夢か現か
甘味処を離れたあと、三人はそのまま祭りの通りをのんびり歩き始めた。チヨの言っていた花火大会までは、まだ少し時間があるらしい。
「わぁ!なにこれ!」
ハルカは目を輝かせながら次々と屋台へ駆け寄っていく。彼女が足を止めたのは、水風船釣りの屋台だった。
「お、嬢ちゃんやってみるかい?この針で引っかけるんだ。ただし、紙を濡らしたら終わりだから気をつけな」
水槽には色鮮やかな水風船がいくつも浮かんでいた。提灯の灯りを反射してきらきらと輝いている。
「釣れたら貰えるってこと?」
ヒヨリがしゃがみ込みながら尋ねる。
「そうそう!取れたらそのまま持ってっていいよ!」
「やる!」
ハルカは即座に小銭を差し出し、ヒヨリと一緒にそれぞれに紙付きの針が渡される。フクロの方は、ただ隣で見ている
簡単そうに見えて、実際は難しい。少し水に触れただけで紙はすぐ破れてしまい、針も水槽に沈んでしまう。
「あぁーっ!?難しすぎないこれ!?」
ハルカの紙は一瞬で駄目になり、ヒヨリもようやく引っかけた風船を持ち上げる前に逃してしまった。
「フクロ!あとはあんたに頼んだ!」
ものすごい期待の眼差しを向けられ、フクロは呆れたようにため息をつく。
「なんで俺が……」
「なんだよやる前に凹むか?」
ヒヨリはわざと挑発するように言った。
「……誰が凹むか」
そう言いながらも水槽の前にしゃがみ込み、静かに狙いを定めた。水面に広がるわずかな波紋。その流れに合わせるように針を動かし、一瞬で輪を引っかける。
黄色い水風船が持ち上がった。
「おぉぉぉぉーーっ」
二人は思わず揃って感心した。
「やるなあんちゃん!」
戦利品はそのままハルカが持つことになり、彼女は嬉しそうにぽんぽん弾きながら歩き始めた。
「さっきどうやったの?」
とヒヨリが聞くと、フクロは平然と答えた。
「少しハタで水を弄っただけだ。この世界のハタ、より多く感じる、使いやすいさ」
「えっ、それズルじゃない?」
「俺自身の力なんだから別にいいだろ」
「二人とも、こそこそ話してないで早く!」
いつの間にか前を走っていたハルカが戻ってきて、二人の腕を掴んで引っ張った。
「前に弓の射的あるよ!あと私、あっちの焼きそ食べたい!」
「……まだ食うのか」
露骨に嫌そうな顔をするフクロに、ヒヨリがぼそりと呟いた。
「あっち、かき氷もあるみたいだぞ、甘い匂いがするなぁ」
「……」
その時に、夜空へ鋭い音が駆け上がり、次の瞬間、漆黒の空に巨大な紅の花が咲いた。
道行く人々が一斉に足を止め、空を見上げる。続けざまに、黄金、翡翠、炎のような紅、透き通る青――無数の花火が夜空で弾けた。歓声が周りから上がって。誰もが楽しそうに笑っていた。
ヒヨリは少しだけ花火を見てから、傍にいる目を輝かせるハルカと、珍しく見入っているフクロの姿が視界に入った。
――夢か現か。
誰かと食事をして、笑って、遊んで、同じ景色を見る。そんな日が来るなんて思ってもいなかった。これからずっと一人で生きるしかないと、思っていた。
……俺は、本当に、夢を見ていないのかな。
花火大会も、いよいよ終盤に差しかかっていた。
ハルカが射的屋で見せた異常な腕前のせいで、店主は完全に涙目である。頭を下げる店主に、ヒヨリが苦笑しながら謝っている間に、気づけばハルカは綿飴を食べ終え、何かを見つけたように目を輝かせていた。
「ハルカ?」
ヒヨリも彼女の視線を追って辺りを見回す。
「まだ気になる屋台でもあるの?」
「見て見て!」
ハルカは楽しそうにヒヨリの服を引っ張った。
「前にいるあの面の人!」
フクロもそちらへ目を向ける。
