平安京
ずっと、声が聞こえている。
いつから存在していたのかなんて、もう覚えていない。
耳障りで、不快で、ひどく鬱陶しい声だ。絶えず意識を鈍らせ、眠気を誘い、俺を果てのない深淵へ引きずり込もうとしてくる。二度と陽の下へ戻れなくなるような、底なしの闇へ。
――誰が、こんなものに負けるか。
最初はそう思っていた。抵抗した。何度も、自分の意思のような何かで、何度も抗い続けた。こんな勝手な真似をするものに屈する理由なんてない。
けれど、どれほど時間が経ったのかも分からなくなる頃には、その声は俺がどこにいようとまとわりつき、思考を掻き乱し続けていた。
そして、気づけば。
負ける理由はない。だが――勝たなければならない理由も、もう分からなかった。
……理由、か。
どこかに。どこか遠くに、確かにそんなものがあった気がする。
何だっけな……?
――久しぶりじゃねぇか?なんだ、ずいぶん元気そうじゃねぇかよ。
「……何しに来た」
何っだと!?てめぇのせいでどれだけ人の人生ぶち壊されたか!仕事は全部潰れた!借金まみれだ!生きる手段すらなくなったんだぞ!
全部、てめぇのせいだ!なのにてめぇだけ生き残ってる……!
前から思ってたんだよ……なんで俺たちは、素性も知れねぇガキを連れて行こうなんて思っちまったんだってな。おのれ魔女め……!
立てよ!立ち上がれっ!ただそこで寝転がってるつもりか!
「……違う。私じゃない。私は関係ない。もう……あなたたちに渡せるものなんてない」
渡せるだろうが。
その顔も、その体もなぁ……俺たちはてめぇのせいでこんな目に遭ったんだ。少しくらい返してもらっても、文句ねぇよなぁ?
そうだそうだ!まずは体で補償してもらおうじゃねぇか!
「やめ――っ、離して!」
「触るなっ!ケダモノ!」
「殺してやる……!絶対に、殺してやる!!」
「うわあああああああっ!!」
次の瞬間、激しい破砕音が響き渡った。
「バキッ!ドガンッ!」
木板が何枚も折れる音。何かが落下する鈍い衝撃。誰かの悲鳴まで混ざっている。
「いっててて……」
「やっぱりお前らといると碌なことにならねぇ……」
「ハルカちょっとどいて!頭上げられない!」
ヒヨリの悲鳴に、ハルカは慌てて転がるように体を退かした。周りにはどこかの布が絡みついており、周囲は薄暗くてほとんど何も見えない。
「なんで出口が空中なんだよ……聞いてない……」
フクロも起き上がり、周囲を見回した。
「アルテミスは?」
「あー、まだ追われてる身だから、表に出にくいんだって」
ハルカはそう言いながらヒヨリを引っ張り起こす。
だがヒヨリは真剣な顔で二人を見た。
「……さっきの、見た?」
ハルカとフクロは視線を交わし、小さく頷く。
「私たち三人同時に、二回も同じ悪夢を見るなんて、絶対何かある」
「しかも貫通トンネルを通るたびに見るとは、一体……」
その時、突然木戸が勢いよく開いた。
暗闇だった室内に火の光が差し込み、外から男が顔を覗かせる。片手にロウソク、もう片方には長い棒を握っていた。
そして彼は三人を見るなり、顔色を変えて叫ぶ。
「コソ泥だ!三人いるぞ!!」
男は叫んだ後に、その棒で思いっきり三人を叩くつもりだ。
「うわ、まずっ!」
ハルカは床の布を引き上げ、顔を隠しながらそのまま外へ突進した。体当たりを食らった男が横に突きとばれ、後ろの二人も慌ててハルカに続き、外の庭に出た。
「早速ここの人に勘違いされたんだけど!どうするよハルカ、説明したらこの人に信じてもらえ……」
ヒヨリが言い終えるのを待たずして、庭にはさらに武器を手にした者たちが集まってきた。
彼らは問答無用で刀を抜き放ち、十数本もの刃が三人を取り囲むように突きつけられる。じりじりと間合いを詰めながら、その包囲は徐々に狭まっていった。
