おやすみ
氷が木桶に入れられて運び込まれ、皆が手分けして氷嚢や冷たい布でハルカの体を覆った。
フランケンシュタインはネモの拘束を引き受け、ヒヨリはハルカの頭を支えて水を飲ませようとする。フランケンシュタインがネモに触れた瞬間、能力が発動し、ネモもすぐに自分が何をされたか理解した。
「一時的ですが、私の擬録できみとソロの接続を遮断しました。推測によって、アルジャーノンがハルカに差し向けたのはきみでしょう……きみのデータ、もらっておきます」
ネモは抵抗する気配もなく、そのままフランケンシュタインに記憶を探らせていた。
ハルカの看護をしながら、フクロは発見したウイルス源のこと、ヴラドは天空城で遭遇した状況、遺産やソロの話、そしてフランケンシュタインもネモからのデータを読み込み、ハルカがどうやってネモを捕らえたのかまで、一つ一つ皆に説明された。
「リリスに会ったのか?」
ヴラドが焦りを隠せず問う。
「ネモのデータが正しければ、ハルカは確かにリリスに会いました。彼女は無事です。ただ中枢の研究所区域に一人で向かわせたらしい。カインが約束通りに研究所区域へ向かったら、合流できるはず、ですが……今天空城で起こったことから、その可能性は……」
「……くそ、リリスの次に、今度はカインまで……」
天空城には遺産が五体。まだ二体は姿を現していない。ハルカがネモを捕らえたのは成果とも言えるが、問題はまだまだある。
アルジャーノンの恐るべき識転の能力は想像を超えていた。ヴラドもソロがリリスをどうしようとしているのか聞き出せなかった。アルジャーノンが示した条件からして、彼らはリリスを返すつもりはないのだろう。カインの実力を信じていないわけではない、だがヴラド自身すらアルジャーノンには手も足も出なかったのだ。
ヴラドの指が無意識に強張り、骨が軋む音が響いても本人は気づかなかった。
「良い報せは、ウイルス源は一応解決したぞ。グールも、確かに弱まっていると確認できた」
セトは額の汗をぬぐいながら、フクロが持っているの刀を指差した。
「……そうか。感謝する、フクロ。その武器はお前が保管してくれるか、フクロ。今俺たちも余力がない」
「ああ、いいだろう」
「ハルカの容態も気になるが、もう夜も遅い……今日は休もう」
フランケンシュタインは黙ったままヴラドを見つめていた。
人々が解散したあと、フクロとヒヨリは住むところへと向かった。
道の途中、フクロが急にヒヨリを呼び止めた。
「おい、受け止めろ」
「なんだ……うわっ!危ないって!」
フクロは突然、刀をヒヨリに放り投げた。ヒヨリは慌てて柄を掴み、不思議そうにフクロを見た。
「……何も感じないのか?」
「は?どういう意味?」
「いや、いい」
フクロは刀を奪い返すと、黙考に沈んだ。
ヒヨリには、彼が最初に刀を抜いた時の異常な反応がまったく現れなかった。もしくは、あの記憶の断片は三人がこの世界に来たときのように、誰か別人の記憶だと思っていたが、どうやら違うようだ。
まさか、本当にあれらは全部、自分だけの記憶だったのか。
「お前、一体どうしたんだ?何も言わなきゃ、全然意味分かんないぞ」
黒髪の少年は少し黙り、ヒヨリを一瞥すると口を開いた。
「……俺が、これを抜いたとき……」
「ヒヨリ!」
遠くの角からエリザベスが手を振った。
「今日空いてるのは今だけ!進捗を見せてもらうわよ!」
「あ、わりぃエリィ、先に行ってて!すぐ行く!っでフクロ、なんなんだ一体?」
「……なんでもない」
黒髪の少年は振り返ることもなく、刀を取ってヒヨリを通り過ぎて立ち去った。
「え?あ……そう……」
ヴラドはそう長く離れていたわけではないが、それでも日が暮れる前には必ず拠点のあちこちを見て回る。年寄りに声を掛けたり、各所の作業状況を確かめたりする。
フランケンシュタインに先に戻るよう命じることもなく、黙って従わせていた。血族の数はそもそも多くない。リリスが捕らわれ、カインも行方不明になったという報せは、すぐに広まった。
それでも、誰一人としてヴラドを責めはしなかった。
畑にいた血族たちはヴラドの背中を叩いた。
「落ち込むなよ!これまでどうにかなったじゃないか」
廃墟の片付けはすでに完了しており、そこでは新しい家を建てる作業の人たちも。
「俺たちにできることは少ないけど、ヴラド、お前ならきっと大丈夫だ。優秀だらかな」
年配の人も、子供たちも。
「空の上は恐ろしい場所でしょう……私たちは何もできなくてごめんね、どうか気を付けて」
「族長兄ちゃんが一番強いんだ!どんな奴だって敵じゃないよ!」
そうしてようやく自分の住まいに戻った。
フランケンシュタインは一言も発せず、ずっと彼の後ろを歩いていたため、ヴラドの顔を一度も見ることはなかった。
ヴラドが寝室に入ると、フランケンシュタインはそこで止まる。普段は別の部屋で待機しているため、これ以上はついて行かない。
ロボットはその場で立ち止まり、自動で前に展開した光のスクリーンに映る自己診断を確認していた。流れるように羅列される発光文字が、紫色の双眸に映り込んでいる。
やがてスクリーンは閉じられた。フランケンシュタインはこれからどうすべきか思案する。
アルジャーノンの能力は、想定をはるかに超えていた。かつてフランケンシュタインが処分決定された頃、アルジャーノンはここまでの力を持っていなかった。