確かに、向こうの店の前に鬼面をつけた大柄な男が立っていた。周囲には若い女たちが何人も集まっていて、男は酒瓶を片手にながら何か話している。
「……あの人がどうしたんだ?」
ヒヨリが不思議そうに聞く。
するとハルカは、にやぁっと口元を歪めた。
「あの男――めちゃくちゃ体がいいんだけど!ぐへへへ……ちょっとナンパしてこようかな……」
二人の少年はほぼ同時にため息をついた。
フクロは露骨に嫌そうな顔をする。
「お前みたいなの、ただの変態扱いされるだけだろ」
「別にいいじゃん!現に私はちゃんとあんたたちとも仲良くなれたし?あっ、行っちゃう!待ってよせっかく発見したいい男――!」
花火大会が終り、人々は満足したように帰路につき始めていた。大量の人波が大通りへ流れていく。
そんな時、小さな路地裏など誰も気に留めない。
「や、やめて……!お金なんて持ってません……!」
震える女の声が、細い路地から聞こえてきた。
「へぇ〜、そりゃ可哀想だなぁ、お嬢ちゃん」
二人の男が嫌らしい笑みを浮かべながら女を追い詰めていた。祭り帰りの混雑に紛れ、人通りのない場所へ誘い込む。悲鳴も喧騒に紛れてしまう。
「金がねぇなら別の払い方があるだろ?」
「やめっ……!」
一人が女の腕を乱暴に掴んだ。
「冷たいこと言うなよ、そっちが声かけてきたのに――」
「道を聞きたいだけなんだ!この、っ放して!たすっ……!」
「おっとおだまりな、お嬢ちゃん、いいから……っが!?」
鈍い音と共に男の顔が横へ吹き飛んだ。
「なっ……!?」
続けざまにもう一人も壁へ叩きつけられる。
助けに入ったのは、片手には酒瓶の鬼面を付けている大柄な男。
深い藍色の髪は肩まで無造作に伸び、少しだけ見える赤い瞳。
濃紺の羽織からは鍛えられた上半身が大胆に覗いている。その体には何本の蛇のような紅い紋様が這っていて、ちらりと見ただけでも妙な妖しさを感じさせた。腰には鮮やかな赤紐が結ばれ、長い飾りが歩くたびに揺れる。
「ぁ……ありがとう、ございます……」
女が震えながら礼を言うと、男はふっと彼女に近づけた。
「へぇ。道理で、確かに可愛いお嬢ちゃんだな。じゃあ助けた礼に、今夜付き合ってくれよ。あの二人より、俺の方がいいだろ?」
「……っ!」
女は真っ赤になって彼を突き飛ばし、そのまま逃げ去っていった。
しかし、男は追いかけようともしない。どうやらただの冗談だったらしい。
「この野郎っ……!」
先ほど吹き飛ばされた二人のうち、最初に壁際まで叩き飛ばされた男が突然立ち上がった。服の中から先端を鋭く削った木杭を取り出し、怒声を上げながら鬼面の男へ突っ込む。
――だが、その木杭は一瞬で蹴り飛ばされた。
さらに横薙ぎに振り抜かれた足が男の顔面を直撃し、そのまま地面へ倒れ伏す。今度こそ完全に意識を失ったようだった。
「っ、と……」
男を蹴り倒したヒヨリは、その反動で少しよろめく。
「やるじゃんヒヨリ!ちゃんと鍛えたね!」
明るい声と共に路地へ飛び込んできたのはハルカだった。その後ろから、フクロも歩いてくる。
「……また体が先に動いたんだ?」
フクロが冷めた声で言うと、ヒヨリは開き直ったように笑った。
「そうだが?放っておきたくなかったから」
鬼面の男は腕を組んだまま、そんな三人のやり取りを黙って眺めていた。紅い瞳が細められる。まるで何かを見定めるような視線だった。
「あっ、ごめん!」
ようやくヒヨリは男の方へ向き直る。
「勝手に手を出しちゃって、その……」
「……いかにもトランスグレッサーって感じだな。吞気な奴らだ」
「?!」
その言葉と同時に空気が変わる。フクロの手が既に残刻器へ伸びた。
だが鬼面の男は気だるげに手を振った。
「あー安心しろ。俺ァブリットンスの連中じゃねぇ」
