夜明け前
「――ガシャァン!」
突如としてガラスの砕ける音が響き渡り、レイチェルが警戒し頭を上げた。
「……あ、リリス!」
ハルカが床に降り立つと同時に、纏っていた装甲は粒子となり消え、アルテミスも人の姿へと戻っていく。
フランケンシュタインにとってアルテミスも初対面ではない。元々ネモからもらった記憶データもあり、彼女の出現に対して然程驚きもない。
そしてハルカはすぐにゴフェルの方へ駆け出そうとしたが、視界の端に映ったのは、満身創痍のレイチェルと、その傍らに横たわるソロの亡骸。
「……レイチェル」
その後ろから降りてきたフランケンシュタインも、状況を見て察した。
「……ゴリアテを起動させたのは、きみだったんですね」
レイチェルは震えながら立ち上がる。その身体を青い電流が不規則に走り、バチバチと外へ漏れ出していた。
「させない……絶対に……きみたちには……止めさせない……!」
よろめきながら一歩、また一歩と歩み寄る機械。
「なによ……!」
アルテミスが怒気を含んだ声を上げる。
「この世界をどれだけ壊せば気が済むのよ!あなた――」
「もういい」
ハルカはアルテミスを制し、そのまま真っ直ぐレイチェルへと歩み出た。
「ドン!」
鋭く振るわれた拳が、レイチェルの腹部を正確に撃ち抜く。
装備の補助がなくとも、それだけで充分だった。レイチェルは全く抵抗することもなく膝をつき、地面に崩れ落ちた。二度と立ち上がれないでしょう。
「そこで見てろ」
ハルカの紫紺の瞳には怒りも敵意もなかった。ただ、静かな決意だけが宿っていた。
フランケンシュタインはすぐに操作台へと向かう。リリスを閉じ込めるためのゴフェルは、力ずくでは破壊できない。
だが幸いに、データを改ざん可能だ――そんなハッキングを扱えるのは、今やフランケンシュタインだけだった。
やがて透明な結晶が軋むように解け、そこから小さな娘の体がするりと抜け出す。
「――っ!」
ハルカがすかさず抱きとめる。フランケンシュタインもすぐ傍へ駆け寄った。
リリスは長く昏睡しており、その呼吸は今にも途絶えそうに細い。
「……アルテミス。どれでもいい、治療に使える残刻器はある?」
「え……あ、あるにはある……けど、それはアーマーアクセスの……」
「それでリリスを助けよう」
アルテミスは慌てて首を振る。
「なに言ってるの!?やっと動けるようになったばっかりなのよ?私の話全然聞いていなかったよねあなた!これ以上アーマーアクセスなんてしたら……本当に死ぬかもよ!」
「使えば、死ぬかも。でも使わなければ、リリスは確実に死ぬ」
アルテミスは言葉を失い、唇を震わせた。
ハルカはふっと笑みを浮かべてこう言った。
「頼む、アルテミス。約束だったんだろう?」
「……アーマーアクセス――アポロン」
「風信子の竪琴」
光と音が舞い上がる。金色の粒子が少女の身体を包み、渦を巻きながら収束していく。
そこに現れたのは、半人ほどの高さを持つ白い竪琴。金色の紋様が枝葉や花弁のように流れ、整然と並んだ弦は美しい弧を描いていた。
「……!」
フランケンシュタインにとって、概念として楽器というものを知ってはいたが、実物を目にするのは初めてだった。
ハルカはリリスを膝に寝かせ、右手を竪琴の弦へと添える。
【……念のため聞くけど、弾けるの?】
アルテミスの質問途中、音が既に響い始めた。
弦はそう多くなく、片手でも充分に奏でられる。澄み切った清らかな音色が、未知の旋律を紡ぎ出す。
そこにいたのは、これまでのハルカではなかったのようだ。静かに、ひたむきに、ただ弦を爪弾く少女。響いてくるような旋律は心を満たし、金色の光となってリリスをやさしく包み込んでいく。
その光景に、レイチェルですらただ呆然と見入っていた。
やがて――リリスの瞳が、ゆっくりと開く。宝石のような赤が、ハルカの顔を映し出す。
「……おはよう、リリス」
「……おはよう、ハルカ……姉さん……」
か細い声と共に、小さな笑みが浮かぶ。
「すごく……ふしぎな音……こんなの、聴いたこと……ない……わたし……変な、でもすっごくいい、夢を見たんだ……」
「どんな夢?」
「……花……おばあちゃんが話した、綺麗な植物……夢の中で、わたしと、おばあちゃん、それにパパとママも一緒で……大きな、花が満開の木の下にいたの……真っ青な空、金色に輝く太陽、舞い散る花びらでいっぱいで……みんなが、とても、とても幸せそうに笑ってて……」
彼女はほんの少し首を振った。
「変、だよね……この世界は、いつも灰色の空に、黒と赤の草木ばかりで……太陽の光だって、あんなにあたたかかったことなんて、一度もないのに」
「そうだね。でも、あるんだよ、見たことのない、聞いたこともないいっぱいの何かが、この宇宙のとこかにある」
リリスの目尻から涙が伝う。
「……ハルカ姉さん……冒険に出たのは……そのためなの……?」
「うん。リリスもきっと出会えるよ。だから今は、ちゃんと生きて」
「……はい……!」
少女は再び瞳を閉じ、安らかな眠りに落ちていって、呼吸も穏やかになった。
ようやくハルカは指を離す。
「……っ」
弦を数度弾いただけなのに、指先から感覚が消え、全身が痺れて汗が噴き出す。また血を吐きそうになったが、渾身で耐えている。
アルテミスは粒子となって人の姿に戻った。
「だから言ったのに……ほんと、自業自得なんだから」
「でも、これでリリスは助かったんですね。やはりハルカは……」
「――ッ!」
突然の揺れが三人を襲う。
「な、なに!?リリスは助けたのに、どうして――!」
ゴリアテはまだ止まらない。
大地を揺さぶるような震動に、彼らは支えを失い、ゴフェルへと叩きつけられた。
ハルカは痛みに耐え、リリスを抱き締めて守り抜いた。
ゴリアテの拳が、ノーチラスの右翼を真正面から撃ち抜いた。
直撃を受けた艦体は、まるで読み取りに失敗した映像のように、数度点滅したのち、ふっと掻き消える。
ネモには分かっていた。背後に控えるノーチラスは、もう限界を迎えているのだと。
エリザベスは二度目の、どうしようもない「無力」への恐怖を味わっていた。
最初はあの時――かつて自分と話していた人が、飢餓に命を奪われ、次々と倒れていったあの時。
そして今度は、この天空を突き抜けるほどの鋼鉄の巨人。
……どうして、こんなにも困難なんだろう。
私たちはただ、生きたいだけなのに。
どんな過酷な環境だって、歯を食いしばって耐えてきたのに。
必死に、必死に生き延びてきたのに――それでも、こんなものが私たちを消し去ろうというのか。
こんなのが、ありなの?