「どう?私たちは別の世界からとか空から来たんですって聞き入れてもらえると思う?ヴラドたちみたいに優しくなさそうだけどな、どう見ても」
「そっちがその気がないならこっちも遠慮するな。突破するぞ」
フクロがそれを口にしたすぐ、直接塀を飛び越すつもりで、走り出した。
「待てっ!」
「そっちだ!コソ泥が跳び出したぞ!」
この庭から見て、どうやらどこかの屋敷へ落ちてしまったらしい。騒ぎは瞬く間に広がった。
だが、ハルカたち三人がこの程度に捕まるはずもない。
追手を撒き、ようやく離れた森まで逃げ込んだところで、三人は息をついた。
「うわぁ……あっち、人がいっぱいだ!」
ヒヨリが遠くの灯りを指差す。
大通りには無数の灯火が並び、まるで昼のように明るい。
「わっ、本当だ!前の世界と違ってめっちゃ賑やか!祭りか何かかな?」
フクロもその方向に視線をやったが、興味は薄いのようだ。
「かもしれねぇけど……まずここがどこかも分かってないだろ――って、お前何をしてる」
「いやー、さっき逃げた時にこれ持ってきちゃってさ!よく見たらこの世界の服じゃない!」
ハルカは笑いながら抱えていた衣服を広げた。
「ちょうどいいし着替えようよ!あとでこっそり返せばいいって!」
「人の話聞く気一切ないなお前は、まさか遊びに行くつもりか」
「だって祭りだよ!?ずっと戦ってばっかだったし、せっかくなら遊ばなきゃ損でしょ!それに、人の多いところのほうが、情報探りでも身を隠すのもできるだろう?」
フクロは珍しく押し切られた。
確かに、人目につかない場所で隠すより、人混みに紛れた方が上策だ。
「ちなみに!」
ハルカはどこから取り出したのか、小さな金袋を得意げに振ってみせた。
「ジャジャーン!なんと、ネモがお金くれたー!」
「お金!?」
ヒヨリは興味津々といった様子で顔を寄せ、袋の中を覗き込む。
「うん!どうも天空城に残ってたやつらしくて、ゴリアテが破壊されたら地上に落ちてたんって。ヴラドたちは使わないから、私にくれたの!しかもここでも使えるっぽい!案外、私の世界のお金とそんな変わんないんだね」
「……用意良すぎだろ。遊ぶ気満々だな、のんきな奴」
「というわけで!遊ぶぞー!」
前の世界とは、まるで違った。
喧騒。笑い声。赤い提灯から灯火の熱気。広いはずの大通りは人で埋め尽くされ、食べ物や香辛料の香りが次々に鼻を刺激する。
並ぶ料理も甘味もどれも目移りするほどで、肉の焼ける匂いなど理性を破壊する兵器に等しかった。
「おかわり!」
ハルカが五杯目の丼を置いた。
「あと唐揚げ追加で!」
「このラーメンめちゃくちゃ美味しい!俺ももう一杯!」
ヒヨリは十杯目を空けながら元気よく手を挙げた。
「はいよっ!そっちのあんちゃんは?」
愛想のいい店主に声をかけられ、フクロは軽く手を振った。
「いや、俺はいい。それより少し聞きたいんだが……お前は、ここには長いのか?この街のこと、どう思ってる?」
言葉を選びながら、フクロはさりげなく情報を探り始める。
「この街ぃ?そら、俺ぁ生まれも育ちも平安京だからな!」
――平安京。
どうやら、それがここの名らしい。
「まぁ、昔は貴族様が好き放題しとってなぁ。俺たちみたいな下の人は、街の中でも肩身が狭かったんだけどな」
店主は鍋をかき混ぜながら話を続けた。
「それに、あの大災害があった時は、もう世界も終わりだと思うたわ。でも今の将軍様のおかげで、本当に暮らしやすくなったんだ。こうして俺たちでも祭りを開けるようになったしな!」
「大災害……?」
「おかわりー!」
ハルカとヒヨリが同時に空の食器を突き出した。
「はいよっ!すまんなあんちゃん、ちょっと今手が離せねぇや!」
「……ったく。お前らだけ食ってろ」
これ以上情報収集できないと思って、貨幣を少し持ち、フクロは店を出た。