「……なら、お前は何者だ」
鋭く睨むフクロへ、男が答える前に、大通りから兵士たちの声が響いてきた。
「大将ーー!!」
「大将!!」
甲冑姿の兵士たちが何人も駆け抜けて、誰を探しているのようだ。男はそちらを顎で示した。
「ブリットンスと繋がってるのは、彼奴らだ。まぁ、別に信じなくても俺と関係ない、じゃあな」
男はくるりと背を向けると、軽々と跳び上がり、屋根の上へ着地した。瓦を鳴らしながら身を翻し、そのまま去るつもりらしい。
「そっか。ブリットンスと関係ある人たちに捕まりたくないし――一緒について行っていい?」
ハルカの突然の発言に、二人の少年は同時に目を見開いた。
「おい、勝手に決めるな。お前、そんな簡単にあいつを信用するのか?」
フクロが眉をひそめて睨みつける。
だがハルカは胸を張って笑った。
「男を見る目はあるんだって、私!この人、絶対信用できるいい男だから!」
その言葉に、屋根の上へ片膝をついていた鬼面の男が一瞬ぽかんとした。そして、腹を抱える勢いで笑い出す。
「ははははっ!いい男、ねぇ!」
赤い瞳が愉快そうに細められる。
「俺の名前も、顔も知らねぇくせに?なあ小娘」
だがハルカはまるで動じない。むしろ自信満々に顔を上げて言い返した。
「だって悪い奴なら、わざわざこんな路地裏で知らない女子助けたりしないでしょ?」
今度は男の方が黙り込んだ。夜風が吹き抜け、鬼面の隙間から覗く紅い瞳が静かにハルカを見下ろす。
「……小娘。本気でそう言ってんなら――ついて来てみろ」
言い終わると同時、突風が吹き抜ける。次の瞬間には、男の姿はもう消えていた。
「あっちだ!」
ヒヨリがすぐに反応し、真っ先に屋根へ跳び上がった。
「動きは速いが、向かう先は見えている!」
路地を挟む建物はそれほど高くない。三人とも軽々と屋根へ飛び乗った。
夜空には上弦の月が浮かび、白い月光が遠くの鬼面の男の背中を照らしている。男は常人離れした速度で屋根の上を駆け抜け、そのまま都の外へ向かっていた。
「追いかけよう!」
ハルカが楽しそうに声を上げる。
「……何か起きても知らねぇからな」
フクロは舌打ちしながらも後を追った。
男との距離は縮まらない。だが離されもしない。
瓦屋根を蹴り、次の屋根へ跳び移る。その繰り返しの中で、気づけば祭りの灯りはどんどん遠ざかっていた。
やがて都の端まで来ると、鬼面の男は屋根から飛び降り、そのまま城外の山へ向かって駆け出す。三人も続いて草地を蹴り、暗い山道へ飛び込んだ。
山道は思った以上に長かった。木々の間を抜け、斜面を駆け上がり、息を切らしながら進み続ける。そしてようやく辿り着いたのは、開けた山頂だった。
そこには、古びて朽ちかけた暗紅色の鳥居がぽつんと立っている。
ちょうどその時、空を覆った雲が月を隠した。光を失った山頂で、鳥居の影だけが不気味に浮かび上がる。
そんな場所で、鬼面の男はようやく足を止めた。
「……大したもんだな。本当にここまで来やがったか」
振り返った先には、三人とも欠けることなく立っていた。さすがに息は上がっているが、それでも誰一人脱落していない。
男はそんな彼らを見回し、ふっと笑う。そして――顔につけていた鬼面へ手を伸ばし、ゆっくりと面が外される。
鬼面には、額から伸びる大きな角がついていた。
……本来なら、ただの飾りであるはずだった。だが面が外れた時に、思わず三人が息を呑む。
その角は、面についていたものではない。
最初から、この男自身に生えていたものだった。
「――改めて名乗っておこうか。俺の名はシュテン。ようこそ、人と鬼が跋扈する都・平安京へ、トランスグレッサーども」
その口元には、薄く笑みが浮かんだ。