「リ……!エリィ!エリィ!」
意識を現実へと引き戻したのは、シールドを叩く轟音と、誰かの呼ぶ声だった。
顔を上げると、シールドの向こう側は、背後の飛行装置で宙に浮かぶ金髪の少年が、両手をシールドに押し当てて、こちと話しかけようとしている。ヒヨリのすぐ近くに、フクロもいる。
「……ヒヨリ?」
「エリィ!みんなは?無事か?」
「え……あ、うん。みんな……無事よ」
「よかった!必ず守りにくっから!」
フクロは呆れたように催促する。
「さっさと前に行け、巨人を倒したいって言ったのはお前だろうが」
「っわかってんだよ!今行く!ビビりだなお前!」
「……ヒヨリ!」
呼び止めると、彼は振り返った。
「……あなたたちには、私たちを助ける理由なんてないのに」
「何言ってるんだよ。見捨てるわけないだろ!」
「だって……私、私たちが、本当にバカだなって。終わりのないウイルス、果てのない干ばつ……その上、今度はあんな有り得ない巨人まで現れて。世界は、こんなにも頑なに、私たちが生き延びることを拒んでいるのに……それでも私たちは、意地になって死のうとしない」
エリザベスは涙を滲ませながら、小さく笑った。
「……私たち、バカみたいでしょう?」
その言葉がヒヨリの胸に刺さり、息が詰まるようだった。無意識に、自分の胸元の服を強く掴む。
「俺も、昔はそう思ってた。世界中の全部が、自分の敵みたいに感じてた」
エリザベスが、はっとしたように彼を見る。
「でも今は、エリィたちに出会えた」
ヒヨリはゆっくりと言葉を続ける。
「長い、長い、数え切れない寒い夜を越えて……ようやく朝が来たんだって、今はそう思う。だからエリィ――俺が、それをお前たちにも証明したい」
そして、まっすぐ彼女を見つめた。
「あと一日だけでも、生きるのを諦めないでくれ」
その声には、強い願いが込められていた。
「明日はきっと――さいっこうの夜明けになるから!」
その言葉をただ静かに聞いていたフクロは、無言でヒヨリの姿を見つめていただけだった。
【……フランケンシュタインめ……!】
ゴリアテの眼窓が、憎悪に染まった光を放つ。
【無駄だ……あの娘で変換で得たエネルギーは、すでにこの世界を滅ぼすに十分だ。手遅れだ!】
――だめだ。まだ足りない。
ネモの砲撃はとっくに止め、ノーチラスも全て姿を消した。あの鋼鉄の巨人は、ほとんど傷を負っていない。これでは決着はつけられない、が――
「ネモ、退け!」
案の定、背後からは知っている声だ。
同じ遺産シリーズ、互いはどのような行動をとり、どのような計画をするかもよくわかっている。
「審判」
「裂炎!」
火炎と雷撃が交錯し、ゴリアテを直撃する。
空に浮かぶ二人――ヒヨリとフクロ。その手には猛火と漆黒の稲光。
獣の咆哮のごとき炎が口を開き、無数の黒雷が鱗のように絡みつく。凶悪な高熱と爆裂が、巨人の胸甲を打ち砕き、装甲の下の施設を露わにする。
正面を逸らした巨体は致命打を避けたが、それでも左の首から肩にかけては溶け崩れ、黒煙を噴き上げていた。
【根印持つ者が……!またしてもあんたらか……!】
ゴリアテの咆哮が空気を震わせる。その頭部も壊れかけている。
「ヴラド……?」
ネモは即座にそこにいる人を発見し、隙を見て迅速に頭部へと飛んでゆく。
【もういい……!忌まわしい根印とハタがすべてをもたらしたのなら――そのハタで、あんたらを葬り去ってやる!】
全砲門が、狂気のごとく火を噴いた。狙いすら定まらない無差別の砲撃だ。
ロビイは全力で防御するが、視界の中は混沌とした弾幕で埋め尽くされる。
もはや攻撃ですらない。ただの破壊衝動。世界そのものを憎み、叩き壊すかのように。
「どうしたの?」
アルテミスがなぜか急にゴフェル向けて動きもしないフランケンシュタインに問いかけた。
「……ゴフェルが、この動力炉心が――自爆カウントダウンしています」