人混みの方が有益だが、フクロにとって祭りなんて慣れるわけがない。夜も更けているはずなのに、人通りはまるで減らない。
ハルカたちがあれだけ食べるのも無理はない。まともな食事など長い間していなかったのだ。それに、あれほどの戦闘を終えたならなおさら――とはいえ、どう考えてもあの二人の食欲はやや人離れしているが。
少し一人になりたいが、フクロは足を止め、一軒の店へ視線を向ける。
それほど大きな店ではない、けどどうやら中は客で埋まっていた。
立ち去ろうとした瞬間、木戸が開く。中から現れたのは、黒い長髪を結い上げた若い女性だった。淡い水色の浴衣姿の彼女は、フクロを見るなり慌てて頭を下げる。
「い、いらっしゃいませ!本日は混み合っておりまして……よろしければ少々お待ちください!」
「……いや、俺は……」
女性は首を傾げ――フクロの腰の刀へ視線を止め、途端に顔色が変わる。
「失礼しました!お侍様でしたか!ご入用のものがあれば、すぐ用意いたします!」
フクロはしばらくして、どうやら彼女が自分の残刻器を見て勘違いしているのだと気づいた。
「……じゃあ、一番人気のやつを」
「はいっ!そちらの傘の下で少々お待ちください!」
言われた先には、大きな赤傘と木製の長椅子があった。
フクロはそこへ腰を下ろし、刀を脇へ立て掛ける。
……やっぱり、別の店でも妙に視線を感じていたが、この残刻器はそういう身分だと思われていたらしい。隠した方がいいかもしれないない。
「フクロ――――!なんだ、ここにいるか!」
遠くから聞き慣れた声が飛んできた。ハルカとヒヨリだ。
「お前ら、もう食い終わったの」
「なんで来てほしくないっみたいな言い方するの?」
ハルカがむっと頬を膨らませる。
その時、ヒヨリが鼻をひくつかせた。
「あ、この匂い……」
「お待たせしました!」
先ほどの女性が、盆をもって出てきた。だがハルカたちを見るなり驚いたように目を丸くした。
「お侍様のお連れ様ですか?ようこそ!」
彼女は盆を持ったまま丁寧に頭を下げる。
「お侍?」
ハルカがじとっとフクロを見る。当人は露骨に視線を逸らした。一方、ヒヨリは料理へ一直線だった。
「わ、全部甘いもの!?これ何?」
女性は笑顔で説明する。
「こちらは蘇という、牛乳を煮詰めて作るお菓子です!貴族様の菓子を真似したものですが、味には自信があります!こっちはぜんざい、こちらは三色団子、それから林檎飴です!どうぞ!」
「……甘いもの?」
ハルカが驚いたように呟く。
フクロは無言のまま盆を受け取り、菓子を口へ運んだ。
数秒後。
「よかった……!お口に合ったみたいですね!」
その瞬間だった。いつも冷え切った表情をしている黒髪の少年が、ほんのわずかに笑ったのだ。
自然で、満ち足りた笑み。それは思わず誰もが見惚れてしまうほど穏やかなものだった。
ヒヨリはぽかんと固まり、ハルカはそっと後ろを向く。
「えっ、ハルカ?ちょっ、おい口元!あと鼻血出てる!?」
「フクロって甘党なんだ……そうなんだ……今後もっと食べさせよう……さいっこう……ごちそうさま……」
「……変態にも程がある」
そう言いながらも、フクロは本気で嫌がってはいなかった。
この美味しさなら店の中が満席なのも納得だった。気づけば、皿の菓子はあっという間に消えた。
フクロが金を渡すと、店員の女性は両手で丁寧に受け取り、柔らかく笑う。
「皆さん、平安京に来るのは初めてなんですね。もうすぐ花火大会が始まるんです。とても綺麗なので、ぜひ見ていってください!今日は、将軍様もわざわざ見に来ているそうですよ」
「へぇー!そっか、ありがとうな!」
ヒヨリが素直に礼を言った。
「とんでもございません。わたし、チヨと申します。またお越しくださいませ!」