ネモは捕まれたが、リリスとカインを救出するのは難しい。事実を冷静に考えると、あの二人は今頃状況は大変だろう。
「ドン!」「ガン!」「ゴン!」
重い衝撃音が鳴り響き、フランケンシュタインは警戒して顔を上げた。
音の出所はヴラドの寝室だった。
先ほどまで一度もヴラドの顔を見ていなかったが、彼は、きっと笑みを浮かべていただろう。
皆が望むように自信を持ち、強く、勇敢で。
しかしフランケンシュタインは知っていた。体に刻まれた擬似根印が、ヴラドから狂ったように乱れたデータを伝えてきていることを。
それは言葉にできないものだった。ただ一つ確かなのは、死ぬほどの苦痛に苛まれているということだ。
フランケンシュタインはそっと扉を押し開けた。
「……何をしに来た」
暗い部屋には光がなく、月明かりさえ差し込んでいなかった。ハタ探知がなければ、誰もヴラドの姿をすぐには見つけられなかっただろう。
「……辛そうに見えます」
「だから?お前に何ができる」
彼は立ち上がりもせず、振り返りもせず、ただ膝をついていた。
壁一面が殴りつけられた痕で凹み、木片が割れて床に散乱している。部屋は惨憺たる有様だった。
「……そうだったな。お前は知っているんだ、俺がどれほど惨めだったかを」
フランケンシュタインは黙ったままだった。
「到底敵わない……結局リリスも救えず、カインの行方さえ分からない。なにが優秀で強いんだ……これじゃ、なにも変わってなどいないじゃないか!リリスの両親も救えず、カーミラさんも救えず……今やリリスすら、カインすら救い出せない!」
耳をつんざくような叫び。どれほどの年月を彼は押し殺してきたのか。責任感がいつから、これほど重苦しい罪悪感に変わってしまったのか。
項垂れた頭から、震える問いが漏れる。
「なぜ俺はまだ生きている……?こんな何も成し遂げない生き様を続いて……見っともねぇな……」
「ヴラド……」
「お前はいいな。そうやって、生死なんて分からなくていいな。背負うものも、要らないっしさ……」
「やめてください、ヴラド」
無機物が彼に向けた言葉は、まさに無機物らしく冷たかった。
「きみは、そんな事を言う人間ではないはずです」
「……お前に俺のなにがわかる」
「では誰よりも命の尊さを強く敬う、すぎる怒りで私を壊しようとしたあのヴラドは、偽物ですか」
「……だから、機械に何がわかるんだ!限界があるんだよ!人間には!背負って背負って背負続けて、俺にはもう……!」
「なら、私も共に背負いましょう」
小さな部屋に、ようやく静寂が訪れた。
青年は、信じられないようにロボットを見ていた。
「カーミラのことも、リリスのことも、これからのことも、私が出来損ない機械だからと、きみにデタラメしか言えないからと、過ちは私にすれば、ヴラドはこれ以上苦しなくなります。私は、血も涙もない道具ですから、何も感じませんゆえ、これこそが、私ならではのやりたいことです」
「……そんなの、ただの言い訳だ。すべて道具のせいに押し付けるなんて、俺が逃げたってことじゃないか」
「そう……ですか」
「……でも、そうだな」
まるで一瞬にして全身の力を吸い取られたかのように、青年はふらつきながら床に倒れた。
「ただの道具は、こんなこと言えねぇしな」
「ヴラド!」
倒れる前に、フランケンシュタインが慌てて彼を支えた。
雲が流れ、窓から冷たい月光が差し込み、二人を照らす。
永く、静かな時が流れたのようだ。
「まだ、手は残されています」
フランケンシュタインはそう告げた。
「私たちにはネモを持っています。今回得られた情報から、ソロの目的も推測できます。まだ反撃の余地はあります」
腕の中の青年はその意味を掴んでいない。
「反撃……こんな状況で……あいつらの目的を知ったって、かなわないだろう」
「リリスとカインがまだ安全かもしれません。それに、ヴラド、きみの力にはまだ大きな可能性があり、もっと強くなれます。ブリットンスの人から得た情報を読み込めば、方法はきっとあります」
「……なぜだ」
ヴラドは、余計目の前の機械のこと分からなくなった。
「なぜお前はこんなことをする。俺の命令でもなく、ただ人間を理解するには、ここまでする必要は、何だ」
「まだ、ヴラドの笑顔を見ていません」
「……?」
「まだ、ヴラドの全てを見ていません。それがないと、完成なる分析もできません。理解も、できませんから」
「……そりゃ難しいぞ。いまは笑うところなんかじゃねぇんだからな」
「そうですね。ですから、私もヴラドの力になります。すべてを解決できたら、ヴラドの笑顔に関する記憶を、頂きたいです」
「……本当どういうやつがお前を作ったんだ?さっきから変な発言ばっかだぞ」
「すみません。やはりこういう勝手な主張はだめ、でしょうか」
ヴラドは肩をロボットに預けた。
「……いや」
その言葉の後、また沈黙が広がった。
「ヴラド……?」
眠っていた。
青年は冷たい鋼鉄の体に抱かれたまま、安らかな寝息を立てていた。
フランケンシュタインは彼を抱き上げ、起こさぬように注意深くベッドへ運ぼうとしたが、ヴラドは腕を放さなかった。眠ったまま、強くロボットの腕を握り締めていた。仕方なく、ロボットも一緒に横になった。
月光が青年の顔を照らす。ロボットは思わず見つめた。
こういう時に、人間が言う言葉はーー
「……おやすみ、ヴラド」




