを安心して開ける」
「そっか……すごいな。その将軍って人にも会ってみたいな。……ん?」
鬼が平安京に入れない……?昨日シュテンが普通に入れたが……?
話しているうちに、周囲から露店が少しずつ減り、人通りもまばらになっていく。建物越しに見える立派な屋敷の屋根を見て、ハルカは一瞬足を止めた。
――もしかして最初に三人で落っこちた屋敷かもしれない。
そんなことを考えていると、金髪の女性が微笑んだ。
「では、私はここで。荷物持ち、ありがとう」
「うん!こっちこそありがとう!仲間たち待たせてるし、またねー!」
ハルカは手を振ると、そのまま大通りへ駆けていく。金髪の女性は、少女の姿が人混みに完全に消えるまで静かに見送っていた。
そして踵を返し、屋敷の方へ向かう。
長い塀沿いをしばらく歩いた先に、大きな門が見えてきた。門前には重厚な甲冑を纏った兵士が二人立っている。腰には刀、一人は人の背丈ほどもある薙刀を持ち、まるで石像のように微動だにしない。
女性が門をくぐろうとした瞬間、案の定、兵士たちが前へ出た。
「止まれ」
「源氏の屋敷に無用の者は通せん。ここは貴様のような――」
兵士の言葉を遮ったのは、直ぐに出てきた一人の男だった。
「無礼だ」
屋敷の中から現れたのは、肩まで届く雪のような白髪を持つ男だった。左右に三つ編みが垂れていて、額に紙垂を思わせる菱形飾りがつけている。切れ長の紫紺の瞳は冷静で、感情をあまり表に出さない。
身に纏うのは、濃紫を基調とした雅な装束。片肩へ羽織った外套には金の縁取りが施され、気品と神秘性を同時に漂わせていながら、どこか神職を思わせる。
「その方は尊い客だ。下がれ」
「はっ!」
兵士たちは慌てて武器を引いた。
白髪の男は金髪の女性へ深く頭を下げる。
「申し訳ありません、カドワロナ様。まだ就いたばかりの者たちで、どうかご容赦を」
「急に押しかけたのは私の方だ。気にしないで」
カドワロナと呼ばれた女性が柔らかく笑うと、男も頷いた。
「どうぞお入りください。ヨリミツ様も、お待ちしておりです」




